第2話 新しく古くそして訳が分からない……どこまでも冷たい世界。

 こちらに来て一体何日が経ったのか。

 ひょっとすると、僕の身体の成長から見て半年は経っているのではないか。所と時をかまわずひたすら寝まくっているので、いまいち正確な時間が分からない。

 まあ、赤子として生きるというのはなかなか鬱憤の溜まる経験であった。幼子は、何も出来ない。それが僕たちを煩わせていないのは、その頃の僕たちには確固たる自我も記憶もないからだ。

 つまり確固たる自意識と記憶があれば、僕たちの尊厳意識はめちゃくちゃだ。

 ……僕のように。

 本来赤子は脳が未熟なので、羞恥心も自尊心も持ち得ないはずなのだが。

 脳と魂の関係について真剣に考察してみたいところである。


 しかしともかくも、身体が自由に動かない。これが一番苛立つ。前世ではそれなりに運動が得意だっただけに、立つことすらままならない今の自分にはほとほと失望した。

 しかしまあ、これは時間が解決してくれるだろう。何故ならこちらでも大人はきちんと歩いているからだ。

 一番深刻でどうしようもない問題は……文明レベル、生活環境、そして生活の質の低さだ。

 まず、ここの生活レベルは中世レベル。

 言っておくが、十六、七世紀のフランスとかイギリスとかの、栄華を極めた『近世的中世』ではない。アレだ、リアル封建貴族がいて、小国が乱立して、ゆるい共同体を作っているような感じである。解りやすく言うとH・R・E的な。

 まあ、端的に言えば、生活水準は聳え立つクソである。ゴミである。多分古代ローマ帝国とか古代ギリシアとか古代メソポタミアの市民の方が、良い生活をしていたに違いないと断言できる。

 まず外、何回か母が僕を抱きかかえて見せてくれたのだが、まあ、雪と氷と針葉樹林である。実は氷の下に畑があるらしいのだが、土地が痩せているのは間違いない。

そして内、家だ。丸太小屋である。むき出しの丸太小屋だ。暖炉もない。まず煙突がないのだ。窯は屋外にある。

 ……よく僕は生きていると思う。信じられないだろ? 氷点下数十度にまで下がるのにペチカとかないんだぜ?

 暖炉を造るレンガなど贅沢品ってそうじゃないんだよ死ぬんだよ。


 まあ、辛うじて囲炉裏的な何かがあるにはあるが。

 あと、地味だが、おむつだ。

 高分子吸水ポリマー、アレが欲しい。あの前世の、恵まれた国に生まれた幼児は何と幸せなのか。……もっとも、その恵まれた国というのはごく一部なのだが。

 こっちが今はかされているのは布おむつ的な何かである。素材はよく分からないが、まあ、言わせてもらえば、その、なんだ、かぶれる。

 もう何か、どうせなら裸にさせろよ! と変な逆ギレをしたくなるほどにアレである。

 しかし衛生面に関しては、赤子とその母親ということで僕らは多少優遇されているようだった。


 というのも、この世界には『魔法』のような何かがあるらしいのだ。

 流石に杖を振って炎がボンというほど安直ではないが、切り傷を治す魔法やら、寒さをしのぐ魔法やら、生活に密着してくれている実にありがたい技術体系である。

 よくわからん生き物から剥いだ皮によくわからん陣を描いて、一言呪文を唱えればあら不思議、汚れや垢や虫までも落とすうえに、赤ん坊の敏感な肌にも優しい魔法のタオルの出来上がり、というわけだ。

 使える人間はどうも、この農村で一番の老婆――ソフィーと呼ばれている――だけであるようなので、普通の住人は週に二回ほどしか汚れを落とせないらしいが、そこは幼子の特権である。何と毎日、毎日だ。

 風呂に入れる、とかそんな贅沢ではないが、実にさっぱりして心地がいい。ソフィーが死んだら技術が途絶えてしまうので、是非とも継承したい所である。

 まず言葉を覚えることが、一番の課題ではあるのだが。

 いやはや、結構僕の周りには僕の母親であるタチアーナを始め、お喋り好きなおばさんたちがいてくれているのだが、ほとんど理解できない。

 柔らかな幼子の脳みそと、優秀な僕の魂がハイブリッドされているのだから、もうちょっと理解できても良さそうなものだというのに。


 タチアーナは彼女は母親ではあるものの非常に天真爛漫、好奇心旺盛、明朗快活な人であり、言っちゃあ何だが子供っぽい。

 ただ、僕のことをめちゃめちゃ可愛がってくれるし、そんな風にじゃれつかれるのは僕としても中々楽しい。

 ちゃんと世話もしてくれるし、いい母親である。

 少しばかり前世との葛藤もあるが、それでも愛情を注いでくれているのだから、この人をお母さんと呼ぼうとは素直に思えた。

 ……まだ口がうまく回らないので、とりあえず僕もじゃれるくらいしかできることがないのだが。

 父親は死んだのか、はたまた何処か遠くへ行っているのか、それともアレな理由なのか、未だ見たことがない。

 しかし、色々なお姉さんやおばさんが子育ての手伝いに来てくれたり、おっさんとか小さい子供がたまに差し入れを届けに来てくれていたりするので、まあ、僕を育てることに関してはそれほど苦労もないようだった。

 ……僕を育てることに関しては。


 生きることに関しては、別であった。

 この世界は、寒かった。

 そして、僕たちは、あまりにも恵まれていなかった。

 この世界は、異様に、僕の故郷が生ぬるく感じるレベルで、寒く、凍てついていた。

 先に言ったとおり、丸太造りの家には明かりもなく、暖炉すらない。勿論ながら風呂もない。暖房魔法がせめてもの救いだが、あまりに術者の負担が大きすぎる上に、需要に対しての供給が全く釣り合っていない圧倒的に劣悪な生活環境。

 動物がいる分暖かいだけ、家畜小屋の方がマシかもしれない。

 いや、というよりも、僕たちはまさに家畜なのだ。

 僕が転生したのは、おぼろげに聞き取る限り、ルース帝国のケーロフ地方のローザノヴァ領。そして母は、そこの領民らしい。

 しかし、領民といっても『農民』ではない。

 『農奴』だ。農奴なのだ。

 一切の人権と自由がない、某イヴァン帝国的な、悪名高き凍てついた土地の奴隷である。

 常に領主と土地に縛りつけられ、領主が金に困ったりした時など、場合によっては本当に奴隷同然に市場で競売にかけられる。一切の移動の自由はなく、町に出稼ぎに行くだけでも領主の許可が必要で、更には結婚の自由までない。娘を何処かに嫁がせるだけでも許可が必要で、結婚相手を領主が勝手に決めるなどもざらである。基本的にとにかく自由がない。

 何か粗相をすれば些細なことでも悲惨な罰が待っている。具体的には氷点下数十度の環境で鞭打ちとか。正気の沙汰ではない。死んじゃう。

 時には召使にされ、料理や洗濯、掃除、裁縫を押し付けられる。或いは性奴隷だ。好色な領主の土地では、農奴の女性の大半が『お手付き』であったとも聞く。

 そして戦争の時には真っ先に徴兵され、貴族に率いられて死地へ赴かなければならないのだ。

 某アカの国が『奴らの兵隊は畑から採れる』と揶揄されるそもそもの所以である。いや、正確にはあの国の前身だが。

 ともあれ、人生の全てを凍土で過ごし、痩せた土地で前近代的な三圃式農業をしなければならない底辺中の底辺である。出来た農作物もほぼ貴族様へ献上しないといけない。

 そればかりか、望まれれば望まれるだけ、自分がどれだけ大切にしている物でも領主へと捧げなければならないのだ。

 カースト制でいうならシュードラの下の不可蝕民だ。多分平均寿命は四十を割る。

 農奴についての勉強なんてほとんどしたことがないが、大体あってるはずだ。


 そして、僕の母親は、農奴だ。

 農奴の子もまた農奴だ。

 ということはつまり、僕も農奴なのだ。

 ……僕も農奴なのだ。


 何故だ。何故なのだ。神様、何故なのですか。僕が、わたくしめが、一体何をしたというのですか。一人で転んで川に落ちて溺れて死んだだけではないですか。

 それは、もちろん、僕は恵まれていました。けれど、その分、必死に頑張ったではないですか。誰に対しても、基本的に良い人間であったではありませんか。

 なのに、だというのに、何故、何故に次の人生が中世の農奴なのでありましょうか。別に、貴族にしろというのではありません。ただ、せめて西欧の栄えた国の近代に生まれるか、できれば二十世紀後半以降の先進国に生まれたかっただけなのです。中世の農奴とはそれ即ち生き地獄も同然ではありませんか。

 どうか、どうかご再考を。


 など、僕が農奴であると知ってからの数十日間、神に陳情したり祈ったり呪ったりしたが、真に遺憾ながら状況は改善しなかった。

 転生したということは、即ち魂が存在するということ。

 魂が存在するならば神も存在して然るべきなのだが。

 全く、職務怠慢もいいところである。

 第二の『人生』、大変結構。農奴はまず『人』として扱われないことを考えなければ狂喜してもいい。

 それとも何か、この世界では農奴は優しく扱われると? 怪しいものだ。

 そもそも暖炉が無いという時点で何とも言い難い。僕の故郷より寒いというだけでも死にそうなのに。


 寒さといえば、この世界では少なくとも故郷の冬以上の寒さが延々と続いている。

 僕が生まれたのが、恐らく夏だったのだろう。そこから洗礼を受けて僕の自我が宿り、それから一気に冷え込んだ。多分、今は厳冬期だ。

 結構な頻度で外に出て行く母が、凍死していないのが信じられない思いである。僕も祖父との鹿狩りやら何やらで、耐寒性においては一家言持っていたが、上には上がいる。


 嗚呼、それにしても何故農奴なのだ。生き地獄ではないか。春は来ないのか。せめて寒さが緩まないのか。あと腹が減ったのだが母は何故十分前に家を出て行ってしまったのか。

 勝手に涙を流してえずきだす自分の肉体にほとほとうんざりして、留守番をしてくれていた近所の太ったおばさんを暗澹たる思いで眺めた。母の子育て友達であるらしい。

 ……でっぷりとしたおばさんの乳を吸う趣味など、健全たる青年だった僕には全くないというのに。

 にっこりと笑いながら乳をさらけ出し、のっしのっしと歩いてくるおばさんを見て、まことに失礼ながら軽く吐き気を催しつつ、僕はあまり仲のよろしくない自分の身体とシンクロした。

 つまり、泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る