第3話 春と芽吹きと広がる世界……お先は真っ暗?

 「春だよ~。春だよー! 春だよっ!! 外で歩くのは初めてだよね! ユーリャは!!」

 「かあさん、はしゃぎすぎ、はしゃぎすぎだから」

 「だって春なんだよ~~!!」

 「わかった、わかったから」

 気持ちはわかるが落ち着いてくれ。

 草木の芽吹く野原を、くるくると回りながら器用に走り回るタチアーナこと母親を、甲高い声で窘めながら、僕もよたよたと春の陽射しの下を歩いていた。

 僕の住む家の目の前には、雪解けで湿地のようになった平地があり、苔や草がひょろひょろと生えている。

 平地の面積はサッカー場二つ分くらいだろうか。

 その真ん中には畑らしき痕跡があった。その周辺に幾棟かの小屋が建てられている。

 僕の住む家は平地の隅にあり、裏手には針葉樹のちょっとした林があった。その林を抜けると貴族様の館があるのだとか。

 平地を挟んでその林の反対側には、比較にならないほど広い森が茂っていて、森の前には害獣の防止用なのか柵が作られていた。

 この土地、前世感覚(ただし首都基準)ではかなり広いが、母曰く「狭いんだけどねー」だそうだ。

 というのも僕たちが住む領地はほとんどが森であり、平地はほんのわずからしい。だから領地の面積に比べて住む農奴の数は少なく、数十人しかいないのだそうだ。

 で、そんな所で、ぬかるみに足を取られながら僕は歩いていた。雪が解けたばかりの草地というのは実に歩き難い。

 それにしてもようやっと長時間歩けるようになった。こっちの赤ん坊がどれだけの速度で発達するのかは知らないが、結構な時間が経っているはずだ。

 とはいえ母にも生まれてどれくらい経ったかと聞いたら、「あとちょっとで二年くらい?」だそうなので、それでこれだけ歩けるということは、こっちの肉体は成長が早いのだろう。

 記憶的に、こちらに来てから一年しか経っていないが、恐らく生後一年ほどであの洗礼を受けたのではないだろうか、と僕は考えている。転生と言うより憑依と言った方がいいかもしれないな。

 

 まあ、兎にも角にも、長い長い長い冬を経て、遂に春が来た。本当に長かった。

 この世界は冬が実に長い。多分、地域が猛烈に関係しているのだろうが。


 しかし春夏秋冬があるということはやはり世界は球状で、地軸が傾いているのだろうか。いや、もちろん僕の知るコスモロジーとは全く違うという可能性もある。

しかし春夏秋冬という概念自体、地球の地軸の傾きがなければ存在しない、特異なものであるはずだ。

 例えば、この世界を、僕の前世における世界観を知っている誰かが作っていると仮定しよう。そうしたならば、世界は平面なのに四季があるという論理破綻した世界も構築されているかもしれない。

 しかし流石にその仮定は考え難い。

 と、するならば、ここはやはり地球かそれに類する惑星で、地軸が傾いているということになる。

 ……考えるだに頭が痛くなるが、平行世界とかそっち系統なのだろう。中世の某イヴァン帝国にタイムスリップしたのかとも考えたが、魔法の存在を知ってその考えも捨てた。

 考えてみればそもそも人間がいることが、つまり塩基配列が同じであろう生物が存在していることがまず神秘である。というかもう、そもそも生命が存在しているだけで神秘である。

 魂の存在とか転生の説明なども量子力学で実はつけられ……そうにはないよね、流石に。


 「ユーリャ――! おいで~~!」

 完全に思考の坩堝にはまっていた僕を、母が呼んだ。

 ゆるやかな丘の上に立ってニコニコと笑い、手を叩きながら僕を緑の野に誘っている。本人も犬のようにはしゃいでいるが、その瞳には暖かな母性が宿っていた。

 まあ、楽しい人だ。

 「ちょっとまってね」

 だから僕も笑って、まだまだ慣れずに何度もこけそうになりながら、母親の下へ一生懸命歩いた。中々しんどい。

忘れられがちだが、赤ん坊にだって筋肉痛はあるのである。というかむしろ、今が人生で一番筋肉痛が激しい時期であるかもしれない。

 「がんばれ、がんばれ、あとちょっと!」

 ひぃひぃ言いながら歩く僕を、タチアーナは真剣な声で励ましていた。心配そうだが、しかし嬉しそうな声だ。僕の成長に満足しているのだろう。

 

 「おーう、タチアーナにユーリーちゃんじゃないか。今年も良い春だな」

と、しばらく野原で運動の苦しさを味わっていると、坂の向こうからえらく毛むくじゃらの男がやってきた。肩には娘らしき小さな女の子を乗せている。知った顔である。

 何度か僕の家にも来て、飯のおすそ分けをしてくれた、気前と面倒見の良いおじさんであった。

 「あらイヴァーノフ! 良い春ね。スヴェトルーナもこんにちは~!」

 母が挨拶を返した。どうもおじさんはイヴァーノフというらしい。娘はスヴェトルーナだ。

「ユーリャ!! もう歩けるの?」

 イヴァーノフの肩の上、彼の太い首を抱きしめるようにして乗っているスヴェトルーナが僕に話しかけてきた。ナチュラルに茶色味がかった金髪に、吸い込まれそうな灰緑色の目。白く、磁器のように滑らかで、しかし木のように暖かそうな質感の肌。

 見た目からして、こちらの子は人形か何かのようだ。それか妖精。どちらにしろ、どこか人間味の薄れた美しさがある。

 スヴェトルーナは見た感じ七、八歳だろうか。

 「あるけるよ、ヴィーシャ」

 それにしても発音が安定しない。どうにも舌っ足らずになってしまう。スヴェトルーナを愛称でヴィーシャと呼ぶのは、舌が絡まりそうだからだ。

 「すごい! ユーリャが喋ってる!!」

 そして彼女は実にうるさい。耳がキンキンする。

 こういう微妙に迷惑なところも含めて、スヴェトルーナ――つまりヴィーシャ――は妖精のような少女だった。

 ちなみにこのユーリャという呼び名もやっぱり愛称である。僕の本名は、さっきイヴァーノフのおっさんが呼んだように『ユーリー』だ。

 正直こっちの愛称関係は慣れるまで結構苦労する。

 「そりゃ、しゃべれるよ。みんながずっとぼくのまわりでしゃべってたし」

 言語が話せなかったら社会に参画できない。向こうの世界の資本主義社会においてですら破滅すること間違いなしだ。

 しかもここは中世風でバカ寒い凍土である。庇護を失った瞬間死ぬと断言できる。そりゃあ、必死に勉強するしかない。

 「腹が減ったとか以外で泣かないし、不思議な子だと思ってたが、成長が早いな。そろそろ生まれて二年とは言え、ここまでしっかり歩けるとは驚いた」

 イヴァーノフが髭をしごきながら驚いたようにつぶやいた。

 「そうでしょう? 私もびっくりしちゃって! 本は無いのかとか魔法って何だとか聞いてくるのよ! ソフィー婆さんもびっくりしてたわ」

 「そりゃまた……すげえな。体内に流れる魔力の量が多いと、体力や知力なんかが増強されるらしいが……。貴族様の館で働かせてもらえるんじゃないか?」

 「ユーリャすごい!!」


 ……魔力がどうとかは知らないが、とりあえずウィリアム・ジェイムズ・サイディズをググりたまえ。彼は生後六ヶ月で言語を理解し、生後一年半でニューヨーク・タイムズを読みこなした。二歳であのクソみたいなラテン語を習得したとかいう化け物だ。

 それに比べて、僕は転生しているのだ。言語の重要性は身をもって知っているし、加えて赤ん坊の吸収力の高い脳みそまで装備だ。それで一年半ほど言語理解にかかったわけなのだから、僕はまあ、強くてニューゲームを始めた凡人程度だろう。

 もっとも、ろくに教育が受けられない中世農民としては破格なのは間違いない。この歳でしっかり歩けて流暢に喋れるなら、僕の前世でもびっくりだ。

 本や教育機関がないのが全く残念で仕方がない。この時期に詰め込まないでいつ詰め込むのだ。ここでしっかり英才教育を施してもらえれば後々身を助けるだろうに。

 身分が低ければ能力でのし上がるしかないのだ。能力をつけるにも身分が必要なのは難儀だが、こんな凍土で一生農民なんぞやっていられない。

 前世の某プーティン帝国ですら男性平均寿命は六十歳代なのだ。この文明レベルでは真面目に先が知れる。駆け足で生きなければならない。

 ……まあ、実力主義がまかり通るほど官僚制が整備されているようにも思えないが。科挙があった中華は偉大である。

 中華万歳。

 『アカ』と『けざわひがしさん』のせいで一気に退化した気もするけど。

 「で、春になったし、新春の会はどうするんだ、タチアーナ。ユーリャもそろそろお見せしないといけないだろう」

 「あらあら、今年もご招待があったの?」

 「お食事会だ!!」

 「まだだが、まず間違いない。奇特なことに、な。春になって農民が貴族サマにご挨拶するのはどこでも一緒だが、農民交えて食事会するのはうちの所くらいだろう。……あとヴィーシャ、耳元であんまり叫ぶな」

 ほほう、何やら興味深い内容が。

 「なに、それ。どういうこと?」

 領主と会う機会があるのか。今まで家の中に篭りっきりだったこともあって、貴族の姿など見たこともない。存在は知っていただけに興味があったのだ。あまり期待はできないが、良い関係を築くに越したことはない。些細なことで罰はごめんだ。

 「ああ、ユーリャは知らないものね~。お母さんたちがお仕えしてるご領主様たちはお優しくてね、毎年春になったら私たち農民や召使いさんも一緒にパーティーを開いていただけるの」

 「おいしいご飯が食べられるんだよ!!」

 「へぇ……」

 そんなことがあり得るのか。僕としてはかなり意外である。

 封建領主とは基本的にもっと領民をゴミか何かのように扱う者たちだと思っていた。口ぶりから察するに、この世界でも珍しいことではあるみたいだが、優しい領主がいるとは嬉しい誤算だ。

 是非、行ってみたい。貴族に気に入られておけば、何かと良いこともあるはずだ。この狭い世界なら、僕も立派に神童として扱われるだろう。チャンスである。

 「でも幾ら成長が早いって言っても、まだ生まれて一年も経ってないわ。何か粗相があったら……」

 「なぁに、タチアーナ。向こうだって血の通った人間だぞ? しかも農奴の俺たちを招いてパーティーを開くほどの奇特な方々だ。生まれて間もない子供が何かしでかしたって、殺されはしないさ」

 そうだ、いいぞイヴァーノフ、もっと言ってやれ。

 「でも……もし貴重な宝物なんかを壊してしまったら……」

 「ぼく、そんなことしないよ」

 何としても行かせてほしい、タチアーナよ。貴族と顔を繋ぐのは早ければ早いほど良いのだ。

 何せ、時間と命は有限なのだから。

 「ユーラチカもこう言ってるし、いいじゃない!!」

 「そう……ねぇ」

 よし、いいぞ、揺らいでいる。

 幼子特有の『わがままが通るか判定センサー』に確かな手応えを得た僕は、畳み掛けるように言った。

 「ぼく、さほうもおぼえるし、ことばもおぼえるよ。だから、いっしょに、いかせて?」

 潤んだきらきらの瞳まで装備し、零れ落ちそうなくらい眼をしっかと開いて、母親の眼を見つめる。

 「もう……。もしもご招待があったら、だからね」

 「やったー!!」

 勝った。気分は目当てのおもちゃを買ってもらった三歳児だ。たまにはわがままも言ってみるものである。

 「良かったね、ユーラチカ! いっぱいご飯が食べられるよ!」

 ああ、食事も実に楽しみだ。何せようやっと離乳したというのに、飯もマズイのだ。

 自然の味といえば聞こえは良い。しかしこの世界に来て僕は確信した。調味料とは偉大だ。

 大航海時代、香辛料が高値で取引されたのもむべなるかな、といったところだろう。

 

 「まあ、小さな子供連れでもいいか、領主様に聞いておいた方が良いとは思うがな」

 「そうね、どっちにしろ、招待状が来たら今度ユーラチカも連れて館に……」


 「ね、ユーリャ、どれくらい歩けるの? 向こうに行ってみない?」

 「どろどろだよ?」

 「それがいいのよ!」

 大人が真面目な話を始めたのを尻目に、僕はスヴェトルーナに手を引かれ、そのまま泥だらけになって遊び始めた。

 肉体はともかく、精神年齢的に、こんな歳にもなってやることがそれかと自分でも思ったが、それでも遊びたい衝動を抑えられなかった。

 気付けば、走り回って、転げ回って、跳ね回っていた。

 春とは、こんなにも嬉しいものなのか。

 春とは、こんなにも楽しいものなのか。

 と。

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凍土転生――孤独な大地にて―― @O-Freunde11

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