第9話:下り坂

 ちょっぴり、困ったことになった。

 ショッピングモール脱出した私達は、予定していたアンザ・ビスタの丘の南側、緩やかな上り坂になっていたルートを放棄せざるを得なかった。

 私達は今、ショッピングモールを出て、アンザ・ビスタの丘を左手に見ながら西に進んだ先で、ようやく雪から頭を出していたアパートを見つけて、潜り込んでいる。ブラッドハウンドのときのことはすっかり学習していたから、深めの階の部屋を間借りすることにした。

 シェパードの追撃を警戒して、ということもあったけど、それ以上にショッピングモールへ逃げて来てしまったことが裏目に出た。元のルートに戻るにしても、大学に向かうにしても、アンザ・ビスタとサンフランシスコ大学の施設が建っている丘が、私達の南側に立ちはだかってしまっていたからだ。

 迂回しようとすれば、距離が単純に倍になる。

 昨日までの私達ならそれでも良かったのかも知れないけど、今は食料が心許ない。

 部屋を決める前には、他のほとんどすべての部屋を回って台所なんかを漁ってはみたけど、見つけられたのはコンビエンスのリゾット一食とパスタを三食に、缶詰めのチキンスープを二つ、お湯を入れて食べるタイプのコンビニエンスヌードルが二食。幸い、それらを食べるのに必要なブタンボンベのポータブルバーナーはあった。でも、その他に食べる物といったら、あとは私がショッピングモールのガンショップでドサクサに紛れてリュックサックに掻き込んだスニッカーズバーが八本だけだ。

 メインは一日一食で我慢して、あとはスニッカーズバーで誤魔化すとしても、二人では四日で尽きてしまう。もちろん、この先でまたアパートを探してそこで食料を探すことも出来るけれど、これだけ少ないともし手に入らなかったら、その先で行き倒れになってしまう。

 そうならないためには、南側の丘を迂回するルートよりも、食料が手に入りやすそうなルートを選ぶ必要が出てくる。

 でも、今のアンザ・ビスタの北側からカリフォルニア大学へ向かうためには、ツインピークスの麓から海岸線にまで伸びる、400ヘクタールという広大な敷地のゴールデンゲート・パークを横切らなきゃいけない。

 もちろん、横切るだけなら1マイルにも満たないけど、それでも上り坂にはなる。それに公園には、身を隠せるような場所も、食料がありそうな場所もない。

 だから、そのルートで行くのなら、カリフォルニア大学へ辿り着くまでにはもう少し食料を準備したりしておいた方が安全だ。

 だけど、食料を探すとなると、南側の丘を迂回するルート以上にあちこちを回らなきゃいけなくなるだろう。そうなれば、ネコやイヌに遭遇する可能性が高くなる。それもそれで、なるべく避けたい。

 「どうするべきかなぁ…」

ロイが、シーフードリゾットを口に運びながらそんなことを呟く。

「困ったね…」

私も、カリーフレーバーのリゾットを食みながらそう漏らしてしまっていた。

 私達が選べるのは三つ。

 アンザ・ビスタとサンフランシスコ大学がある急な丘を登って最短距離を行くか、少し距離が伸びることを踏まえたうえで丘を迂回しゴールデンゲート・パークを一気に横切るか、食料の確保を優先して辺りを探索するか、だ。

 どれを取っても、リスクが大きい。正解なんてないように思えた。

 「ロイは…どのチョイスが良いと思う…?」

「んん…“ロイ”ならどれを選ぶかな、って考えてた」

私の質問に、ロイはふざけているワケでもなく、真剣な表情でそう言った。ロイの言う“ロイ”が、彼女を助けに来てくれたロイだっていうのは分かったてはいたけど、いざ、ロイ本人にそんな言い方をされると、なんだか可笑しくなってしまう。

 思わず小さく笑い声を漏らしてしまった私を見たロイもすぐにその理由が分かったようで、ニッと唇の端を引き上げて笑顔をみせた。

 「でも実際、私が判断して来たことなんてほんの少しだけだからね。ここまでの道のりはほとんど“ロイ達”が教えてくれていたようなものだし」

「教えられた通りにやるのだって、簡単じゃないよ」

「そうだけどさ…いざ、自分で考えなきゃいけないって思うと、“ロイ”もあの場所に出るのにずいぶん悩んでたこととか思い出しちゃって」

そう言ったロイは、ふと、その表情に微かな悲しさを滲ませた。ロイにとって、彼女を助けてくれた“ロイ”との記憶は…やっぱり、悲しい思いを伴うんだろう。今の私には、それがごく当然のことのように思えた。

「“ロイ”がやれたんなら、ロイにだって出来るよ」

私がそう言ってあげたら、ロイは一瞬、目をパチパチっとさせて、それからほんの少し考えるような仕草をみせると、ふぅっと息を吐き出した。

「子どもの頃の自分に励まされるなんて、思ってもみなかったよ」

ロイは短い髪をガシガシと撫で付けてそう言い、それを聞いた私も

「私は、未来から自分が助けに来てくれるなんて考えもしなかったよ」

なんて言って、またお互いに笑ってしまう。クスクスとそんな笑いを引きながらロイは

「真っ白な未来、だね」

と呟いて、おもむろに私を膝に抱き上げた。もうなんだか慣れっこで、驚くようなこともなかった私の肩越しに、ロイがコンピューターの付いた左腕を伸ばして来た。

 小さなモニターには、煌々と明るく地図が表示されている。

 「もし、“ロイ”だったら…最短距離を突っ切るルートを選ぶと思う」

ロイはそう言って、右手の人差し指をモニターの地図上に這わせた。すると、まるでペンで引いたように、現在地から丘を登ってカリフォルニア大学の構内へとほぼまっすぐな線が描き込まれた。タッチパネルになっているらしい。

「どうして?」

私が聞くとロイは

「彼女が知っていた“ロイ”は、安全策を取ってあのアパートに身を潜めて死んだから」

アパートで…それはたぶん、ブラッドハウンドに襲われて死んでしまった、二人目のロイのこと…だろう。

「安全策を取ると、うまく行かない…私を助けてくれた“ロイ”はきっとそう考えていた。だから、あのアパートでブラッドハウンドを撃退してからは、銃の火力を最大限に活かして、あの丘とビル群とに挟まれた谷を強行突破しようとした…」

ロイの腕に、ほんの少しの力がこもったのを感じて、思わず私はそれを解きほぐそうとロイの左手を握りながら、昨日のロイの様子を思い出していた。

 確かに、昨日のロイは執拗にネコ達を排除しようとしていた。それは、ロイを助けてくれた“ロイ”の仇討ちなんだな、って思っていたけれど、どうやらそもそもその“ロイ”がネコに対して攻撃的な対応をしていたんだろう。二人目の“ロイ”のことを教訓にして…

 「だけど、それもうまく行かなくて…結果が、あんなだった…」

ロイは、静かにそう言って、私の手をギュッと握り返して来た。

「それじゃぁ、ロイはどうするのが良いと思う…?」

私は、あえて話を先に進める。思い出して辛い話を、長いこと続けていて欲しくはなかった。

 ロイは私の言葉で少しだけ気持ちを整え直してくれたのか、腕と手にこもっていた力を緩めて

「私は、ゴールデンゲート・パークを横切るルートが良いと思う」

と、再び右手でモニターに触れ、さっきとは別の、L字に曲がったルートを描き足した。

「食料を探しに行くのは安全策。丘を登るのは強行策。その間を取るんなら、きっとこのルートがベター。怖いのはゴールデンゲート・パークを横切る箇所だけど…傾斜もそれほどきつくないはずだから、急げばそれほど時間を掛けずに通過できる。慎重に進むことを考えて長く見積もっても、三日あれば確実に大学に着けるんじゃないかな」

ロイは、静かな声でそう言った。

 直線距離なら2マイル弱。緩やかな迂回ルートでも2マイル丁度くらいだろう。なんでもない道なら、二時間もあれば十分過ぎる。雪道のこととネコやイヌのことを考えて、三日掛けて慎重に進んだとしても、食料はたぶん、問題ない…

 「公園の近くでアパートを探そう。そこで休みながら、公園の様子を良く観察して、一番安全そうなタイミングとルートを見極める」

「そのアパートに食料があったりしたら、もっと安心だね」

私がそう言ったら、クスっとロイが笑う声が聞こえた。

 体にこもっていた力がフッと抜けて、右手でコンピューターのモニターを消したロイが、後ろから柔らかに私を抱きしめてくれる。

「そうだね…食べ物は、大事だもんね」

ロイのそんな優しい声が聞こえた。

 私は、ロイの腕に体を預ける。

 ジャケットを羽織っている私に、ゴムのような厚手の生地で身を包んでいるロイの体温はそれほど伝わっては来ない。それでも私は、肩越しに耳元に重ねられるロイの温もりと、気持ちに、胸の内が暖かくなる。

 そんな私に、ロイが囁いた。

「なにがあっても、あなたを一人にはしないよ」

でも、私はロイの手を握って言い返していた。

「ロイ、何があっても、一人になんてしないよ」


* * *


 そして翌朝。

 私は、珍しくロイよりも先に目を覚ましていた。チラッと時計を見やって、朝の六時だということを確かめた私は、そっとベッドから這い出る。

 途端に冷気が私の体を包んで背筋がゾゾっと凍えた。

 ソファーに投げてあったジャケットを着こんで、部屋にあったマグライトのスイッチを入れた。

 もう何度もこんな真っ暗な中で目を覚ましているけれど、いつだって不思議と朝だとわかる。もちろん、ロイが都度そう言ってくれたり、自分の腕時計で確かめたりしているから、というのもあるんだけど、それでも、きちんと目が覚めるっていうのは、やっぱり不思議に感じられた。

 バスルームに行って用事を済ませて、昨晩雪を溶かしてプラスチックボトルに入れておいた水をタンクに入れてコックをひねり、ロイのいるベッドへと戻る。

 アパートの部屋を確保するときのチェックには、下水管が凍って詰まったりしていないことも確かめている。そうでないと、もしものときに困ってしまう。

 だから、一番下の階は安全だけれど、生活をするとしたら、困る。せめて、下から二番目か三番目の階でないと、タンクにいくら水を入れようがコックをひねろうが流れて行ってくれない、っていうのを、私は昨日、深い階層に泊まることにして初めて知った。

 人間、食べれば出るのが当然で、食べることと同じように、出すこともきちんと考えておかないといけない、とはロイの言葉だけど、確かにその通りだったな、と思う。

 安心して用事を済ませられないなんて…なんだか、きっと落ち着かないだろう。

 ベッドでは、ロイが私が居なくなったあとの枕を抱きしめて眠りこけていた。私は、ブーツを脱いでもう一度ベッドに上がり込んだ。

 そして、ロイの腕から枕を引っぺがし、その肩を優しく揺する。

「ロイ…ロイ、起きて。朝だよ」

「んんっ…ロイ…」

不意に、ロイはそんなうめき声をあげてしがみつくように私を捕まえ、悲鳴をあげる間もないくらいの素早さで私のお腹のあたりに顔を埋めて抱き着いて来る。

 「ロイ…」

ロイがまた、そんな声を漏らした。

 ロイ…昔の夢を見ているのかな…?いや、昔、っていうか…今っていうか、そのなんて言ったら良いのか分からないけど…とにかく、まだロイがレイチェルだった頃の夢、ってことだ。

 そう思ったらなんだか起こしちゃうのは可哀想な気がしたけど、でも、今日はいつもより早く起きてなるべく早くに出発して、ゴールデンゲート・パークの周辺で身を隠せる建物を探そう、と言っていたのはロイだ。

 私は、まるでお母さんに甘える子どもみたいにしているロイの肩をもう一度そっと揺する。

「……レイチェル、朝だよ」

ちょっと変な感じがしたけれど…私はロイに、そう声を掛けてあげていた。そんなこと考えたくはないけれど、もしこの先私が“ロイ”になることがあったとしたら…私も過去の私をそう呼ばなきゃいけないときが来るんだな、なんて思うとなんだかやっぱり違和感がある。

 でも、もしかしたらロイも未だにそんな感覚でいるのかな、なんて思ったりもして、なんだか少し、不思議な気持ちになった。

 ロイは、私とは違う私だけど…でも、やっぱり私なんだな、なんて、どうしてか、そう感じられる。現実的に考えちゃうと途端に薄れてしまう、そんな感覚だけど。

 「レイチェル、起きて。ブレックファスト、食べちゃうよ?」

私は、何日か前の朝のことを思い出して、そんなことを言ってみる。すると、ロイは一瞬間をおいて、クワッとその目を見開いた。

「おはよう、ロイ」

私がそう声を掛けたら、ロイは私の顔をまじまじと見つめ、それから挨拶もなしに、私をギュッと強く抱きしめた。

「夢、見てたの?」

「…うん」

ロイは、私のお腹に顔を埋めながらそう答える。

 やっぱり、なんだか子供みたいだ。

 そう思って、私は短いロイの髪をそっと撫でてあげる。でも、不意にロイはパッと私から体を離して

「ブレックファスト、食べよう」

なんて、夢の中の心地を振り切るようにして言った。

 私は、そんなロイの小さな決心をなんとなく感じて、それを尊重して

「そうだね」

とだけ答えて、ベッドから這い降りた。

 ロイが身支度を整えている間に、ポータブルバーナーに火を入れて、部屋の窓をほんの少し開け、部屋にあった鍋に雪を掻き入れたものを上に置く。

 冷たく凍った雪がみるみる内に溶け始めて、鍋の底に水がたまり始めた。

 「あぁ、そうだ。今日は、たくさん食べておこう」

不意に、あのウェットスーツを着終えたロイがそう言って、残り少ない食料の中からお湯を注ぐタイプのコンビニエンスヌードルを選び出した。

「いいの…?それだけしかないのに…」

私がそう聞いてみるとロイはクスっと笑って

「今日は急がなきゃいけないからね…体力つけておかないと」

と言い、ベリベリとアルミ箔の蓋をはがし始めた。

 お腹が空いていると、足が進まないのは本当だ。疲れやすくなるし、体も重く感じる。急ぐのなら、きちんと食べておかなきゃいけない。食べてしまった分は…向かった先に、同じような食料があることを祈ろう。

 私はそう納得して、いったんバーナーの火を止めて、鍋にもう少し余分に雪を入れて、もう一度火にかけた。

 ほどなくして、鍋からは湯気が立ち上り始め、そのせいか、室内がほんのり暖かくなっているような気がし始める。

 沸騰したお湯をこぼさないようにヌードルのカップに注いで蓋をした。

 三分で、ホカホカのおいしいブレックファストだ。

 私がそんなことをしている間に、ロイは、昨日の晩にショットシェルを詰め込んだマガジンを確認していた。

 五本あった予備のマガジンの内の二本にはサボット弾というスラッグ弾よりも精度の高い射撃ができる弾を、残りの三本にはバックショットの散弾を装填し、ショットガンにセットされているマガジンにも散弾が込められている。

 ロイは、なるべくなら遠距離の射撃を避けようとしているんだ、っていうのがうかがえた。

 ただ、それでもまだ弾はリュックサックいっぱいに余っている。一昨日の食料のように、この先でリュックサックを失くしてしまわない限りは、弾の心配はいらない。

 ロイはショットガンのチェックも終えて、あの暖かくなる布を機関部にぐるっと巻き付けて、座っていたソファーにそっと立てかけた。

 ちょうど同じころに、私は腕に着けていた時計の長針が三つ目の目盛りを指したのを確認していた。

 「もう大丈夫だよ」

私が言うと、ロイは笑顔で

「ん、おいしそうな匂い」

なんて言って、フォークを片手にヌードルのカップを手に取った。

 私もこの匂いに気持ちを急かされて、おんなじようにフォークを握って、ヌードルのカップを手にしようとした。

 そのときだった。

 ゴトっと、背後で何かがぶつかる音が聞こえて、思わず私は振り返った。

 そして、目の前にあった光景に、思わず身を固めた。

 何が起こったのか、一瞬、理解できなかった。そして、寸瞬の後、私は何が起きているかを理解するよりも早く、背筋に走る強烈な悪寒に震えた。

 そこには、大きなネコが居た。背後にある玄関口が開いていて、そこから、あの巨体が部屋の中に侵入してきていたのだ。

 「レイチェル!」

ロイが叫ぶ声が聞こえたのと、ネコが私めがけてとびかかって来るのとは、ほとんど同時だった。

 私は思わず、手に取ったばかりのヌードルのカップを、ネコに向けて投げつける。宙を舞ったヌードルのカップがネコの額に弾け、カップを投げつけた私の腕が、何か得体のしれない強い力で弾き飛ばされる。

 ネコは、入れたばかりの熱湯を浴びて私の目前で勢いを止めた。

 そんな一瞬の隙に、ロイが私をソファーの方へと引っ張り込み、私と入れ替わるようにしてネコに一歩踏み出したロイは、素早く構えたショットガンの銃口をネコの鼻先に向けて引き金を引いた。

 カキャンッ!

 といつもの鋭い音がして、ネコが血煙をあげて床にたたきつけられる。ロイは一瞬でネコがそれ以上動かないことを確かめるとその死体を飛び越えて、玄関のドアを閉め、傍らにあった靴箱をひっくり返してドアをロックする。

 そして、すぐに身をひるがえして、ソファーの上で呆然としていた私のところに戻ってきてくれた。

 ロイは、慌てたような表情で私の腕をギュッとつかむ。

「レイチェル、しっかり…!今、止血するから…!」

 ロイの言葉を聞いて、私はその意味が分からなかった。

 止血…?私、血が出てるの…?

 そう思って、私は初めて自分の体を確認する。と、ロイが握った右腕のシャツが引き裂かられ、赤黒い何かに染まっていた。

 とたんに、腕から骨に響き、全身を駆け抜けるような痛みが私を襲った。

 ロイがナイフで私のシャツを切り裂くと、そこには、深くえぐり取られた二本の傷口が開いている。

 痛くて、痛くて、声も出ない。私はただ、自分のその傷口を見つめながら、全身をこわばらせ、丸めて痛みに耐えることしかできなかった。

 ロイがポーチからファーストエイドキットを取り出して、勢いよくソファーに広げた。

 その中から素早く包帯を手に取ったロイは、すぐさま私の肘のあたりをきつく縛り付ける。そして今度は小さなプラスチックのボトルを手にした。

 片手でパキッと蓋を押し開けたロイは、そこから溢れた液体を私の傷口にかけ始める。

 次の瞬間、さっき以上の焼けるような痛みが私を駆け抜け、私はバタバタと暴れながら思わず悲鳴を上げていた。

「ロイ!やめて…!痛い…!痛いよ…!」

でも、ロイは私の腕を離すどころか、私に馬乗りになるようにして抑え込み、さらに液体を傷口へと垂れ流す。

 傷口から、さらに痛みが私を襲った。その猛烈な痛みに、額が冷たくなり、意識が白んでくる。

「ロイ…やめて…やめて…!」

私は、とにかく必死になってそう叫ぶ。けれど、ロイはさらに強い力で私の体を押さえつけ、傷口の消毒なのか洗浄なのか、とにかくボトルの液体をかけ続ける。

 そして私は、その痛みに絶叫しながら、プツリと意識を途絶えさせてしまっていた。


* * *


 ユサユサと、体が揺れる。

 冷たい空気に晒された頬が裂けるように痛み、寒さが私の全身を舐めるように這う。

 再び大きく体が揺れ、右腕の鋭い痛みに、私は意識を取り戻した。

 ぼやけた視界に映るのは、グレーと白。それが、体の揺れに同調するようにして、大きく上下している。

 ここは…?

 私…どうしたの…?

 ようやくそうとだけ考えられる程度に思考が戻って来た私は、自然と手足を動かして、自分の体を支えようとしていた。でも、なぜだか自由が効かない。それどころか、右腕から再び鋭い痛みが駆け抜け、私の全身を強張らせた。

「痛っ…!」

思わずそう声を漏らしてしまった次の瞬間、ユサユサっと体が揺さぶられ、次いで、何かを伝わっているようなくぐもった声が私の耳に届いた。

「レイチェル…?」

ロイの声だ。

「…ロイ…?」

私がそう答えると、また体が揺さぶられた。凍えそうな冷気がジャケットの首元から入り込んで来る感覚がしたと思ったら、ボヤケていた視界に、何かが映った。

 パチパチと何度も瞬きをすると、次第に目の焦点が合い始める。やがて、私は視界の中に映っていたのが、私を心配げな表情で見下ろすロイの顔だってことに気が付いた。

「ロイ…」

「レイチェル…分かる?」

さっきよりもはっきりとロイの声が聞こえて来る。私は、その言葉に頷いた。

「良かった…」

ロイは、そう言うなり私をギュッと抱きしめてくれる。

 そのときになって私は、自分がロイの膝に抱えられていることに気が付いた。ロイの肩越しに辺りを見回すと、そこに広がっていたのは今までとは少し違った景色だった。確かに雪景色なのだけれど、あちこちに大きかったんだろう木の先端が、まるでクリスマスツリーのように何本も突き出ている。そのほとんどは枯れてしまっているけれど、針葉樹の中には、本当にクリスマスツリーのようになっているのもある。

 それに、なんだか角度がおかしい。私の視界は…そう、まるで、急な坂道の途中にいるように、地平線と空の角度が並行ではなく、角度をもって交わっている。どうやら、私達は山にいるらしい。

 でも、どうしてこんなところに…?

 確か、私は…アパートでネコに襲われてケガをして…ロイが手当てをしてくれようとして…それから…

 私ははっきりとし始めた意識を総動員して、おぼろげな記憶を呼び覚ます。

 そう、私はケガをしたんだ…アパートで…でも、どうして雪道にいるの…?

 「ロイ、私、どうしちゃったの…?」

私は、痛まない左腕でロイをロイの背に回してそう聞いてみる。するとロイは、掠れた小さな声で静かに言った。

「ネコに襲われて、ケガをして…発熱してる」

「発熱…?」

そうか…この全身を舐めるような寒さは、熱があるからなんだ…

 そう理解した私は次の瞬間、まるで頭の中で急に回路が繋がるような衝撃とともに、それまで以上に背筋が凍る感覚に襲われた。

 ロイは、言ってた…ネコやイヌが巨大化してしまったのは、バイルスのせいだ、って。

 そして私は今、ネコにケガを負わされて、熱を出しているらしい。

 そんな結論に至るのは、当然だと思う。

「ロイ、私…もしかして、バイルスに感染しちゃったの…?」

すると、私を抱きしめていたロイは首を横に振った。

「それは絶対に大丈夫。抗体検査をしたから、確かだよ。それに…私がこの時代にやって来たことでバタフライ効果が起きてない、これから起きないって保証はないけど…今の段階のバイルスがいきなり人間に感染できるほどの変異を起こすことは、まず考えられない。必ず間にブタか特定の種類のネズミの媒介が必要で、その過程を経なければ、霊長類への感染は構造上ありえないはずなの」

ロイは、落ち着いた声色でそう言う。それは、私から不安と取り除こうと、あえていつもよりもハッキリした断定的な口調だった。それでも私は

「でも…私、すごく寒い…」

と、不安感と寒さから、私はロイにギュッと抱き着きながらそう訴える。するとロイは、私の髪をそっと撫でつけて、言い聞かせるようにして言った。

「寒いのは貧血になっているのも大きいんだと思う…出血もあるし…顔も真っ白…」

ロイの手が、髪から頬へと当てられる。

「乱暴にして、ごめんね」

ロイの言葉に、私は首を横に振った。あのときの手当は痛かったけれど…でも、必要なことだった、っていうのは分かる。だから、そのことについてロイを責めたいなんてこれっぽっちも思わない。

「でもね、レイチェル、聞いて」

だけどロイは、そんな私の体を離し、目をじっと見据えて、静かに言った。

「あなたのその傷は、かなり深い…。動脈は無事だったけど、腱は切れているかもしれないし…それほどの外傷だと、たぶん、今のあなたには別の感染症に罹っているリスクが高いの」

「べ、別の感染症…?」

「そう。普通、大きなケガをしたりすると、体が防衛反応を起こして熱を出すことがある。もちろん、貧血で発熱するケースもないわけじゃない。でも、そうじゃなくて、外傷性の感染…私達の皮膚に常にある菌や、ネコの体にいる菌だったりもするんだろうけど…とにかく、普段の人間には脅威にならない細菌でも、大きな傷口から大量に入り込むと感染症を引き起こすことがあるんだ。高熱が出て、何も対処しなければ、命にかかわる可能性があるの。消毒はしたし滅菌シートも貼ったけど、それでも完全に感染を防ぐことはできない。もしものときのことを考えて、抗生剤が必要なんだ…そして、感染かそうじゃないのかを確かめるためには、抗体検査をしなきゃいけない。でも、私の持ってるキットは」

そしてロイは、私の体を抱きかかえるようにして、厳しい顔つきでまるで壁のようにそびえる雪山を見上げた。

「だから…サンフランシスコ大学のある丘を登る。その裏手にあるセント・マリーズ・メディカルセンターに向かってるんだ」

 私はロイの話を聞いて、理解した。

 ロイは、私のケガで、丘を登るプランを選ぶしかなくなってしまったんだ。三つのプランのうちでも、きっと避けた方がいいはずの、登るだけで体力も気力もそぎ落とされてしまいそうなこの急な雪山を、だ。

 「あっ」

不意に、ロイがそう声を上げたと思ったら、彼女は雪面に投げてあったガンショップで持ち出してきた方のショットガンを素早く構え、ダーン!と野太い銃声をさせて、一発、発砲した。

 私がその銃口の向いた方向を見ると、そこにはあのシェパードが、相変わらずの微妙な距離で、私達の後ろに着いて来ている姿があった。

 「あいつ…まだ、追って来てるんだ…?」

「うん、アパートを出てから少しして、また姿を現した…」

とロイは、ショットガンのボルトを引いて胸の前に提げ、さらにいつものセミオートの方のショットガンを首からぶら下げると、私をくるんでいた厚手のブランケットごと私の体を持ち上げ、そしてその背にしょい込んだ。

 そこから見える景色は、ロイの来ているウェットスーツのグレーと、その向こうに見える雪の白。

 そうか…私は、ここまでずっと、ロイに背負われて来ていたんだ…

 そんなことを理解していた私は、ロイに声を掛けざるを得ない。

 「ロイ、大丈夫…?少し、休憩したほうが…」

しかし、私のそんな言葉にロイは首を横に振った。

「今は無理。こんな場所で襲われたら、十分に戦えない。せめて丘を登ったところまではいかないと、安心して休憩なんてしれられないよ」

そしてそう言ったロイは、肩越しに私を振り返り、微かな笑みを見せて言った。

「だから、このまま一気に登る。レイチェルは約束通り、後ろのあいつ、見ててね」

 私は、そんなロイに、うん、と返事をして頷くほかになかった。

 それからロイは、背中には食料のリュック・サックを背負った私を、胸の方には二本のショットガンを釣り下げ、腰には箱から出した弾とロイが元々持っていた道具一式がパンパンに詰まったポーチを着けたまま、必死で這うようにして雪の丘を登った。

 途中で足を滑らせ、数メートルずり落ち、それでも両腕と両脚が沈まないように注意しつつも懸命に雪を掻き、少しずつ、ほんの少しずつだけど、山の上へ上へと進んでいく。

 私は、そんなロイを心配しながらも背後から雪に埋もれながらも着いて来ているシェパードに気を配っていた。

 シェパードは、やっぱり一定の距離を保って、私達の後を正確に追跡してきている。でも、どうしてか距離は縮めて来ない。さすがに足場が悪いからなのか、それともロイの銃撃が怖いからなのか分からない。

 ロイがガンショップで手に入れたサボット弾は、スラッグ弾とは違って、シェルの中には拳銃弾の様な物が詰まっていて、さらにそれを覆うプラスチックのカバーが着いている。それを、ライフリングが施されている銃で打ち出せば弾に回転が付き、銃口から出た瞬間にプラスチックのカバーを弾け飛ばして拳銃弾のような弾がまっすぐに飛んでいく銃弾だ。

 スラッグよりも先が丸くなっているし、それに、回転が加えられていることで安定した飛距離と精度を保てるらしい。

 スラッグ弾は100フィート以上の相手を狙うには難しい。でも、サボット弾ならそれも可能だ、とのことだった。

 これなら、もう少し距離が近ければあのシェパードにもケガを負わせることができるかもしれない。

 ロイもそれなりには狙って撃っているんだろうけど、そもそも弾が当たったところで効くかどうかの判断が着いて居ない。

 だから、当てて倒そうとしているんじゃなく、銃撃によってこちらが常に警戒していることを伝える意味合いが強かった。

 グリズリーの頭蓋骨は、マグナム弾でも弾き飛ばすほどに固いと聞いたことがある。この距離でいくらスラッグ弾やサボット弾を撃ったとしても、果たして像のような巨体のあのシェパードにどのほどの効果があるのあは、未知数だ。

 「あぁっ」

不意にそう声をあげて、ロイが雪に這うような姿勢になって、ズリズリと数メートル下へと滑り落ちた。

 その瞬間、シェパードはその巨体を素早く翻して、私達の方へと駆け上がろうとしてきた。

 私はとっさに、ロイに言うよりも先に、胸にしまってあったグロックを左腕で引っ張り出して空に向かって引き金を引いていた。

「ロイ、シェパードが来る…!」

「あぁ、もう…しつこいやつ…!」

そう言ってボルトアクションのショットガンを構えたロイは、引き金を引かなかった。ロイが斜面の下に向いたことで、ロイの背後になってしまった私が肩越しにその様子を見やると、そこには、いつものように離れた距離のところまで戻っていた。

 もしかして、あのシェパード…ロイの銃撃じゃなく、私のグロックの銃声でも十分追い払えるのかもしれない。

 そりゃぁ、耳元でボンベを爆発させたりして散々に脅かしてやっていたんだ。追いかけて来る方が怖いだろうに、距離を詰めると毎回発砲される、ってことになっていたら、逃げたくなる気持ちも分からないではない。

 ふと、私はそこまで考えてロイに聞いてみた。

「ロイ、ブタンぼボンベは、持って来てないの?」

「ブタンのボンベ…?予備が三本あるけど、何に使うの?」

そんなロイに、私は、閃いた案をロイに話す。

「ブタンのボンベにバックショットのシェルをいくつか巻き付けて、シェパードが近くを通ったら、それを狙い撃つの…どうかな?」

良い案だと思ったんだけど…それを聞いて、ロイは首を横に振った。

 「ブタンのボンベは、低温化じゃ発火しない。撃ち抜いても火が出たりせずに、ただそこに穴が開いて、中の液化ガスが気化して噴き出すか、散弾でいくつも穴をあければ破裂はするけど、それだけ。熱を発するわけじゃないから、爆弾の様にはならないし、ショットシェルを着けていても、破裂して弾をまき散らしたりはできないよ」

そういえば、そうだった…あのブタンのボンベは、低温ではカセットコンロに使っても火が付かないんだ。

 前回も、爆発音はしたけれど、火が出たような様子は見られなかった。

 そうか…これも、ダメ…でも、少なくとも私の発砲でも距離を空けてくれるのはありがたい。

 それだけだって、十分な意味があるはずんなんだ。

 そうして、私はロイの背中に揺られながら、とにかく背後のシェパードを見張っていた。

 そしてどれくらい経ったかロイは、なんとかその雪山を登り終えた。

 登り終えた先にあったのは、茶色い色をした雪に埋まった大きな建物。

 そして。

 私は、その光景を見て、心臓が止まった。

 丘を登り切った先にあった大学の建物の周辺には、無数のネコ達がたむろしていた。

 私もロイも、そしてネコ達ですら、急に出くわして、息を飲んでしまっていた。

 沈黙の中、拭き上げて来る山風の音がヒュルルと響く。

 そして次の瞬間声を上げたのはロイだった。

「捕まってて!」

そう言うなりロイは、アサルトライフルのような方のショットガンを立て続けにカキャン、カキャン、カキャンッ!と発射した。ほんの十数ヤード先にいたネコ達が血しぶきをあげて真っ白な雪の上の弾け飛ぶ。

 そしてそれを合図に、他のネコ達が一斉に私達目掛けて飛び掛ってきた。

 ロイに背負われていた私は、私を縛り付けているブランケットのせいでどうすることも出来ずに、ただただ必死でロイにしがみついた。

 カキャン、カキャン!と再び二発を撃ったロイは、私を背負っているにも関わらず、素早く雪の上に転げた。

 世界がひっくり返って、体が揺さぶられる。

 そんなでも、ロイは素早く立ち上がると転がった先にいたネコ達を更に三発で撃ち倒した。

「走るから、絶対に手を離さないで!」

そんなロイの声に、私はとっさに怒鳴り返した。

「ロイ、私を下ろして!」

山を登るのやシェパードを追い払うのとは違う。これだけのネコを相手にするには、私は文字通り重荷だ。体は怠い感じはしているけれど、動けないってほどじゃない。少なくとも、ほんの短い距離を走るくらいなら、どうってことはないはずだ。

 それなら背負われているままよりも、ロイの負担にも邪魔にもならないはずだ。

 「…離れないでね…!」

ロイは、私の考えをすぐに理解してくれたようだった。次の瞬間には私の体を固定していたブランケットが緩んだ。私は、ロイの背中をボンっと押して、雪の上に飛び降りた。

 背後には登ってきた山道があって、逃げるには目の前のネコの群れを切り開くしかない。私はそう辺りの様子を確かめながら、自分の体の具合を確かめる。

 大丈夫…思っていたほど、体は重くない。これなら、全速力だって走れるはず…!

 その間にも、ロイは素早くショットガンを発砲する。

 カキャン、カキャン、カキャンッ!

 私は、それを聞いてハッとした。

 今ので、十一発目…!

「ロイ、マガジン!」

私はそう声を上げながら胸元のグロックを握って一番近くに居たネコに照準を合わせて引き金を引いた。

 乾いた銃声とともに衝撃で腕が跳ね上がる。ベチャっという湿った音とともに、ネコの鼻先に血煙が舞った。

 「下がって!」

ロイはその一瞬でマガジンを交換し、ボルトを引いて次の射撃体勢に入っていた。私は、ロイが私の方へと放ってきた空のマガジンを拾って、リュックサックの中から取り出した新しいバックショットを装填に掛かる。

 だけど、この状態は危険だ。建物の中のような狭い場所ではなく、こんな開けた場所でこれほどの数のネコと戦うのは、私達がもっとも恐れていたことの一つだ。しかも、私達の背後には下りの山道。万が一のときには、この坂を下らないといけないかもしれない…

 私は、その可能性を考えて、背後を見やった。

 そうだった…目の前のことに捉われてしまって…私、直前のことを忘れてた…!

 そこには、雪の山道を登ってきているシェパードの姿があった。

 「ロイ!シェパードが…!」

「………!」

私は、ショットガンを撃ちまくっているロイの背中で、彼女が息を飲んだのが分かった。でも、次の瞬間、ロイは背負っていたボルトアクションのショットガンを雪の上にドサッと落とした。ロイの肩に掛かっていたストラップの一方が外されている。

「レイチェル…使い方、分かる…!?」

ロイの言葉の意味は、すぐに分かった。ロイは、目の前のネコの群れに手一杯だ…背後のシェパードは、私がなんとかするほかにない。

 私は、ロイが落としたボルトアクションのショットガンを拾い上げた。

 銃身の重みが、ずっしりと私の両腕に掛かる。とたんに、ネコに引っかかれた傷がズキンと痛んだ。

 それでも私は、身の丈に合わないショットガンを坂の途中のシェパードへと向けた。でも、重さでなかなか照準がつけられない。

 そんな間にもシェパードは、四本の脚でズンズンと私達めがけて雪道を登ってきている。

 私は、とっさに足元の雪をかき集めて山にし、その上にショットガンのフォアエンドを置いて、ケガのない左手でグリップを握り直し、慎重に狙いを定めて引き金を引いた。

 ダァーン!というけたたましい銃声とともに、私の左肩がストックの台尻に叩かれる。

 一瞬の間があって、坂にいたシェパードがギャンッと声を上げてその巨体を雪の中に転げさせた。

 あ、当たった…!

「ロイ、当たった!」

「様子は!?」

ロイに言われて、私はジッとシェパードを見つめる。シェパードは、すぐに雪の中から悶えるようにして立ち上がった。私は慌てて、右手でボルトを引こうとして、激痛に一瞬、身を強張らせてしまう。

 でも、シェパードの方は、右の前脚を持ち上げ、三本脚でバランスを崩しながら、一目散に坂道を下り始めた。

 「ロイ、逃げてく!」

「良かった…!次、弾込めお願い…!」

ロイは、それでも鬼気迫る様子で私にそう言った。

 足元にはすでに三本のマガジンが転がっている。残りあと一本…あとは、多数を相手にするには向いていないサボット弾のマガジンしかないはずだ。

 私はショットガンはそのままに、身をひるがえしてさっき中断した弾込めを再開する。一本目をいっぱいに装填し、それをロイのポーチに押し込んで、さらに二本目にとりかかったとき、引っ張り出してあった弾がなくなった。

 すぐさまリュックサックに手を突っ込んで新しい箱を引っ張り出そうとした私の手に、弾の箱とは違う固く冷たい何かが触れる。

 私は、ハッとしてそれをリュックサックの中から取り出した。

 それは、ショッピングモールで火炎瓶を作ったときに余った、オイルライターの燃料だった。

「ロイ、これ使って!」

私はすぐさまオイル缶をロイのポーチに押し込んで、リュックサックから新しい弾の箱を一つ取り出し、すぐにリュックサックの口を閉めて背負い込んだ。ロイから預かったボルトアクションのショットガンも胸に抱える。

 ロイは、撃ち切ったマガジンを私に放ってよこして、ポーチの中から新しいマガジンとオイル缶を片手でつかみ上げた。

 オイル缶をネコ達の方に投げたロイは、そのまま素早く新しいマガジンをショットガンにセットし、ボルトを引いて発砲した。

 空中でバックショットの雨を受けたオイル缶が砕けて、炎がネコ達の上から降り注ぐ。

 「行くよ、レイチェル!」

「うん!」

ロイは、さらに数発の発砲を続けながら炎の方へと駆け出した。私もすぐにそのあとへと続く。

 ネコ達は霧のように広がり降り注いだ炎にたじろいで身を引き、あるいは炎を被って一目散にどこかへ駆け出していた。

 私とロイは、そんなネコ達の間を駆け抜け、包囲網から脱出する。

「レイチェル!向こうの坂を下って!」

ロイがそう叫んびながら指さしたのは、すぐそばにあった大学の建物ではなく、稜線の向こうだった。

 私が返事をするまでもなく、ロイは一瞬足を緩めて私の背後に回り、私達を追いかけてこようとしているネコ達にショットガンを連射した。

 雪道を駆け抜け、稜線を超えたその先には、ここに来るまでと同じような急な傾斜がありその途中にはポコポコとまばらに建物の屋上らしき膨らみができていて、傾斜の麓には、大きな建物がいくつか雪の中から顔を出しているのが見えた。

 その中の一つには、アスクレピオスの杖を象った病院のマークの付いた建物もある。

 あそこが、目的地だ…!

 「ロイ、見えた!」

私は振り返ってロイにそう報告をする。ロイは、ショットガンのマガジンを交換しながら

「走ろう!」

と声をあげる。

 距離は、ほんの五百フィートほどだ。全力で駆け抜けられるような距離じゃないけど、ランニングのようにして走ればそれほど掛かるとも思えない。

 私はそれを確かめて、抱えていたショットガンのストラップを付け直し、お腹の前に垂れ提げる。

 両手を自由にして、走りながらでもロイのマガジンに弾を込めなければいけない。

 私は傾斜に足を踏み出しながら、ポケットに押し込んでおいた弾の箱からバックショットを取り出して、マガジンに押し込む。

 ネコ達は、傾斜を駆け下りる私達を追いかけてきているようで、ロイの銃声は止まない。それでも私は、転ばないように気を付けながら下へ下へと足を進ませ、同時にマガジンへの装填作業の手も止めなかった。

 私はなんとか十発のバックショットをマガジンに装填し終え、私のすぐ後を、サイドステップで着いて来ているロイに差し出した。

「ロイ、マガジンっ!」

「ありがとう…!」

ロイはそうとだけ言ってマガジンを受け取り、残りの三発を一気に連射してマガジンを交換する。空になった方は私が受け取りった。

 マガジンの再装填もしなければならないけど、逃げる方でもたもたしていたら、ロイの邪魔になる。今の私は、とにかく走るより他にない。マガジンの再装填は、あくまでも転ばないように気を付けながらの作業だ。

 でも、そんなときだった。

「あっ!」

という鋭い声が、私の耳に聞こえて来た。

 ハッとして振り返るとそこには、雪の中に倒れ込んでいるロイの姿があった。

 雪に脚を取られたのだろうロイは、それでも、自分に飛び掛ってきたネコにバックショットを浴びせ掛ける。

 それからすぐに立ち上がろうとしたロイは、脚をもつれさせて再び雪の上に崩れた。

 あとから考えれば、それも当然だった。

 ロイは、大学に来るまでずっと、私と荷物を背負ってあの急な斜面を登って来ていたんだ。ロイがどれだけ疲労していたかは、想像に難くない。

 でも、私はその瞬間には、そんなことを思っている余裕すらなかった。

 とっさに空きのマガジンを放り出した私は、抱えていたショットガンのボルトを引き、膝を付いて狙いを定める。

 その間にロイは、セミオートマチックのショットガンを撃ち尽くす勢いで引き金を引き続けていた。

 あのマガジンに入ってる十発を撃ち切ったら、あとはサボット弾のマガジンしか残ってない。追ってくるネコ達は縦に列をなしているけれど、それは私達を追い掛けて来ているからで、近付かれたらそうもいかない。

 サボット弾では一匹は倒せても、狙ったネコのすぐ隣にいるネコは倒せない…バックショットのように、面で戦えないのなら、あの数を相手にするのは難しい…そうなったら、ロイは…!

 私はそんなことを想像してしまって、焦る気持ちに任せて引き金を引いてしまっていた。ガァーン!と言う爆発音がして、私は肩を反動に突き飛ばされ、背後の坂道に転げる。

 そう、ここは下り坂…さっきシェパードを追い払えたときのように、撃ち降ろせるワケじゃない。

 せめてもっと低い位置で、フォアエンドを支えないと、サボット弾の装填されてるこっちのショットガンじゃ、当てられない…!

 カキャン、カキャン、カキャンッ!

 ロイが、こっちに向かってくるネコ達さらに三発発射した。先頭にいたネコとその右隣にいた二匹が散弾に巻き込まれて雪の上に崩れ落ちる。

 でもすぐさまそんな三匹を別の二匹が飛び越えて来た。それも束の間、着地の僅かな減速ないままに、ロイに飛びかかった。

 まだ雪道に倒れたロイは、起き上がれない。

 私が雪の上に腹ばいになり、フォアエンドを固定するための雪山を作っているその間に、ロイは、先頭のネコに発砲した。バックショットに捉えられたネコは全身を千切られるようにして地面に潰れる。でも、前の三匹を飛び越えて来ていたもう一匹が、転んでいたロイに飛び掛かった。

 ネコは、ショットガンを横に構えたロイの両肩を押さえ込み、鋭い牙を、ロイの首元に迫らせる。

 でも、間一髪のところでロイは、ショットガンを真横にネコの口に押し込んで、それを防いだ。

 「ロイ…!左に避けて!」

私はショットガンの設置を終えてロイに怒鳴った。それが聞こえたのかロイは、左腕でショットガンを押し上げ左へと体を捻ろうとしている。ただ、いくらロイだってあんな大きなネコの力に敵うはずはない。

 だけど、私は、なんとかショットガンの準備を終えることが出来ていた。ロイが腕を突き出してくれたから、ネコの上体がほんの少し持ち上がる。

 私はそんなネコの額に照準を合わせて、再び引き金を引いた。

 ガァーンッ!と当たりに音が鳴り響き、微かな血煙あげてロイの上になっていたネコ横へと崩れ落ちる。

 その下から這い出したロイは、ショットガンを構えなおして立ち上がり、残りのバックショットを撃ち切るまで発砲を続けた。

 ロイはもう走れない…私も、今は良いけど、体が重く感じられている。おそらく、そう長くは逃げ回ってはいられないだろう。

 身を隠さなきゃいけない…でないと、ロイが危ない…!

 私はめまぐるしく頭を回転させて、辺りを見回し、ほどなくして自分の背後を振り返り、思い付いた。

 そうだ…隠れなくっても、これなら…!

 「ロイ、使って!」

私がそう言ってロイの足元投げたのは、バックショットの弾が詰まった箱。マガジンに装填しなくても、ボルトを引いて機関部に都度押し込んでなら、まだ撃てるはずだ。

 そしてそれから私は、すぐそばにあった建物の屋上らしい雪に埋もれたコンクリートから突き出た五フィート程の大きさの看板の支柱をショットガンの銃口を押し当てて撃ち抜いた。

 看板はすぐに、メリメリと音を立てて雪の上に倒れ込む。

 ロイは、十発のバックショット撃ち切ったのだろう。ポーチから取り出したサボット弾のマガジンを握りながら、私が投げたバックショットの弾を機関部に押し込んで発砲を続けている。でもそれは、あまりに射撃間隔が開きすぎた。

 ロイは、目前まで駆け寄って来たネコの鋭い爪に切り裂かれながらも、そいつの口の中に銃口を突っ込んで発砲しなんとか排除した。それでも、ネコは次から次へとロイに殺到している。

 そんな中で、私は準備を終えた。

「ロイ、こっち…!逃げよう…!」

私はロイにそう伝えていた。

「逃げるって、どうやって!?」

私を振り返らずについに、サボット弾に切り替えネコ達への攻撃をやめないロイに、もう一度怒鳴った。

 「いいから、早くっ!」

するとロイは

「くぅっ…!」

と歯噛みしながら一番近くにいたネコをサボット弾で撃ち抜いてから私の方を振り返った。でも、タイミングが悪すぎた。

 ロイの背後には、直前にロイが撃ち倒したネコを飛び越えて、ロイに迫るトライカラーの一匹がいた。

 左右から襲いかかった両の爪の攻撃を紙一重で躱したロイは、さらにもう一歩踏み込んで来たネコに背中を切り裂かれる。

「くっ…!」

そう苦しげな声を漏らしつつ、ロイは身を捩り、ショットガンでそのネコを排除する。そして転がって来るようにして、ロイは私の準備していた看板のところまでたどり着いてくれていた。

 「何するつもり!?」

そう聞いてきたロイを、私は黙って、雪の上に倒れ込んでいた看板の上に引っ張り上げた。

 そして私は、思い切り足で雪を蹴りつけた。

 そのとたん、看板は私の足の支えを失い、驚く程のスピードで雪道を下り始めた。

 そう、私はこれををソリ代わりにしようと考えたのだ。

 その作戦はうまく行き、私達は走るよりも早く雪道を滑り降りていく。長い坂道は看板のソリにさらなる加速を加え、乗っている私が恐いと思うほどの速さだ。

 振り返って見ると、あれだけ群がってたネコ達が遥か遠くに引き離されて行く。

 これなら、きっと大丈夫…追いつかれる心配はない…

 そう思っては見たものの、私はこれっぽっちも安心なんて出来なかった。

 だって、ネコ達を振り返った私はその視界の端に写ったロイが、全身のあちこちから血を滲ませ、痛みを堪えるためか、ギュッと私にしがみついていたからだった。

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