凍土転生――孤独な大地にて――
@O-Freunde11
第1話 成長と死亡と転生と……そして?
さて、僕は極めて、そう極めて全うに生きてきた。法律を犯したこともなく、いじめなどで人を傷つけたことも無い。
勉学にも真剣に勤しんだ。猟師のお祖父ちゃんから体育会系精神も大事だと言われ、空手や野球やスキーをやらされてそれなりに健康にも育った。
小学校の頃から、春休みや夏休みや冬休みの度に祖父ちゃんに山に鹿狩りに連れ出され、何度も死にかかったのだからサバイバル技術にはそこそこの自信がある。
更に僕は物心つく頃から本に異常な興味を示し、読みふけりながら小、中、高と公立校で塾にも行かず成績を伸ばし続けた。さぞ親にとってリーズナブルで出来た息子であろうとの自覚さえあったのだ。
もっとも、親が銀行員に教員という、文句なしに恵まれた環境で何不自由なく育った故だったのだろうが。
しかしまあ、北の果てだの、都会にヒグマが出るだの、試される大地だのと好き勝手言われる故郷に別れを告げ、他の仲間と共に受験知識を頭に叩き込み、赤い門を潜ったのがもう三年前。無事入学して教育を受ける権利を勝ち取った日のことは未だに覚えている。
で、だ。
僕は今、月と星の光が眩く広がる下で、降下していく体温の中、ただ寒いと感じるままに、昔のことを、まだ二十余年しか生きていない人生を、眼前に映し出していた。
就活が激化する中、ゴールデンウィークに少しばかりの暇を見つけ、少しでも故郷の空気を吸おうとしたのが間違いだったのか。
もうこれが、現実なのかも分からない。体に感じる感触は、ただ寒いというよりはもはや、命を削り、吸い取り、侵食する冷たい怪物が、僕の中身を徐々に飲み込んでいくような虚脱感だった。
最後によぎるのは、何分か前の事故の光景。
僕は借りた自転車で、月明かりの中、祖父ちゃんの家の近くの、電灯もほとんどない河原の土手を爆走していた。
窮屈な都会を思い、そこで一生をせせこましく生きてきた奴らに、自分の故郷を誇るような気持ちで走っていた。自分がこんなにも広く、荒涼とした、しかしそれ故に心地よい場所に生きていたことに改めて気付き、感嘆の声をあげていた。
春とはいえまだ白い息が出るが、だからこそ澄んだ空気がある。あんなにも明るい月と星が僕を照らしている。誰か他の人を照らしているのではない。孤独に走る僕だけを、孤独な光で照らしている。
その寂しさが、狭苦しい都会から帰ってきた僕には懐かしく、愛しかった。
……と、そんなことを考えながら上を見て走っていたものだから、僕は地面から飛び出た木の根と石に気付かず、タイヤを弾かれ、ハンドルを取られ、誤って細い道から川側に外れてしまった。
パニックになって自転車のサドルからお尻が滑り落ち、そのまま土手の坂を転げ落ちる。
川べりには木の柵が設けてあったが、古くなっていたのか、いとも簡単に折れて僕の体重を支えようとはしなかった。
……そして基本的に、北の国の五月初旬の田舎の川とは、雪解け水の大暴れする所である。はっきり言って、アホみたいな濁流である。
そういうわけで、僕は荒れ狂う川面に迎え入れられた。
心臓が驚きと恐怖で勢いよく跳ね回り、冷たさでぎゅうっと締め上げられる。心臓が止まるような、とは比喩ではなく現実だ。
口と鼻に一桁台の温度が侵入し、粘膜を突き刺す。
氷よりも冷たいのではないか。そんな矛盾した戯言が頭に浮かび、身体と一緒に激流へと流された。
そしていつの間にか、僕は岩と岩の間に挟まって止まっていた。辛うじて目が覚め、顔を何とか空気に晒したが、それが限界でもあった。
荒れ狂っているはずの水音すらもう聞こえない。寒さという名の怪物は、僕のほとんどを食べつくしてしまったようだ。凍死するときは仮死状態になる関係で、多少は蘇生率が上がるらしいが、期待できるほどでもない。例え助かっても四肢はもげているだろう。
ここまで満足に生きてきたというのに、仕様もないことであっけなく終わってしまう。僕は、死とはもっとロマンチックでダイナミックな出来事だと思っていた。
しかしなるほど、死とは理不尽で、かくもあっけないものなのだ。
今は深夜。ひょっとしたら心配した家族が探しに出ているかもしれないが、恐らくは間に合わないだろう。
助けを呼ぶのに口を開くのすらもう億劫だ。
寒さという名の怪物は、僕の生きようという意志をも食べてしまったようだった。
目の前が霞む。頭上の星たちがぼやけて、夜空全体が光の網に絡め取られる。淡く霞んで光に包まれた視界が、徐々に、そして更に光に満ちていく。
もう目を閉じているはずだ、そのはずだ。しかしゆっくりと瞼に覆われたにも関わらず、僕の周りは光に満ちている。
なるほど、もう、駄目らしい……。
恵まれた人生を送らせてくれた両親にありったけの感謝をして、ありったけの謝罪をして、祖父ちゃんに脳内で殴られて……。
そして僕の全てを、寒さという名の怪物が、ずるり、と飲み込んだ。
――その筈だった。
寒かった。
そりゃもう、アホかと叫びたくなるくらい寒かった。東京に行って滅多に使わなくなった、「しばれる」という言葉を思わず口走りたくなる程度には寒かった。
ざばあ、と水から取り上げられる感覚がした。……大気の流れは、水に濡れた僕から更に熱を奪い取った。
とりあえず息をしようにも、寒すぎて肺が縮み、ひっ、ひっ、と引きつるような呼吸しかできなかった。簡単に言うと、命の危険を感じた。……とうに危険を感じる命は消えていたはずなのに。
ごわごわした何かで僕は包まれた。そのうえで、地面に横たえられたようだった。
そして寒さとは別個で、右のわき腹が刺すように痛かった。そこだけが灼熱の痛みを持っていた。
震える息を吐き、何とか目を開けると、青空をバックに見知らぬ人がいた。白人のような顔かたちであった。白い地に、金糸で細かな修飾が施された豪奢な服を着ていて、首からはガムテープの芯くらいの大きさの、銀色に輝く丸い輪を下げていた。
……つまりは、不審者がそこにいた。カルト系であった。
彼は安堵したような表情を浮かべ、僕に何事かを話しかけると同時に頭を撫で、聞いたこともない言葉で呪文のようなことを呟き始めた。右わき腹の痛みが、次第にうねり、引いていく。
……何だ、何なのだ。
流石に状況が掴めなかった。僕は雪解け水に呑まれて死んだのではなかったのか。奇跡的に助かったのか。しかし何故胡散臭い奴に胡散臭いことをされねばならないのか。助かったのならここは病院ではないのか。
それとも何か? カルトな方が川べりで死に掛けているバカを見つけて、親切にもカルトなお経をあげてくれているのか? 成仏できるように?
僕は来世的な救いよりも、現世利益的な救いを求めたいのだが。具体的には救急車を。
というかもうとにかく寒い。めっちゃ寒い。死ぬほど寒い。
が、そこで震えながら僕はふと違和感に気付いた。
青空である。
何故太陽が出ているのか。僕が川で死のうとしていたのは深夜だ。
あの時、僕ははっきりと自分の呼吸が止まるのを知覚した。いくら奇跡が積み重なっても、いくら仮死状態だったとしても、朝まで命を保てるはずがない。
混乱する僕にカルトな方は呪文を唱え終えると、もう大丈夫だと言うように、ひょい、と僕をその胸に抱えあげた。
僕を、決して体重も身長も小さくないこの僕をいとも簡単に!
すわ、巨大化したハイパーカルト人かと我ながら訳のわからない思考を弄び、周りの様子を見てみるとどうもおかしい。
その違和感が何なのかを突き止める前に、ハイパーカルト人が僕を誰かに手渡した。そう、僕は手渡された。しっかりと抱えられ、体重を支えられた。
ハイパーカルト人は二人いたのか!? と頭の片隅で疑問を積み重ねながら上を見ると、そこには女性がいた。赤い毛織物の服を着た、金髪の、少し痩せて頬がこけているが、それでも美しい女性だ。
女性は僕に満面の笑みを向けると、何事かを嬉しそうに言いながら僕の鼻をつつき、頬を押し、額にキスをする。まるで母親のようだった。
僕はその感触にむずがゆさを覚えながら、横を向く。先ほどのハイパーカルト人と目が合った。女性がくすくすと笑っていた。
流石に僕にも何が起こっているのか分かってきた。
ちょうど人に抱かれて、少しずつ寒さが収まってきた。未だ歯の根はあわないが、手足を少し動かす程度なら問題ない。僕を顔以外すっぽりと包む毛皮から、手を頑張って引っ張り出す。
果たして、その僕のものであろう手は、小さな小さなもみじのようなおててであった。
僕は、はっきりと気がついた。
周りが大きいのではない。僕が小さいのだ。
一度思い付けば、カルトの巨人族よりよっぽど説得力があるように思えるが、しかし、やはり、荒唐無稽だ。
夢か何かではないか。
そう思うも、しかし、こんなにも世界は明瞭で、何より僕は目が覚めるまで死にかけていた。というか死んでいた。
あの死も夢だったのではないか。
だが、あの死の感触を、無に呑み込まれる感触を、はっきりと感じた体は、あれが夢か何かではないと完全に確信していた。
故に、僕は見知らぬ女性に抱かれながら、半信半疑ながらも、ある考えが頭の中で徐々に肥大化していくことを抑え切れなかった。
すなわち、転生。或いは、憑依。
そうすれば、割と色々なことに辻褄があう。僕が死んだことも、僕が今小さな手をしていることも、僕が抱かれていることも。
僕がこっちでも水に漬けられていたのはよく分からないが、カルト人の服装や僕の肉体の幼さを見るに、恐らく宗教的な儀式だろう。洗礼のようなものか。
川で死んだ青年が、川で死にかけながら儀式を受けていた幼児に憑依する? 何の冗談だ。と、そう思いたい気持ちはやまやまだ。
しかし、多分この元の幼児も寒さでショック死したのではと思うと妙に筋が通る。魂の失われた幼児の器に、僕が入り込んだ、と考えれば……。
あの死の感覚が紛れもない本物だったことが、僕をこんな非現実的な思考へ誘っていた。
無理があるが、多分現実だ。仕方ない。と。
そしてそれは、不幸なことに、余りにも不幸なことに、この現実は、真実であった。
「ユーリャ」
母親が僕を見て、優しげに微笑んだ。
僕は長く、長く苦しむことになる。
何故そんなにも幸せそうに、そんなにも優しげに、貴女は笑えたのですか、と。
この全てが冷たい世界の下で。
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