ワタシは解離性同一性障害なのです

 織本叡一おりもとえいいちは、生真面目だった。彼は、他人の評価というものに対して非常に敏感で、端的に言えば周囲の人から〈いい人〉と思われたい人間だった。このため、彼は親や教師から「毎日、勉強しなさい。」や「人の嫌がることを進んでしなさい。」と言われればそうしたし、学級委員や生徒会に進んで立候補した。その甲斐あって、彼は、頭が固く融通の効かない部分もあるが、成績優秀で真摯に仕事に取り組む、役立つ存在と認められていた。


 しかし、進学するに連れ、織本が、そのスタンスを維持することは難しくなっていった。授業の難易度は上がり、周囲の人々も多様になり、評価されるに足る基準も高くなっていった。彼は、なんとかそれらの困難に食らいつこうと懸命に努力した。ただ、他方で、クラスメイトが不良少年・少女に落ちていき、自由気ままに楽しそうにしているのを見るようになると、自らの努力の不毛さをひしひしと感じるようになった。


 織本は、生真面目ではあったがゆえに、不真面目にはなれなかった。欲望に負け、不良少年に落ちることは彼にとって魅力的な提案だったが、不良少年達が親や教師から疎まれているのを見ると、不良の道に踏み出すことはできなかった。まだ若いとはいえ、自らがこれまで必死に積み上げてきたものを崩してしまう恐怖は、不真面目になる快感を遥かに上回っていたのだった。これにより、織本は雑念に負けず何とか真面目に生きていた。この姿勢が周囲の人からは〈優等生〉と見做された。


 優等生と見做されると、周囲からの期待は益々高まった。織本を称賛し、将来を期待する声は増え、次第に彼の歩むべきレールが勝手に構築されるようになった。周囲からの「織本くんは本当に優秀ね。どこに進学するの?」「将来何になりたいの?」という問いかけは、即ち、織本が彼ら・彼女らの想像する理想の将来像に向かうことを約束させる脅迫のように見えた。


 こうなるといよいよもって、織本は、自身が何のために努力を続けているのかがわからなくなってしまった。不真面目にはなれず、かといって、何もなしにこのまま努力を続けることは難しい。自らの人生に悩む日々が続いた。


 そして、悩み続けて限界を迎えた織本は、非常に突飛な解決策に行き着いた。それは〔多重人格者になる〕ことだった。彼自身は不真面目になることができないので、彼でない誰かに不真面目になってもらおうと思ったのだ。それは非常に滑稽な話に思えたが、織本は真剣だった。それほどまでに、彼は、周囲の評価や評判に押し潰されそうになっていた。多重人格者になるといっても、自ら進んで病気になることは難しい。とりわけ、多重人格(正式には解離性同一性障害)は、別人格が主になっている間の記憶は失われていたり、薄ぼんやりとしている必要がある。そんなことを、自ら意識的にできるはずがない。それでも、そうだとしても彼は必死になって演じる必要があった。自分自身を騙せるほどの演技でもって多重人格者になる必要があった。


 それから、織本は〈別のワタシ〉を演じるようになった。別のワタシは、織本本人と反対の欲望に忠実で不真面目な性格に設定した。とはいえ、あくまで織本ができる範囲の不真面目であったので、実際は思春期の男子が背伸びするような、ごっこ遊びに等しいレベルのものだった。それでも、そんな〈ごっこ遊び〉が織本に救いを与えた。これまで、自身の中で抑圧されてきた思いを別のワタシになっている瞬間だけは解放できたからだ。


 そして、〈別のワタシ〉と〈実際の私〉を行き来するうちに、別のワタシが独立し、実際の私と会話できるようにまでなった。別のワタシは実際の私の行動をたしなめ、悩みに対する解決策を提示してくれる、よき相談相手になっていた。織本が精神的に辛い時期は、別のワタシが自然と顕現し、織本を守ってくれた。演じているという意識はまだまだ存在したし、別人格になっている最中の記憶もしっかりと残っていたが、長く続けているうちに別のワタシは本当の私の架空の友人というレベルにまで昇華されていた。別のワタシとタッグを組んだ織本は、気づけば、国立大学に入り、博士号の取得を志すまでになっていた。中高と苦しい思いをしてきたが、別のワタシと組むことで周囲の期待に応える努力を続けられた結果、周囲が評価する立場にまで実際に到達することができた。


 しかし、そんな彼の躍進にも限界が訪れる。別のワタシとタッグを組んだとしても、自分自身の枠を超えられるわけではない。答えのある問題であれば、これまで通りの生真面目な努力で乗り越えられただろうが、研究のような答えのない問題は、そうはいかなかった。自分なりにどれだけ努力をしたとしても、一定の成果を上げることができなければ評価されない。これまでも小さな躓きを経験してきたものの、その時は、復習を繰り返せばなんとか持ち返すことができた。しかし、研究ではそれも通用しない。研究が思い通り進まないことが続けば続くほど、彼は精神的に参り始めた。元々の〈いい人〉と思われたい性質を満たすことができず、不安でいっぱいになり始めた。


 最初の内は、別のワタシに切り替えることでストレスをある程度発散することができた。しかし、終わりが見えず、蓄積され続ける不安やストレスは、発散するスピードを凌駕していた。どんどん、別のワタシに切り替える頻度や時間が長くなり、それでも足りず本当の私が追い詰められていった。


 そして、不安やストレスが許容量を超えた瞬間――


 織本は倒れた。意識ははっきりしていたが、起き上がることはできなかった。砂漠に水をやるように、動かなければならないという気力が浮かんではすぐにどこかに吸い取られていった。声も出せず、立ち上がることもできず、ぼんやりと「今、僕は倒れている。」ということを意識するだけだった。


 ほどなくして、救急車が到着し、織本は大学病院に搬送された。救急車の中で、急いで診断が行われたが、悪いところはどこにも見つからなかった。救急隊員は、仮病をいぶかしんだが、織本は、それらを理解しながらも尚動くことはできなかった。病院に到着し、診察室に運ばれた織本だったが、医師も看護師も異常がないのに倒れ続けている織本に困り果てた。


 結果として、織本の不調は時間が解決した。織本は、特に治療されることなく徐々に気力が回復し、体が動くようになっていった。医師らは「何にせよ回復してよかった。」と追加の治療や薬を指示することなく、織本を退院させた。病院には、研究室の教授や先輩、後輩、家族まで集まる大事になっていたので、意識が全て残っていた織本はバツが悪そうに周囲に迷惑をかけたことを謝罪すると、体裁だけでも取り繕うために両親に介抱されながら帰宅した。

 病院での診断は、急性解離性障害だった。



 その日から、織本は、研究室の教授から暫くの休息を指示され、心理カウンセリングを薦められた。これまで積み上げてきた周囲の評価が崩れてしまったことにショックを受けた織本であったが、あそこまで大事になってしまうと取り返しもつかないので、素直に休息をとり、カウンセリングに通うことにした。丁度、大学に学生向けのカウンセリング室が存在していたので、織本はそこを利用してみることにした。


 カウンセラーは大雑把で快活な女性だった。彼女の性格は、織本の生真面目な性格とは対照的で、織本は彼女の性格を羨ましく思った。傾聴しても、共感することはないという彼女の性格は、他人の評価をひたすらに気にする織本とは正反対だった。そして、織本の別のワタシから見ても正反対だった。結局自分自身から生み出したものは自分の枠を超えられないと改めて感じさせられた。だからこそ、織本は彼女に対し、素直にこれまでのあらましを包み隠さず説明しようと思うことができた。


「――今、カンセリングを受けていますが、正直、全部演技なんです。ここに来るきっかけになった救急車で運ばれたときも意識ははっきりしていました。実際は、仮病だったんです。先ほど説明した別のワタシがいる多重人格についてもそうです。もう一人の自分を演じることで、日々のストレスを上手く解消していただけなんです。本当は正常なのに。」


 カウンセラーは、織本の告白を興味深そうに頷きながら聞いた。織本は、懺悔室に入って懺悔をしているかのような気持ちになりながら彼女の反応を待った。叱られるのか、憐れまれるのか、励まされるのか、どういった反応が返ってくるのかを想像し、恐ろしくなった。そんな想像に反して、彼女の回答は非常にシンプルなものだった。


「でも、正常な人は、わざわざそんな演技しないよね。だから多重人格かどうかは置いておいて〈正常〉ではなかったんだと思うよ。」


 彼女の意見を聞いた瞬間、織本は目の前の景色が一転するかのような衝撃を受けた。十年以上続けていたため、いつからそうなってしまったのかはわからないが、それは嘘から出た真になってしまっていたのだ。病院で急性解離性障害と診断された時は、異常がない中でも何とか近しい病気に紐付けないといけないために、そう診断されたと織本は思っていた。しかし、本当にそうしなければ生きていけなかった彼のひたむきさが、実際に彼を解離性同一性障害でなくとも、マイノリティで特異な精神状態に変えてしまっていたのだった。


「また、倒れたりしちゃわないように、ゆっくり緩和していこう。」


 確かに、もう織本は別のワタシなしに生活できない状態になっていた。演技を始めた昔の私からは遠いところにいて、もう既に元には戻れないのだった。織本は、少しの安堵と恐怖を胸にいだきながら、カウンセラーの言葉に首肯した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワタシコレクション Trickey @Trickey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ