第29話「ミミのしっぽ」⑧
「大人の人を呼んでくる」
そういい残して、君は彼のそばから走り去った。君は彼がこのままでは沈んでしまうと焦っていたから気付かなかったのだろうが、彼は次第に小さくなっていく君の背中を真っ赤な目でずっと追っていた。
君はサンダルが脱げたことも気にせず、傷だらけになって家まで走った。しかし息を切らしながら祖父の手を引いて畦道の分岐点に戻ったときにはもう、彼の姿はどこにもなかった。彼が立っていた畦道は、水の流れの中に沈んでいた。
堤防の決壊の恐れがあり、これよりも低い所では浸水被害も出ていた。そのため、この地区の消防団も近所の消防団も全て出払っていた。だから消防団に所属している父親たちは、子どもが一人いなくなってもすぐに動けなかった。普段から日中家にいる老人たちが騒ぎ出し、この地区の消防団に連絡がついた頃には警察にも消防にも連絡が回っていた。近隣からも多くの人が来て、次第に捜索の輪は広がった。しかし、田んぼに引いた水は簡単に引かなかった。無理に探せば二次被害が出る。誰にも、どうすることもできなかった。
田んぼが巨大ビニールで覆われていくような光景を見たときのお祭り気分は、君にとって忌まわしいものとなった。君は大勢集まった大人たちが立ち尽くすのを、少し離れた場所で見ていた。君もまた、その場所に立ち尽くすしかなかった。やがてまた雨が降り出すと、野次馬はいなくなった。捜索は難航した。
彼の死体は見つからなかった。その分だけ、彼の家族は彼がいなくなったことを受け入れられなかった。
君は、彼の体を押したことや、水に沈んだ畦道を渡ろうと言ったことは誰にも言わなかった。ただ、彼といつものように遊んでいて、彼の姿が見えなくなったと言った。君は、自分は精一杯のことをやったと思っていた。だから、彼がいなくなったのは自分のせいだと思う一方で、仕方ないことだったとも思っていた。
君と彼の家は、この一件以来絶縁した。同じ地区にあり、昨日まで彼と遊ぶために行き来していた彼の家が、急にお化け屋敷のようになった。君は彼の家の前を通るたびに顔を上げられず、息が詰まった。
君は高校を卒業するまで自宅から学校に通った。通学路は、彼の家の前を通らないように道を選んでいた。高校卒業後の進路先となる大学は、県外しか受験しなかった。
君は高校卒業と同時に家を出た。もうこの町には戻らないと決めていたようだ。
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