第33話「ミミのしっぽ」⑫
翌日、君は慣例に倣って両親と子育て地蔵に参拝した。この年、この地区で成人したのは君だけだ。地蔵堂に参拝した後、地蔵堂を管理している寺にも詣でる。説教を聴いて両親と共に帰宅する途中、君は一人地蔵堂に戻った。
晴れていて、風が強い。君はしばらく地蔵堂の階段に腰掛けて、心地よい風を浴びていた。休日だというのに世界中から人間が消えてしまったかのように静かだ。君が小さい頃は、休日には子供の声が聞こえていたものだ。
君はぼくの尻尾を撫で、「行こうか」と言って立ち上がった。そして昨日のようにまた田んぼの中の畦道を歩き始めた。まだ陽が高い。遮る物のない畦道では日差しが脳天を直撃する。それでも君は昨日よりも早足で無言のまま畦道を進んだ。陽炎が揺れ、君の足取りも危なっかしい。時々尖った石や窪みに足を取られ、雑草に滑る。それでも君は足を止めず、歩調を緩めずに歩いた。
風が耳元で渦を巻いて音を立て、山裾まで広がる黄金の稲を揺らしていく。その光景は風に揺らめく草原の姿そのものだ。黄金の草原は米が実り、穂が刈られる間の短い間にしか姿を現さない。穂を刈る時期になると田と田の間の下草を刈ってしまうため、文字通り「田」の形に農家が所有する田ごとに切れ間が出来てしまうからだ。稲よりも背の高い稗が所々に伸び、軽快に駆ける馬を髣髴とさせた。雲一つない空では、鳶が弧を描きながら独特の声で鳴いている。それに吊られて白いサギが一斉に飛び立った。
「この猫、耳がない」
君はあの時と同じ言葉を声に出して言った。その声は過去へと風にさらわれるように呟かれたものだった。それは今でも色あせることなく君の脳裏に繰り返される。
「じゃあ、この猫の名前はミミだ」
君は彼の分も言った。その声はやはり現在とは掛け放たれた所に放り出されたように聞こえる。君は自分の吐息のたびに彼のこの声を聞いている気がする。君はそのときの彼の表情や声が忘れられないでいる。そのときの彼の声は、この黄金の草原のざわめきように耳朶に馴染んで心地よかった。そのときの彼の表情は今目の前に広がる風景のように清々しかった。何度も見たい笑顔だった。
君は分岐して人一人がやっと通れる細さになった畦道に踏み込んだ。彼が水の中に立ち尽くして君に助けを求めていた場所だ。あの時彼はどこまで進んだのだろうと考えながら、君はゆっくりと足を進めた。
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