第34話「ミミのしっぽ」⑬
君は弾んでいた息を、不意に大きく乱して立ち止まった。額に汗を滲ませて、肩を大きく上下させた。
「ミミ、あいつ、嘘、ついたんだ」
突然、君は告白した。今度は明らかに現在共にある僕に対するものだった。
「こんな盆地で田舎の、山と畑と、田んぼしかない所にいたくせに」
ぼくは君を見上げて、君の言葉を待った。君は乾いた口の中に、何か異物でも入ったようになかなか言葉を発せなかった。時々、君は無理やり唾を飲み込んで、何度も瞬きした。
「海は見たことがないけど、俺は海の上に立ったことがある。海の上を歩いたんだって自慢したんだ」
君は田んぼの案山子に話しかけるように、田んぼの中を凝視して動かなかった。
「嘘だって言ったら、ここに連れて来てくれた。夜、ここで二人で初めて蛍を捕まえて遊んだ。夏の夜の田んぼは今よりずっと海に似ている。あれは、港だった。夜の港だった。暗くて、水の音がして、ウミネコみたいに蛙が鳴いて、遠くの街灯が漁火みたいに見えた」
君は言葉を詰まらせて鼻を啜った。風が君の髪を掻き揚げる。すると君の睫毛が濡れているのがぼくの目に入った。
「地元が変わらないなんて、こっちの方が嘘だった。ああ、懐かしい、とか、ここはいつ来ても変わらないなあ、とか言いたかった。でも、言えないよ、ミミ。これじゃあ、まるででたらめだ」
君の見ているものを見ようと、ぼくは君の前に出た。
君が見ていたものは田んぼではなかった。
一面に広がる黄金の海を一箇所だけ四角に切り取ったように、白い一反があった。そこは黄金の稲の代わりに白い蕎麦の花が揺れる畑だった。同じ場所に根を張り、同じ風に吹かれても、その一反は波のようにざわめいてはくれない。打ち寄せる波のように音を立て、白波のように輝いてはくれない。ただ白い花が振り子のようにまばらに揺れる。
君と彼が共有していた黄金の海も、夜の港も、もうすぐなくなってしまうだろう。
もちろん、彼が最期に見た風景を、君が見ることはできない。彼が立っていたその場所にも、もう君が立つことはできない。どんなに過去に語りかけ、あの時と同じ道を歩いたとしても、君は彼の「終わり」を完全に失ったのだ。君は白い蕎麦の花畑を見つめたまま、あの日と同じように立ち尽くしていた。
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