第32話「ミミのしっぽ」⑪

 君は結局最後まで漬物に手をつけずに、足早に自室に戻った。クーラーのない君の家では、夏の夜の間は網戸のままにしておく。すると昼の蝉の鳴き声にも似た暑さが嘘のように涼しくなる。しかしそのために廊下の電気は点けられない。君は壁に手を添えながら廊下を歩いた。

部屋には月光が差し込んで廊下より明るかった。目が暗さに慣れると、だいぶ見えるようになった。もう少し秋が深まれば虫の音が響いてくるだろう。真夏の夜ならば水田の蛙の大合唱が家の中にまで響いていただろうが、今はもう水を抜いていて夜の風は冷たい。

ベッドに体を投げ出して、蛍は今年も水田を飛び交っていたのだろうかと君は考えた。蛍が飛ぶと、その残像で光の帯が見えることがあった。彼と見た光の帯は幻想的だった。しかし、人魂のような冷たく悲しい美しさだった。

「彼の岸に何を求むる宵闇の川面の上の一つぼたるは」

君は有名歌人がこの地で作ったという歌を呟いた。この歌を教えてくれたのは彼だった。彼は君より博識で、何をやっても理解が早かった。ただ、君に比べて彼は引っ込み思案で快活さに欠けるところがあった。

 君はベッドから半身を起こして、もしまだ田んぼに水がある時期だったら自分が蛍を見に行ったかと自問した。

答えはすぐに出た。

 君はその答えを抱えたまま、暗い部屋で月明かりに背を向けていた。

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