ズル休み

 たびたび見る夢がある。会社に遅れそうになる夢だ。

 その程度の内容でも僕にとっては充分な悪夢で、いつも堪らず飛び起きる。そして笑いをこらえる妻に、大丈夫大丈夫と宥められ、また眠る。昨日までの僕は、そういうサラリーマンであり、そういう夫であった。

 だから、こんな平日の昼前に、会社を無断欠勤して近所の河原でぼんやり遠くを眺めている今の僕は、きっと僕ではないのだろう。


 今朝、僕は魂が入れ替わって別の人間になったとしか思いようのない軽快さで、まっしぐらに、最寄り駅ではなくこの河原を目指した。

 そして初夏の日差しにおっとりと目を細め、水と緑の匂いを楽しみ、目を輝かせて水中に魚影を探し求め、しつこく鳴動する携帯電話のスイッチはあっさりと切った。

 そんな自分自身を訝しむ意識も無くはないのだが、それは今日に限っては余りに遠く、据えた腰を一ミリ上げさせる力もないほど、微かなものだった。


 梅雨入り前の乾いた暑さに、草木たちが早くも草いきれを匂わせている。一年で一番、葉の緑が鮮やかに青い季節だ。僕は空っぽの心のままでどれくらいの間、薫風に身をさらしていたか知れない。時間の感覚さえ、普段とは違っているようだ。

 心の洗濯が必要なほど、僕の内面は汚れてはいないし、くたびれてもいないつもりだ。だからやっぱり、今の自分は自分ではないのだと、よく晴れた空のどこかで、僕の良識が渋々と白旗を掲げたような気がした。


 滔々と川は流れる。沸き立つような草木の緑を脇に従えて、きらきらとした光を絶えず僕へと投げかけながら、悠然と行きすぎる。

 その姿は今も昔も変わらない。視界を水と草木と青い空で一杯にさえしてみれば、今でも僕は、この河原で飽きずに遊び呆けていた少年の頃に戻ることができた。

 雲を見ては神様の城だと言い、棒きれを握れば歴戦の勇者へと早変わり。服の汚れも無頓着に転げ回り、誰かの冗談で半日笑えた。そんなふうに自由で、未来には希望しかなかったあの頃に。


 大人になってしまってもきっと、少年の日の心は消えてはいかない。ただ小さく縮こまって、積み上げられてゆく責務の陰に隠されてしまうだけだ。

 僕はまた、会社に遅れそうになる夢を見るかもしれない。いや、たぶん見るだろう。そしたらまた、ここへ来よう。僕ら夫婦に子供ができたら、ここで目いっぱい遊ばせよう。

 僕は携帯を取り出し、この半日のズル休みにどんな理由を持ち出して騙してやろうかと考え、いたずら小僧の顔で笑った。

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掌編集2 心マルチプル 石屋 秀晴 @5-gatsu

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