第3話 白色の決心

「願いを叶えるってなんのことだろう?」

 扉の奥へと進むと、漫画などでよく見る魔法陣が描かれている場所に辿り着いた。魔法陣に使われている文字は、あの謎の文字と同じだった。白い床の上で、魔法陣はピンク色の光を放っている。直径は二十メートルくらいだろう。

 魔法陣の中央には、なにも置かれていない台座があった。側面には彫刻が刻まれていたが、それがなにを表しているのかわからない。ただ見ようによっては動物に見えなくもなかった。

円の外側まで歩いてみると、その先は床がなく、危うく、足を滑らせて落ちてしまうところだった。しゃがんで確認してみるが、底は見えない。どこまでも落ちて行けそうだった。どうやらここは円柱の上のようだ。

 天を仰いでみると、床のものとは大きさも内容も違う魔法陣が、ましろを見下ろしていた。床に描かれているものより、ずっと内容が濃い。文字数も、円の数も、星の数もケタ違いだった。怪しさというよりは、神聖さを感じさせた。

 ここが、自分の住んでいた《現実》とは違う場所だということを、改めて思い知らされた。目に映る光景も、肌で感じる空気も、まったく異なっている。同じ場所が《現実》に存在するとは思うことができない。それほどまでに圧倒的な存在感が、たしかにここにある。

『マスター』

 いきなりの呼びかけに、ましろは肩を震わせた。

「びっくりしたよぉ。今までどうして黙っていたの?」

『すみません。話そうと思っても、話せなかったのです』

「そうなんだ。私はこれからどうしたらいいの? ここ行き止まりみたいだし……。また、時間が経ったら扉が出てくるの?」

『いえ、もう扉は出てきません。マスターは選択をしたようなので、次のステージに移動しました。とはいえ、このような空間はここで最後ですけれど』

「そうなんだぁ」

『マスター、私に触れていただけますか?』

「え? 無理だよ」

『どうしてですか?』

「どこにいるのかわからないもん」

 こっちに来てから、謎の声は二つあった。

今話している相手と、先ほどましろに選択肢を与えた相手。

どちらも姿が見えない。ましろは不思議と順応してしまったが、相手の姿が見えないことに、触れてくれと言われてようやく、今まで話していた相手が普通でないことに思い至ることができた。

『私は、マスターの胸元にいます。制服で隠れているから見えないのと、いろいろとあって気付けなかったのかもしれません』

 ましろは、胸元を確かめるために、制服の中を覗いた。

「ほんとだぁ。いつの間に、ここにいたの?」

 そっと、胸元にあった赤い宝石を取り出す。それは銀色の鎖で繋がれて、ネックレスになっていた。これまで首に感触はなかったが、意識すると感触に気付けた。体温が移っているのか、ひんやりとした金属の感触はない。

『マスターがこちらに来てからはずっといましたよ』

「あれ? なんで私、これがあなただと思ったんだろう? 宝石が喋ってるのっておかしいよね?」

『マスターはある程度の「不思議」ならば、対応できるようになっているのです。今までのことに比べれば、私が宝石であろうと驚かないでしょう』

 今までのことを考えてみれば、たしかに、宝石が話していることくらい、たいしたことなかった。

 文字が宙に浮かんだこと。

 変な空間に連れて来られたこと。

 上も下もわからなくなったこと。

 巨大な扉が現れたこと。

 思い付くものだけでも、普通に生きていたら、体験できそうにないことばかりだ。それになんとなく順応してしまった自分を、凄いと思った。

「えっと……、触れればいいんだよね?」

『はい』

 ましろは指で赤い宝石に触れた。ひんやりとした感覚が、指から脳に伝わる。

伝わったのは冷たさだけじゃない。古いフィルム映画のような映像が、頭の中に流れ込んできた。ときには途切れ、ときには靄がかかり、それがなんの映像なのか判断するのは難しかった。

 空の上にいることは、下にビルが見えたことからわかった。雲が近く、遠くに形を歪めた山々があった。

 周りには、複数の人間がいる。不思議な格好で空を飛んでいた。

 映像が進むと、大きな黒いものが映像を食い潰していた。

 その黒いものの周りには、さっき見た人たちがいる。

 一人……、また一人、と空から地上へ落ちて行く。

「な、なにこれ……」

 黒いものは、街を呑み込んでいく。下に見えていたビルも、その黒いものが通り過ぎたあとには、跡形もなく消えてしまっていた。

 ましろは、宝石から指を離した。もう見たくない、そう思ったからだ。ましろが誰の目線で、あの光景を見ていたのかはわからないが、おそらく、地上に落ちて行った人たちの仲間の目線だったのだろう。

ましろには映像だけでなく、その人の感情までもが流れ込んできた。悲しみ、苦しみ、痛み……。そういったものが一気に流れ込んできてしまい、それに耐えきれなかったから、宝石から指を離した。

 たった十四年ほどの人生だが、悲しむことも、苦しむことも、痛みに嘆くこともあった。しかし今流れ込んできた感情は、そのすべてを足したとしても足りない――まったく足りない。混沌としていた。吐き気を催すことすらできなかった。

 ただ、触れていたくない、と。

 ただ、流れ込んできて欲しくない、と。

 そう、思った。

『彼らは、魔法使いです』宝石から声が聞こえてくる。『この世界は、平和を保っているようですが、彼らの世界は、平和とは程遠いものでした』

「あの、黒いののせい?」

『そうです。あれは、精霊と呼ばれるもので、あの世界では、人間を滅ぼそうとする存在でした』

「その世界では、人間がなにか悪いことをしたの?」

『あの世界に限らず、人間は進化、発展のために様々なものを犠牲にしてきました。海を汚し、森林を伐採し、資源を枯渇させるなどです。これは仕方のないことなのですが、ただ、あの世界では、地球が人間を不要物、あるいは危険を及ぼしている者として認識してしまったのです』

「地球にも意思みたいなものがあるんだね」

『地球というよりは、世界がそう認識したというべきなのですが、この辺りまで話すと、マスターには理解できないと思われます。マスターの住んでいる世界とは違う話ですから』

 ましろは、それに納得した。相手が説明してくれているのだから、一応の質問を投げかけているが、正直に言って、すでにましろの頭の中はショートしかけていた。

 魔法使い、精霊、自分の住んでいる世界とは別の世界。そういったワードが頭の中を埋め尽くしている。

「つまり、私も、あの黒いのと戦わないといけないの?」ましろは恐る恐る訊いた。「全然、勝てる気がしないし、なんていうか……、死んじゃうよ、私」

『その心配はありません。あのような精霊はこの世界にはいません』

「よかったぁ……」ましろは胸を撫で下ろす。

『その代わりというわけではないですが、マスターには、精霊の残党を倒してもらいます』

「え? でもいないんじゃ……」

『あの規模の精霊はいません。マスターに倒してもらうのは、マスターと同じくらいの大きさ、それに自己移動できないものです。浄化作業と思ってもらえればいいかと』

「うん、と……」ましろは考える。「つまり、私はその動かない精霊さんをやっつければいいんだね。攻撃とかしてこない?」

『ええ、自分ではなにもできないですから。ただ、その場を汚す恐れがあります。放っておけば、人間にも危害が及ぶかもしれません。そういう状態になる前に、マスターには精霊を倒してもらいたいのです』

「私にできるかな」

 そう心配したものの、実はましろの中では決心がついていた。誰かが傷つくかもしれない――そう聞いただけで答は出ていた。なにもしなければ誰かが不幸な目に遭ってしまう。ましろが拒絶すれば確実に、だ。その誰かが、もしかしたら大切な人かもしれない。身近な人の可能性もある。それだけわかれば充分だった。

 ましろは誰かが悲しんでいる姿を見たくなかった。誰だってそうだと考えている。

 その不幸を一つでも多く取り除けるなら、それが自分にしかできないことならば、ましろは進んで引き受ける。

『マスターだからできるのです』

 欲しかった言葉をもらえて、決心は固まった。それがましろの弱いところだった。自分でやるべきことを、やりたいことをわかっているのに、最初の一歩を踏み出すことができない。誰かに背中を押してもらえないと前に進めないのだ。だからなにも考えず、心に任せることもある。しかしそれはさっき使ってしまった。多用してはいけないとも言われていたために、今回は頭で考えて決断したのだった。

 しかしまだ一人で最初の一歩を踏み出すのは難しいようだ。

 自分のダメなところを痛感しつつも、ましろは訊いた。

「でも、どうやって?」

『簡単です』赤い宝石が煌めき始める。『マスターが魔法使いになればいいのです』

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