第10話:傷跡


 カツン、カツンと、廊下に足音が響く。

 病院の中もアパートと同様に薄暗く、外よりはほんのりと暖かい。でも、アパートに比べるとどこか薄気味悪くて、変な意味で寒気がするようだった。

 私はライトを持って先頭を歩き、その後ろに、ショットガンを構えたロイが続いている。

 ロイの足元は、おぼつかない。

 グレーのウェットスーツの表面に、ロイの真っ赤な血がとめどなく流れているのを、私は気づいていた。

 出血は、かなりひどい。早く手当てをしないと危険だって言うのが、私にも分かるほどだった。

 私も体が熱っぽくて怠くって、お腹の辺りから冷えて来るような寒気は止まらないけれど、それでも、今のロイに甘えることはできない。

 今はとにかく、ロイを助けることを先に考えないといけなかった。

 「ネコ、いないみたいだね…」

私は廊下を慎重に歩きながら、ロイにそう声を掛ける。

「アパートでのこともあるから…油断はしないで…」

ロイが、いつも以上に静かな声で私にそう言い聞かせる。

 分かってはいる…だから、私はボルトアクションのショットガンにバックショットを装填して抱えている。

 バックショットならいくら反動が強くても、ギリギリまでひきつければ私にも当てられるかもしれない。もしものための備えとして、私自身がそう主張して、身に着けていた。

 でも、病院の中は静まり返っていて、ネコがいる気配はない。もちろん私がケガをしたアパートもそうだったけれど…なんていうか、こんな風に考えるのはちょっと的外れかもしれないけれど、もし私がネコだったら、病院になんて住処を作らないように思えた。だってここには、病院特有の消毒薬の臭いが立ち込めている。イヌやネコなんかは、動物病院が嫌いなものだから…この臭いのする場所にわざわざ近づくようなことはないように思えていた。もちろん、油断はしていないけれど…

 「うっ…」

不意に、背後でそう呻く声が聞こえたので振り返ると、ロイがその場に膝を着き、手にしたショットガンを杖に、しがみつくような格好でうずくまっていた。

「ロイ…!」

私はロイに駆け寄るけれど、ロイは、首を横にブンブンと振って

「大丈夫…ちょっとめまいがしただけ…」

と私を押し戻し、深く深呼吸をして立ち上がった。

 だけど、ロイはフラっとバランスを崩して、そばの壁に体をもたせかけた。

「ロイ、少し休んでて!私が薬探してくるから!」

「ダメだよ、レイチェル…もし、あなたを一人にしてなにかあったら…それで終わりなんだからね」

ロイは、真っ青な顔をしながらも、真剣な表情で言った。

「レイチェル…あなたは、何があっても死んじゃダメなの…あなたが死んだら、次のロイがいなくなる。そうなったら…これまでのロイ達の努力が無駄になる…“レイチェル”を助ける“ロイ”がいなくなる…そんなこと、絶対にダメなの」

ロイは、まるで自分に言い聞かせるようにしてつぶやき、そして、壁から体を離して自分の脚で床を踏みしめた。

 「さぁ、行こう…医薬品の保管庫、きっと、このあたりだと思うから…」

ロイは、大きく息を吐いて私を促す。そんなロイを見て、私は頷くよりほかになかった。

 ロイは、何があっても私を優先する…それは分かっていたことだ。だから、ロイを助けるためには、何よりもまず私自身の安全を確保しなきゃいけない。

 そのためには、細菌に効く抗生剤を手に入れる必要がある。そして、きっとそれは、今のロイにも必要だろう。

 私も自分にそう言い聞かせて、ショットガンを握りなおして廊下を歩く。

 外来棟らしいフロアから廊下を進み、その先にあった階段を降りて、さらにそこにあった廊下を進むと、私達の前に、「Staff Only」と書かれたドアが姿を現した。

 たぶん、この先に保管庫があるに違いない。

 ドアノブに手を掛けると、ロックは掛かってなかったらしく、ギィっと音を立てて開いてくれた。

 その先は、今歩いて来た外来棟とは違った雰囲気がする場所だった。何というか、飾り気のない、薄い緑色をした壁をした小さなホールがあって、そのに周囲はガラス張りのオフィスのような部屋がいくつもある。

 「あった…あそこ…」

私が周囲を見回していと、ロイが不意にそう声を上げた。振り返ってロイの指さす先を確かめると、そこには分厚そうな扉が一枚、どっしりと壁にはまり込んでいた。

 ゆっくりと歩いて行くと、その扉には確かに、「医薬品管理室」と書かれている。

 でも、ドアノブの類は見当たらない。代わりに、ドアの脇にはテンキーの付いたパネルがある。どうやら、パスコードか何かを入力して開けるドアらしい。

 私はドアに手を付いて押してみるけれど、びくともしない。こういう場所の電子制御ドアは、停電になるとロックが掛かるしくみになっている。銀行なんかとおんなじだ。

 でも、電気を復帰させるには病院に発電機がなきゃいけない。でも、この病院にそんなものがあるのかな…

 私がそんなことを考えていたら、ロイがふうっと息を吐いて、腰のベルトからキンっと音をさせて、サバイバルナイフを引き抜いた。

 「待ってて…」

そう言うとロイは、おぼつかないままの足取りでドアに取り付き、ナイフの切っ先をドアとサッシの隙間に差し込んだ。

 ロイはそのまま隙間にナイフの刃をツッと走らせ、カチっと微かな金属音がした位置でその手を止めた。

 「ここかな…」

ロイがそう言ってショットガンを構え、片手で私をドアから遠ざける。

ロイは、一度大きく深呼吸をして、ショットガンの銃口をドアの上半分の方に向け、引き金を引いた。

 カキャンッ!という音と同時にベコンッとドアに大きな穴が開き、そして、ロイがうめき声をあげてその場に崩れ落ちる。

 「ロイ!」

私は思わずロイに駆け寄って、その体を支えていた。

 ショットガンのリコイルは正直、かなりの大きさだ。それでもロイは、これまでは難なくショットガンを撃ち続けて来たけれど…さすがにこんなの状態では傷に響くのは当然だ。でも、ロイはそんな自分のことなんて構わない、って様子で、

「まだ…もう一発…」

なんて言いながら、私を押しのけて、今度はドアの下半分の方に銃口を向けて引き金を引いた。

 ベコっとドアに穴が開き、ロイは再び、膝を床についてその場にうずくまる。

「ロイ…」

「平気…それより、ドア、開いた?」

 ロイはそんなことを言って、苦笑いを浮かべながら私を見やった。

 私は、ロイの体をギュッと抱きしめてから、それでもロイから離れて、ドアを押してみる。ミシっと音がして、すこしドア全体がガタついた。ロイのショットガンは、効果はあったみたいだ。もう何発か撃てば、きっと何もしなくてもドアは開くだろうけど…でも、これ以上ロイに撃たせるわけにはいかない。

 そう思った私はドアから少し距離を取って、勢いをつけて左肩でドアに突撃した。

 ドシン、と鈍い衝撃があって、不意に私は前方に体が投げ出される。フワリと浮くような感覚があった直後、私は、ドアを下敷きにして、床に倒れ込んでいた。

 「あ、開いた…」

「良かった…」

私が身を起こすのと、そう言ったロイが、三度、膝から崩れ落ちるのとは、ほとんど同時だった。

 「ロイ!」

私は慌てて立ち上がり、ロイの体を支える。

 そのときになって初めて、私は、ロイがブルブルと全身を震わせていることに気が付いた。手袋を外して額に手を当ててみると、まるで火に手をかざしているかのように火照っている。

 ロイも、私と同じ…ううん、私以上に高い熱が出てる…それもそうだ、ロイのケガは、私の腕なんかとは比べ物にならないほどにひどい…

 「ねぇ、ロイ!しっかり…薬…どの薬を使えば良いか分かる…⁉」

私はロイの耳元に口を近づけてそう聞く。するとロイは、腰のポーチから小さな本を取り出した。赤い表紙に、金色で「PDRポケットエディション」とタイトルが印刷されている。

 私はそれを受け取って、その中を開いた。それは、いわゆる薬の百科事典のようで、良くわからない専門用語で薬の効果や特徴、副作用なんかが書かれている。

 正直に言って、難しい単語ばかりで読んでいても意味が分からない。それに、私には、私達が今どんな症状で、どんな薬が必要なのかすら分かっていないんだ。こんなのを渡されても、検討の付けようがない。

 「ロイ…なにを持ってくればいいの?調べるから…教えて…?」

「抗生剤と…解熱剤…」

ロイは途切れ途切れの、いつも以上にうんと小さな声でそう言った。

 抗生剤と、解熱剤…解熱剤!そうだ、アスピリンならわかる…!

「ロイ、アスピリンで良い⁉」

「…ダメ…アスピリンは、血液を固まりにくくするから…」

そ、そうなんだ…そういえば、ドロドロ血の人はアスピリンを飲んだりする、って話は聞いたことがある…でも、今のロイにそんなのを使ったら、出血がもっと止まらなくなってしまう。

 私は、ロイの言葉を聞いて覚悟を決め、薬事典を開く。

 アンチバイオティックと、アンチパイレティック…その文字列を私はライトの明かりを頼りに探す。

 やがて、私は辞典の各ページの上にあったインデックスに、アンチバイオティック、の文字を見つけた。

 そこには、無数の薬の名前なのか成分の名前なのか分からないものが並べ立てられている。

「ロイ、どれか分かる…?」

私は、すがる思いでロイにそのページを開いて見せる。するとロイは、うつろな表情でページに視線を走らせ、小さな声でつぶやいた。

「…塩酸ドキシサイクリン…ってやつ…」

「分かった…あと、アンチパイレティックね…」

私はそのページをドッグイヤにして、さらにページを繰る。やがて見つけたアンチパイレティックの一覧のページをロイに見せ、「アセトアミノフェン」という薬の名前を聞き出した私は、医薬品管理室の中を探し回った。

 途中、ガシャン、と音がしたので見ると、ロイは体を引きずりながら、ドアを元に戻し、棚をバリケードにして塞いでいた。ロイのことを考えていて、そんな基本的なことをすっかり忘れてしまっていた私は一瞬、自分を叱ったけれど、でも、すぐにそんな場合じゃないと気を取り直して薬品管理室の中を見て回るった。

 薬品管理室は想像以上に広く、棚もたくさんあったけれど、私は部屋の大部分を占めていた、食料品の量販店にあるガラス張りの大きな冷蔵庫のようなものの中から、ロイが言った二つの薬を見つけ出した。薬は、目薬よりも少し大きいくらいの小さなプラスチック容器に入っていた。

 それと、生理食塩水のパックに、注射器と点滴用の針と管を冷蔵庫のとなりの棚から見つけ出した私は、それをロイのところに取って戻った。

 ロイは弱弱しいながらも私に的なくな支持をくれて、山盛りに持って行った薬の容器のうち、抗生剤2つと解熱剤2つを生理食塩水の中に薬を注射器で注ぎ込み、それを良く振ってから管をつないで、その先を自分の腕に突き刺した。固定に困っていた様子だったので、私は慌てて点滴用の管があったあたりにもどり、固定用のテープも見つけて戻る。

 ロイは自分の腕に点滴の管をつなげると、今度は薬を一容器ずつの薬を注射器で注入し、私に針を刺し、それを点滴の管につないだ。

 そして、ロイはようやく、その身を壁にもたせ掛け座り込んだ。

 私は、そんなロイの隣に座って、そっと体を寄せる。するとロイは、私の体をギュッと抱きしめた。

 「ありがとう、レイチェル…」

「うん、これくらい、平気」

私は、腕につながれた点滴の管から、冷たい液が血管の中に入り込んでいるのを案じながら、ロイにそう返事を返す。でも、抱きしめ返したロイの体はあちこちが血だらけだ。

 これはもしかしたら、輸血をしなきゃいけなくなるかもしれない。いや、その前に、傷を手当する方が先、か…

「ロイ、止血だけでもしなきゃ…包帯とか探してくるから、待ってて」

私はそう言って、ロイから体を離して再び薬品管理室を歩き回る。包帯やガーゼの類は、割と簡単に見つけることができた。大きな箱がいくつもあって、それを手当たり次第に開けたら山のようにストックがあったからだ。

 私はグレーのウェットスーツを着たままのロイの傷口にガーゼを当て、それを抑えるためにきつめに包帯を巻いた。さらに、背中の大きなキズにも同じように手当てをして、今度は私が大きくため息を吐く。

 でも、そんな私に、ロイは再び腕を絡めて引き寄せた。

「ロイ…?」

「ごめん…寒いんだ…」

そう言うロイは、本当に、ガタガタと震えている。私は、少しでも暖かいように、と、ロイが流した血に体やジャケットが汚れてしまうのも気にせずに彼女の体に隙間なく抱き着いた。

 そして、私達はそれから点滴が終わるまでの間、ずっとずっと抱き合って、ただ時が過ぎるのを待っていた。




 「ふぅ…」

ロイがため息を吐いて、ストレッチャーのようなベッドに体をもたせかけた。

 私はミネラルウォーターのボトルを渡しながら、ロイの額に浮いた汗を余ったガーゼで拭う。

 ロイは、パキっと音をさせてボトルの蓋を開けると、半分ほどを一気に飲み干して、また、大きなため息を吐いた。

 あれからどれくらいの時間が経ったか、しばらくして私は全身の火照りが収まり、重く感じていた手足が軽くなって、頭もスッキリしていることに気が付いた。

 薬が効いたのだろう。

 ロイも、それからほんの少しして、なんとか動けるようになるまでには持ち直した。

 薬品管理室から必要なものをリュックサックに詰めた私たちは、再び病院内をさまよって、この処置室らしい場所へとたどり着いていた。

 部屋にはストレッチャーのような狭いベッドに、無機質な機材の数々と、ステンレス製の棚がある。真っ暗で分かりづらいけれど、壁は緑色をしているようだ。棚の中には処置で使うんだろう薬品や機材、消耗品なんかがぎっしりと詰め込まれている。

 ロイは部屋に入るなり施錠を確かめ、その棚の中からC字型の針に糸が付いたスーチャリングセットを見つけだし、ウェットスーツを脱ぎ、自分の腕と肩の傷を縫合した。

 そして、それを見て覚えるようにと言われていた私は、今しがた、ロイの背中の傷を縫い終えたところだった。

 学校で裁縫はやったことがあったけれど、人間の皮膚を縫うなんてことは初めてだ。自分の指先を何度も刺してしまったし、時間も掛かってしまったけど、それでも私はやり遂げた。

 そうしなければ、ロイを助けられない、って、ただ、そう思って居たからだ。

「ありがとう、レイチェル」

不意にそう言ったロイは、縫合を始める前にも使った消毒薬を背中や肩、腕にビシャビシャと掛け、新しガーゼを傷口に当ててその上から包帯を巻き始める。

 私もすぐにそれを手伝って、ロイの傷の手当てを終えた。

 これで、大丈夫…とは、思えない。

 縫合する際に使った麻酔の点滴のせいもあると思うけど、ロイの消耗はかなり激しい。しばらくは、雪の上を歩いたり走ったりするのは無理だろう。ここで、ロイが回復するのを待つより他にない。

 「レイチェル、あれ、出してくれる?」

「うん」

私はロイに言われて、リュックサックの中から黄色いビニルバッグの点滴を引っ張り出した。表面には、「ハイカリック」という文字とともに、簡単な使用方法が印刷されている。

 それに目を通したロイは、

「ダメ、か…」

と、力なく、点滴のバッグごと、腕を床に萎えさせた。

「どうしたの…?」

「これ、高カロリー輸液、って言ってね。消化器系の病気の人に、食事の代わりに使う点滴なんだけど…今の私には使えないみたい」

「ど、どうして…?」

「カテーテルが必要なんだ…腕にあるような細い血管には、使えないみたい…」

ロイはそう言って点滴のバッグを私に付き返してきた。

 説明書きに目を走らせてみると、難しい単語がたくさん並んでいるけど、とにかく、カテーテルっていうのを使わなきゃいけないことと、それから、普通の点滴の方法では使ってはいけない、ってこともなんとなくは分かった。

 「あと、四日分…」

ロイは、静かにそういった。

 私も、そのことには気が付いていた。

 私たちには、あと四日分の食料しか残されていない。それも、一日一食を食べる計算で、だ。

 この点滴を使えれば食事の代わりになったのかもしれないけれど…それはできないようだった。

「飲んだりしたら、ダメ…かな?」

私が聞いたら、ロイは静かな声をあげて笑う。

「どうだろうね…案外、平気かも。味は分からないけどね」

だけど、そんなロイの笑顔には力がない。

 血を流しすぎた…体も、もしかしたら細菌と戦っている状態なのかもしれない。今のロイには傷を治すためにも、細菌と戦うためにも、栄養が必要に違いない。

 「食べ物、探しに行ってくるよ」

私がそう訴えてみるけど、ロイは力なく首を横に振った。

「ダメ。あなたを一人では行かせられない…とにかく、今あるもので、何とかしよう」

ロイは、私のリュックサックを引き寄せて、中から全部で八種類のコンビニエンスフードを取り出した。私も、リュックサックのポケットからは残り八本になったスニッカーズバーを取り出す。これに加えて、もし、飲むことができるとしたら、この点滴…か。

 配分なんて考えて居られれない…一日三食きちんと食べて、明日には歩ける程度には体力を戻してもらえれば、新たな食料の探索もできる。

 ここは、大きな病院だ。たぶん、売店もあるだろうし、もしかしたら職員や患者さんのためのカフェテリアもあるかもしれない。きっとそこには、食材がある。探すなら、きっとその辺りだ。

 「ロイ…、ランチにする?」

私は、ロイにそう声を掛けてみる。

 これまではランチなんて食べたことはない。朝にはスニッカーズなんかのほんの少しのお菓子だけ。お昼は休憩するだけでも何も食べず、見つけた安全地帯に入ってから、その日初めての“食事”と呼べる食事にしいていた。だから、きっとロイは私の言葉で私の考えに気が付いてくれるだろう。

「…うん、そうだね…」

思った通り、ロイはそう言ってうなずいた。でも、それからすぐに、ロイはムクっと立ち上がる。

「レイチェル、ここじゃぁ、火を起こせない…そのワゴン押して、着いてきて」

そう言うが早いかロイはショットガンを抱え上げ、覚束ない足元ながらその場に立ち上がった。私も慌てて荷物を準備して、ロイに言われた通りにメスやピンセットのような機材の乗ったワゴンを手前に引き寄せて立ち上がる。

 私が立ち上がってみると、ロイは処置室のロックを外し、両開きの電動ドアに指先をねじ込ませてこじ開けていた。

 「行こう、レイチェル」

「うん、着いていくよ」

私は、相変わらずロイに預けられているボルトアクションのショットガンを抱えてみせながら、ロイに答えた。

 処置室を出て再び廊下を歩く。真っ暗な廊下は、もうずいぶん歩きなれてしまっていて、それほど気を遣うこともない。

 私たちは手術室や処置室、検査室なんかがあった棟から抜け、一番体を休められそうな病棟へと足を踏み入れた。その三階で、ロイの指示のもとに各所の非常シャッターを閉め、三階の各病室を循環してネコがいないことを確かめた私達は、たくさんあった病室の中でも一番頑丈そうなドアに大きなベッドのあった部屋を居住スペースに決めた。

 きっと、個室のちょっと高い部屋なんだろう。使えないとは思うけど、シャワールームにトイレまで付いている。トイレは…雪解けの水を使えば、もしかしたら、何回かは使えるかもしれない。

  不意にロイが、ベッドの上に載っていたマットレスを床に引っ張り下ろした。何をするのかと思ったら、ロイはそのベッドをグイグイとドアの方へと押し始める。

 私も慌てて駆け寄って、ドアの前にベッドのバリケードを設置するのを手伝った。

 それを終えたロイは大きくため息を吐いて、ドサっと床に置いたマットレスの上に座り込む。それすぐにウェットスーツを脱ぎ捨て、下に着ていた黒いアンダースーツ姿になった。

 ネコに切り裂かれた箇所からは、体に巻いた包帯が白く見えている。

 私もジャケットを脱いで、そんなロイの隣に腰を下ろした。

 そっと体を寄せると、ロイも私にほんの少しの体をもたせ掛けて来て、ベッドにあったブランケットで自分ごと私も包んでくれる。

 でも、ロイの体に触れた私はふと気が付いた。

 ロイは、かなり冷えてしまっているようだった。傷を縫うためにさっきまで裸でいたせいなのか…でも、ロイはあの電熱器の仕込まれたウェットスーツを脱いでしまっている…あれを着てた方が温かいはずなのに…

「ロイ、冷たいよ…?あれ着た方が良いんじゃない…?」

そんな私の言葉に、ロイは力なく首を横に振った。

「もう、バッテリーがないんだ…残りは、この二本だけ」

ブランケットから手を伸ばしたロイが、ウェットスーツと一緒に無造作に放られていたコンピュータを手に取る。

 私をチラッと見やったロイは、コンピュータをヒョイっと裏返して見せた。腕に取り付けるための布製のベルトをロイが指先で捲ると、そこにはちょうど拳銃のマガジンのような箱が二つピッタリ並んでくっ付いている。

 「一本は、コンピュータ用。これでも、地図や方位を確かめるくらいならそれほど電気は必要ないんだ…で、もう一本が…タイムトラベル用…こっちのバッテリーは、絶対に最後のときまでは使っちゃいけないの」

 タイムトラベル用…それはつまり、時間を移動するにも、ロイにもしものことがあったとき、私が避難していた大学のシェルターにテレポーテーションさせる機能も同じ。あのコンピュータを使った“時空間移動”をするために、最低限必要なエネルギー源なんだろう。

 でも、今のロイは、冷たすぎる…なんとかして、温めないと…

 そう思った私は、まず折り畳み式の木の椅子を蹴り怖し、座面に張ってあったビニールをはがして中から出てきた綿を確保した。

 次に、ここまで引いてきた手術や処置のための機材の乗ったステンレスのワゴンをひっくり返して天板を蹴り飛ばす。想像していたよりも、天板は簡単にワゴンから外れてくれたので、それを土台にして、その上に木のイスの端材とクッション面の綿を組み合わせ、最後に上から残っていたオイルライターのオイルを掛けて火をつけた。

 ちゃんと木に火が燃え移ったのを確かめ、火炎瓶を作ったときのライターがいまだにジャケットのポケットにあってよかった、なんて思いながら私は、部屋の窓を開けて採取した雪を、前のアパートを出るときにロイがリュックに入れたんだというお鍋いっぱいに入れて火にかけた。

 火に熱せられた鍋の雪はすさまじい速さで溶けていき、ぶつぶつと水泡が浮かび始める。

 お湯が十分沸騰してきた頃合いで、ドライタイプのヌードルをその中へと放り込み、スープの素になる小袋の中身をお湯に溶かす。

 すぐさま病室にいい匂いが立ち込めて、これまで具合いが悪かったのなんて忘れてしまったのか、自然とお腹がぐぅ、と音を立てていた。

 それを聞いて、さすがにぐったりしていたロイも、クスクスっと笑いだす。私も恥ずかしいのと、食事がうれしいのと、それからロイが少し元気になってくれたように感じて安心したので、いつのまにか笑顔を浮かべていた。

 それから、私とロイはいつも通りに黙々と食事を取って、余った水で後片付けを済ませる。

 そしてコンビニエンスのヌードルを食べ終えた私達はほどなくしてどちらともなくほっと息を吐いて、思わずお互いに見つめ合って笑った。

 昨日までは、こんなやり取りは毎回していたのに、と、なんだかたった昨日、なんて時間の出来事が、まるで遠い昔のように思える。

 そんな私は、ふと、ロイに訪ねてしまっていた。

「ロイは、十年間、何をしてたの…?」

「うん…まずは、あのシェルターの中を探検して回って、非常用の食糧庫には三百人が一週間過ごせるだけの食料もあったから、節約すればしばらくは持つってのが分かった。一日に二食に抑えても、八年は耐えられるくらいかな。

 それから、ソーラーパネルから供給されてる電源を地下で見つけて、それを入れたの。そのおかげで、同じフロアにあった試験栽培エリアの電気が戻ったから、しばらくはそこで大豆とかお芋とかの世話をしてた。そこで育てた野菜なんかも食料として使えたから、これは節約のためにも欠かせなかったんだ。

 それから、試験栽培エリアの世話をしながら、とにかく勉強をしてたよ。医学のこととかあとは、この装置について理解するための勉強とか、そういうことをね。

 それで、十五歳になった年からは、トレーニングもするようになった。銃の撃ち方とか、そういうのもこの時期から練習してきた。

 異常気象が収まって、ソーラーパネルから供給される電気も安定してきて、いろんなことを想定して導き出した必要数のバッテリーが揃うまでに二か月も掛かっちゃったりしたんだ。

 それからは…とにかく、手帳を使って何度も何度も計画を練って、イメージの中でそれを繰り返した。今度はうまくやれるように…って」

お腹がいっぱいになったせいか、ロイは辛さも見せずにそうシェルターでの生活のことを教えてくれる。

 正直に言って、私は、そのときが来てしまうかもしれない、と感じていた。次は、私が“ロイ”としてシェルターで様々なことを身に着け、レイチェルを助けに行かなきゃいけない…そんなことにはなってほしくはないけれど…もしものときのためには準備をしておく必要がある。

 そのためには、ロイがどんな生活をしていたのかは、大きなヒント…いや、答えそのものと言っても差し支えない。

 「寂しくは、なかった…?」

「…寂しかったよ…でもね、私は、頑張れた…」

ロイは、私の質問にそう答えて、ふっと宙を見据えた。

「私には、私のために命を懸けてくれた人がいた。“ロイ”が私に会いに来てくれた。だから私は、頑張れた…ううん、頑張らなきゃいけない、ってそう思った。本当に寂しくて、独りぼっちだった“レイチェル”を助ける…そんな気持ちに苦しんでいた私自信を助けるんだ、って、ずっとずっと、そう思って過ごしてきた」

そう言ったロイは、かすかに笑った。

「だから、頑張ってできる限りの準備をした。シェルターから研究所の中も回って、このスーツも見つけたし、警備員用の武器庫も見つけられた。すべては、寂しい時間を過ごした私を助けるため…」

「寂しい時間を過ごした自分を、助ける…」

私にはまだ、ロイの言葉の意味が良くわからなかった。でも、それがロイの気持ちをずっと支えてくれていたものなんだ、っていうのだけは感じ取れる。

 だから私は、こんな言葉がきっと今のロイを支えるには、合っているだろう、ってそう思った。

「じゃぁ、ロイ…私を一人にしないでね…もう、寂しいのはイヤだから…」

そう言ったら、ロイは優しい笑顔を浮かべて私をギュッと抱きしめ、そのまま傷を庇うようにゆっくりとベッドに横になった。

 「大丈夫…一人になんて、しない…」

ロイの小さな声が耳元で聞こえてくる。それはなんだか、嬉しそうな声色のように、私には聞こえた。

「うん…ずっと一緒だよ」

私もそう答え、ロイの体に腕を回す。

 今の私達にできることは、待つこと以外にない。

 ロイの体が回復するまでの時間を、ここでただ、ジッと過ごすんだ。そして、傷が癒えてから、父さんの研究所を目指せばいい。

 私は、自分にそう言い聞かせた。

 四日分の食料を、一日二食にすれば、二日でストックはなくなる。それがなくなったら、あとは食料を探しに出る他にない。

 果たして、病院に食材なんてものがあるのかどうか…私は、その心配をかき消したくて、もう一度心の中で自分に言い聞かせていた。

 今は、ロイが動けるようになるまで、待てば良い…もしかしたら、明日か、明後日には自由に動けるようになるに違いない…

 それはあとから考えれば、言い聞かせるというよりも、ただの願い…ただの、祈りのようなものでしかなかったんだけれど。

 とにかく。

 私とロイのそんな生活は、実に十日間にも及んだ。そして、それ以後、続けられることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カリフォルニアの雪(仮題) Catapira @catapira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ