第19話 白色の衝突

 大切ななにかを失うことは、誰にだって――それこそ、人間に限らず恐ろしいことで、可能であるのなら巡り遭いたくないことだ。それは悲しく、そして辛いことだから。

 命の終わり――世界で最も悲しいこと。

 誰かが死を迎えるとき、その人と深い関わりを持っていた者たちは、悲しみ、涙を流す。それはもう会えなくなるからなのか、話せなくなるからなのか。あるいは自身の未来を映し出してしまうからなのか。

 もしそのとき限りでも魂がその場に留まり続け、その様子を窺うことができたのなら、きっと自分は喜ぶだろうと、ましろは思った。自分のために泣いてくれる人がいる。自分の死を受け入れたくないと否定してくれる人がいる。それは幸せなことなのだ。

 だが、この空間にいるましろには、無縁の話である。魔法使いとして死を迎えれば、元の世界での存在が消滅する。初めから存在せず、誰とも関わりを持たない。家族もいない、友達もいない。クラスメイトもいない、旧友もいない。近所の人もいない、知り合いもいない。

それはどんなに悲しいことだろうか。

悲しんでくれる人がいないことが、どんなに寂しいことか。

 もし、みずきに負けたのなら、舞子も詩郎もましろのことを忘れ、二人だけで暮らしていることになるのだろうか。それとも二人の間には、ましろではない誰かが生まれていることになるのだろうか。そう考えるだけで、胸が疼いて痛んだ。あの二人が自分以外の誰かと過ごす日々を想像したくはなかった。

 みずきが立っていたのは、二人が通学時の待ち合わせにしている場所だった。

みずきが待っていて、ましろが遅れてくる。最近はそうなのだが、少し前までは逆の立場だった。ましろが待っていると、みずきが遅れてきて、それを誤魔化すように、ましろをからかった。新しい層の記憶のはずなのに、かなり前の記憶であるかのような印象を受けた。すでに記憶の底に沈んでしまっているかのようだ。

 ましろは五メートルほどの距離を保って立ち止まった。みずきも気付いているようだ。

「みずきちゃん――」ましろが名前を呼ぶ。

「母さんはさ、凄く優しかった」みずきが灰色の空を見ながら言った。「私がどんなに失敗しても怒らなかった。むしろ、失敗したことを喜んでくれたんだよ。『失敗を知ることができてよかったわね』って笑ってくれるんだ。小さいときは意味が全然わからなくて、だけど母さんが笑ってくれるなら、これはいいことなんだなって漠然と思うだけだった」

「うん」

「今は、母さんの言っていたことがわかるんだ。――母さんの凄さがわかるんだ」

「うん」

「どんなに疲れていても、そんな表情一つ見せない。いつもにこにこして私の話を聞いてくれる。私が失敗した料理なんかも、苦言一つ言わないで完食しちゃうんだ」

「……うん」

「そんな母さんが、私は好きだった。大好きだった」

「…………うん」

「憧れてた。尊敬してた」

「………………」

「誰にでも優しかった! だから! 誰も母さんを恨む人なんかいなかった!」

みずきが叫ぶ。

胸の中に渦巻く感情を吐き出すように。

「なのに、母さんは死んだ。殺された。どうしてだよ。なにか悪いことをした? してない、するわけがない! ならどうして母さんは死ななくちゃいけなかったんだよ」

 ましろの魔法杖をぎゅっと力を入れて握った。今のみずきから目を離さないように、心に焼き付けるように、彼女の姿を見届ける。

「世界が私を魔法使いに選んだように、死ぬ人間を母さんに選んだとしたら、そこにどんな理由があるんだよ。もっと死ぬべき人間は他にいるのに、なんで頑張ってる人を死なすんだよ。世界に都合の悪いことでもあったっていうのかよ」

 みずきの身体が、ましろを向く。剥き出しになっている腕にいくつも赤く線が入っているのが見えた。酷く痛々しい傷で、どんな感情がみずきの心を巣食っているのか、一目でわかるものだった。

「世界が母さんを奪ったのなら、私は――世界から母さんを取り戻す。たとえ、ましろを失うことになっても」

ましろは微笑する。みずきから敵意を向けられたとしても、それを敵意で返すことはしない――してはいけない。みずきがどう思っていようとも、ましろにとって彼女は唯一無二の親友だ。

「みずきちゃんとなにかで本気でぶつかり合うのって、出会ったとき以来だね。憶えてる? 私はずっと憶えてる――これからもずっと」

すっとみずきを見つめる。ゴーグルはかけていない。緑色の画面に映るみずきを見たいわけではないからだ。今のみずきのありのままの姿を捉えていたい。その気持ちがそうさせた。

二人は見つめ合った。

今生の別れを惜しむかのように。

ましろは自分が今どんな顔をしてみずきを見ているのかわからなかった。

笑顔だろうか。

それは嫌だ。

悲しみの顔だろうか。

たぶん、それに近い。

泣いてはいない。それはわかる。きっとこれまでの人生で一度もしたことがない表情をしているはずだ。こんなにも辛い気持ちが世界にはあったのだと痛感していた。

拮抗を絶ったのはみずきの方だった。ましろが瞬きをすると、すでにすぐ傍まで移動してきていた。ましろとは比べものにならないくらいの機動力である。一瞬で間合いを詰めてしまう芸当は、ましろには到底できないことだ。

 しかし、ましろもそうなることを予期していた。だから驚きで身を固めることなく、みずきの姿を捉えている。

 みずきは速さに特化しているのではないか、とセレナは推測していた。魔力を使い、身体能力を向上させている。移動の速さも、魔法杖を振る速さも人間では考えられないものに昇華していた。だから、ましろでは対応することはできない。魔法使いとはいえ、速さに目が慣れていない。魔力感知にだってムラがある。

故に、ここで活躍するのはセレナだ。

 セレナが防御魔法を展開させ、みずきの攻撃を防ぐ。盾と刃が衝突し、反発し合い、桃色と水色の輝かしい魔力の粒が四散する。

「ねえ、ましろ。ましろは誰かのために魔法使いになったんだよね? わかるよ。親友のことだもん。でもね、だったら……だったら私のために――母さんのために負けてよ! ましろの思い描く世界なんて絶対できない。みんなが幸せになれるはずがない」

鎌の刃は盾から離れることなく、むしろ貫き通そうと力を込めてきた。ジジジと、電気が流れるような音が辺りに響く。実際に、魔力通しのぶつかり合いのために、電気のようなものが発生しているのが、ましろの目に映った。

「願いを叶えるっていうのはね、ましろ……、誰かの願いを、思いを踏み躙(にじ)ることでもあるんだよ。みんなが仲良く横並びでいられるわけがないんだ! 世界はそんなに甘くない!」

「そんなこと……」

 わかっている。

 トリガーに指をかける。防御魔法を使っている間は、攻撃ができない。自身の正面に現れた盾は外からの攻撃と同様に内からの攻撃も反発してしまうらしい。タイミングを見計らって、盾を解除してもらい、トリガーを引く。それが現状況におけるましろの策だ。そうでもしなければ、今のましろではみずきの機動力の前にあまりにも無力だった。

 みずきに気取られないように、呼吸を整えていく。一瞬でも気が緩めば、青い刃がましろの身体を簡単に引き裂く。その緊張感をなくさないように気をつける。

そしてカウントダウンを始めた。セレナとは事前に打ち合わせてある。この拮抗状態から十秒後に実行する旨を話してあった。

 みずきはさらに力を込めてきた。その力に盾が押され気味になる。このままでは防御魔法を解除したと同時に、若干の位置調整を必要とすることが余儀なくされた。

 カウントがゼロになり、ましろはセレナが上手く合わせた解除と同時に、鎌の軌道から外れてトリガーを引き、その背後に反動を軽減させる羽が現れる。みずきは一瞬キョトンとした表情を見せた。思考が追いついていないのだろう。あるいは熱くなりすぎたために、思考力が低下しているのだ。

 この空間とは不釣り合いな桃色のラインが、地面と平行した形で描かれる。一切の加減もないその一撃は、地面を抉り、その軌道上にあったビル群を破壊し尽くしていった。

 不安材料はなかったわけじゃない。みずきが、ましろの魔法杖の先で魔力が蓄えられていることに気付けば、この作戦は失敗していた。成功確率を上げるために、盾と鎌を衝突させ、魔力同士の引き起こす火花や電気を目くらましに使った。この二つと盾に描かれる陣でカモフラージュをしたのだ。

 徐々に消えていくラインの先を見据える。土埃が舞う中、ましろの目にその場に相応しくない色のものが映った。

 淡い青色の魔法陣――防御魔法である。

「やっぱりダメみたい」

『とりあえず想定内です。自分たちができて、相手ができないわけがないですから――大丈夫ですか、マスター』

「……うん」

 上手く心を隠しているつもりだが、やはりセレナには――いや、誰だってわかってしまう。

ましろは冷静な振る舞いをしているが、その実、痛みに苦しんでいた。親友を攻撃すること、倒すことになにも感じないはずがない。みずきのように願いに囚われて行動できるのならば、あるいは感じないのかもしれないが。

ひたすらに目的の達成を目指すのならば、そうなれるのかもしれない。

自分を騙すことができれば――。

たとえば、みずきを今まで倒してきた精霊の欠片に見立てれば、トリガーも軽く、それを引く指も、手も震えないだろう。一瞬の躊躇いもなく、誰かのためならば、とトリガーを引ける。

しかしそれは不可能であり、だからこそましろは心を痛めていた。

親友を親友じゃない、と見立てることなどできない。

それは現実から逃げているだけだ。

今という一瞬の出来事から目を背けているだけだ。

この胸の痛みは、そういった意味ではましろを支えている。直視を躊躇いたくなる現実を思い知らせてくれていた。

あまりの激痛に、泣き崩れてしまいそうだけれど。

 土埃が晴れ、視界が良好になると、みずきの姿をしっかりと捉えることができた。なんとか立っていようと、魔法杖で身体を支えている。距離が数十メートル離れてしまったため、その表情を確認することはできない。

『しかし、あれほどの魔力を耐え得るだけの防御魔法となれば、相手にもかなりの消費があることは間違いないでしょう』

 魔法陣が解かれ、みずきが魔法杖を構えるとましろが身構えたとき、彼女の次の行動は意外なものだった。片膝をつき、地面に手を乗せていた。それはまるでなにかを拾っているかのようだった。

「なに、してるのかな」ましろは呼吸を整える。反動を抑えるために魔力を消耗してしまったために、疲労が蓄積されたのだ。

『わかりません。ですが意味のないことはしないでしょう……――来ます!』

「わかってる」

 みずきの姿が消えた。五メートルほどの距離ですら一瞬にも満たない時間だったのだ。この距離もあってないようなものだろう。

 ましろは辺りに目配りをし、その姿を捉えようとしたがそれは叶わなかった。物音すらせず、舞い上がってもおかしくはない細かな砂が微動だにしない。『背後です!』というセレナの声に反応し振り返ると、そこにはあの巨大な岩が視界を覆うほど宙に存在した。まるで幻想的な絵画でも見ているかのような気分にさせられた。

岩はそこにあるのではなく、間違いなくましろに向かって来ていた。目に見えるだけで十個はくだらない。その裏にもまだある可能性すらあるのだ。この数はどう考えても防御魔法だけで耐えられるとは思えない。仮に耐えることがあっても、ましろの方が押し潰されることだろう。

魔法杖を構え、魔力を放出する。一つの岩が破壊されるとその余波などで周りの岩も周囲に分散していった。お互いにぶつかり合い、小さく砕かれたそれらは、雨のように地面に降り落ちていった。

ましろは目に粒が入らないようにと自然と薄目になっていた。ただし片目だけだ。効き目である右目だけはしっかりと開いている。

彼女自身気付いていないが、少しずつ実戦に慣れてきていた。どうすればいいのか、ほとんど無意識に計算をし、計画を立てている。目を閉じないようにするのも、効き目を生かそうとするのも、ましろがいた日常では不必要なものだ。

魔法使いとして成長している。しかしそれは、魔法使いどうしの戦いにおける技術であり、ましろの望むものではなかった。

しかしこれで終わったわけではない。その直後にセレナが『上です』と指示を出し、ましろが魔法杖を構えつつ空を仰ぐと、そこには岩ではなく青空があった。

だがそれは錯覚で、正確にはみずきの魔力が空を青く染め上げていたのだ。それほどまでに巨大化した鎌が、ましろの視界を埋めた。

「まだなの!?」ましろは言う。

『まだもう少し時間がかかります。それにこれを防ぐためには、かなりの魔力を消費することになります』

「どのくらい?」

『半分ほどかと』

 その青空は、ぐんぐんとましろに迫ってきていた。まるで空が地上に迫ってきているような感覚――圧迫感がましろの身体を支配していた。

その切っ先が振り下ろされる直前に、ましろは「お願い!」とセレナに告げた。『わかりました』とセレナは応対した。

 ましろの頭上に大きめの魔法陣が浮かび上がり、その青と衝突した。その衝撃は凄まじいもので、ましろの足場は埋没しクレーター状の穴ができ、少し遠くにそびえ立つビルは軒並み倒壊し、その欠片が飛ばされ周りの建物を破壊していく。それこそ、まるで隕石が落下してきたような衝撃である。

地響きが続き、ましろは立っていることができずに片膝をつき、魔法杖になんとか身体を支えてもらう姿勢となった。見上げようとしても、それができなかった。頭上で鳴り響く、激しい音。空気が外へと逃げていく感触を、ましろは感じ取っていた。

『大丈夫ですか、マスター』

「……なん、とか」ましろは声を絞り出した。

『魔力を著しく消費していっています。長期戦となればこちらが有利ですが、この状態が続く短期戦なら圧倒的にこちらが不利です』

 また少し、足場が沈んでいく。

「この魔法は、岩と関係あるんだね」

『おそらくは「拡大」かと』

 みずきが地面に手をつけていたのは、転がっていた石などを魔法に使うために拾っていたのだ。飛んできた岩は、元々は小石でしかなく、みずきが魔法によってそのサイズを拡大させていた。サイズだけを拡大できるのか、それとも他のものも拡大できるのかは不明だ。わかったことはサイズを拡大させることができるということ。

 この空を埋め尽くすほどの魔力が「拡大」の魔法の産物なのか、みずきの全力なのかも不明だ。もし魔力をも拡大できるというのなら、ましろに勝ち目はないだろう。ましろの持つアドバンテージとは、それだけだからだ。

 二つの大きな魔力の衝突。

拮抗していた状態が解かれるのは、意外とすぐのことだった。衝突、反発を繰り返した結果、大きな爆発が発生した。その中心近くにいたましろは身体を打ちつけながら、吹き飛ばされた。

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