第28話「ミミのしっぽ」⑦

 彼は君と一緒に田を見に行って水の中に消えた。

 十年前の夏だった。

台風で水かさが増して堤防が決壊しそうになったため、水田に川の水を流し入れて水かさを減らす措置がとられた。家のほうからその様子を見ると、山裾の方から田んぼに巨大なビニールが被せられたように見えた。君たちはその初めて見る壮大で異様な光景に興奮気味だった。

君は彼を誘って、水に沈んでいく田を見に行った。

 雨は止んでいたが、空には黒く重たい雨雲が垂れ込めていた。湿気を含んだ冷たい風が強く吹きつけ、障害物のない畦道を歩く君たちをさらって行きそうだった。昼間だというのに夕方のように暗く、本来なら田から水を抜いた時期だというのに足元から水の音が聞こえていた。君たちは始めこそ面白がっていたが、しばらく歩くと顔を強張らせていた。嬉々とした会話も途絶え、無言になったが、帰ろうとはどちらも言い出させなかった。

 大分歩くと、畦道が分岐しているところに出た。いつもなら走り回れる畦道はここで途切れて水に沈んでいた。分岐してさらに細くなっている畦道から先は、田も道も分らないほど深く水の中に沈み、大きな川になっていた。

 ただ、細く分岐した畦道はまだ水の下に見えていた。畦道に転がる石の形も、雑草の色もまだ見える程度しか水を被っていなかったのだ。

 「渡ろうよ」

君が言った。

「危ないから帰ろうよ」

彼が言った。

「浅いから大丈夫。ほら先に行って」

君は彼の肩を押した。彼はその弾みで二三歩水の中の畦道に足を進めて止まった。水は踝までの高さしかなかったが、川からどんどん水を引き込んでいるせいで見た目よりも流れがあった。道の両側は田んぼだったが、もう稲が見えなくなるほど深く水没していた。

―――今年の米はもうだめだなぁ。

水が自分の田んぼに押し寄せてくる様子を見ていた君の祖父がそう呟き、渋そうな顔で紫煙を吐き出した。遠くを見つめる目と、深く吐き出された煙が君の脳裏に浮かび、君は急に不安にかられた。彼は泣きそうな顔で君を見つめていた。

「やっぱり、無理みたい。戻って来てよ」

君の声は頼りなく震え、彼は泣き出した。

「怖いよ。助けて」

彼は足がすくんで一歩も動けなくなっていた。その間にも川から引かれる水は徐々に彼の立っている畦道を沈めていく。彼の足首の辺りで水が渦を作っていた。表面だけ見れば停滞しているように見えていた水の流れは、想像以上に力強かった。まだ幼くて細い体は不安定で、足を少しでも動かそうならたちまち体勢を崩して深みに落ちるだろう。彼は腰が引けたまま、冷たい水の中に立ち続けるしかなかった。君が手を伸ばしても、彼の方は少しも腕を伸ばすことができなかった。ついに君が立っているところまで水が迫って、君のつま先に水が触れた。君は思わず後ずさりして、彼の顔を脅えたように見上げた。彼は傷付いたような顔をして、泣き腫らした目で君を見ていた。

彼は今にも何か叫びそうに唇を震わせた。

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