072 すべてはこの日のために:06


A Tear shines in the Darkness city.

 ‐ Fire in the Rain ‐ (邦題:雨の中の灯火)


すべてはこの日のために 06

EPISODE 072 「戦場に奇跡は起こらない ACT:1」




 ローズベリーの意識と精神は現実を離れ、辺獄リンボと呼ばれる領域を流れる大河、その中にあった。その黒き大河の底は見えない。深淵の深くより、無数の亡者の溶け混ざった肉の物体が無数の手を伸ばすと彼女の両足を掴み、闇の底へと引きずり込もうとする。

 その溶け混ざった肉の先端に、ホスト風の男の顔が半分崩れて浮かび上がる。

「ギミ……カワイイネ……」

 ホスト風の男の顔がうつろな言葉を発する。その顔はみるみる崩れ、別の肉と溶け合ってゆく……。




 ローズベリーは……茨城 涼子は、どんどん黒い大河の底へと引きずり込まれてゆく……光が……遠ざかってゆく……。


 ローズベリーはじたばたともがいた。もがいた……もがくものの……


 辺獄リンボに満ちる黄泉の水は、現世の海と異なって人の浮き上がれぬ川……。彼女は、深淵の底へと……二度と還れぬ狂気の底へと引きずり込まれてゆく……。




(助けて……)



 涼子が辺獄の大河の中で助けを求めると、水面から一本の植物のつるが伸ばされ手首を掴んだ。彼女の中の高次元自己存在ハイアーセルフによる助けだ。

 だが、彼女が涼子を引き上げようとする力よりも、彼女を戻れぬ狂気の底に永遠に沈めておこうとする力の方が強い。


 ハイアーセルフは必至になって引き上げようとする……だが、彼女を害する圧倒的な精神的暴力と、悪意に打ち勝てない。やがて彼女のハイアーセルフも、一緒に辺獄リンボの大河へと転落する……。


 共に奈落へと引きずり込まれてゆくローズベリー=ハイアーセルフ。このまま涼子の自我と共に、彼女も消え去ってしまう定めなのか…………。



 ――その時、暗黒の大河の中で、ローズベリー=ハイアーセルフは声を聴いた。サンスクリットをベースとする魔法呪文と、讃美歌のような祈りの歌の、二つを聴いた。


 ローズベリー=ハイアーセルフは幻視によって一瞬、現世の光景を垣間見る。





 それは、男が必死に真言を唱え、涼子を抱きしめる姿だった。


 それは、ハンムラビの地下礼拝室で、仲間たちと共に祈りを捧げる祈り手たちと、稲毛 セツの姿だった。


 それは、ビルの屋上でタバコをふかし夜の街を眺める、中年探偵女性の姿だった。


 それは、仏壇に置かれた少女の遺影の前で、祈りを捧げる被害者遺族の姿だった。


 それは、今も心のどこかで友人に帰って来て欲しいと夜空に願う、一人の大学生の姿だった。


 それは、病室で眠りにつく麗菜の母の姿だった。


 それは、麗菜の母の傍につき、病室に置かれた家族写真に向かって祈りを捧げる、麗菜の父親の姿だった。



 それは、かつての戦友と撮った写真を懐かしく眺め、今も世界のどこかで闇夜を駆ける一筋の光となって戦い続ける、一人の暗殺者の友人の無事を願う、一人の平凡な母親の姿だった。



 それは、ハンムラビ地下の病室で、涼子の帰りを願い続けるソフィアの姿だった。




 それは涼子が、夢に見た麗菜との誓いを果たそうとしたことから始まった、この長い旅路で出会って来たり、あるいはこの長い戦いを通じて間接的な関わりを持ったりしたひとたち……。






 声が、ローズベリー=ハイアーセルフと、涼子の頭に届く。


 ――貴女の旅は、貴女の戦いは、ここで終わってはいけない。




 すべての祈りが一つの光となって、涼子の沈む暗黒の大河へと陽射しのように降り注いだ。




 水面から、光の矢が降り注いだ。光の矢は、辺獄リンボの底に沈む巨大な亡者の塊を貫いた。


 続けて、水面から光の銃弾が降った。光の弾丸は、辺獄リンボの底に沈み、涼子を引きずり込もうとする亡者の腕を貫いた。




 幻想的な光の矢と、光の弾丸が、人の涙と宿業カルマで作られた暗黒の大河へ雨となって降り注ぐ。



 亡者が悶え苦しみ、少女の足首からその手をついに離した。ローズベリー=ハイアーセルフは蔓のロープを巻き上げ、涼子を抱き寄せる。暗黒の河の中で涼子は弱り切り、その瞳の色はかすれて色としての体を既に為していない。表情も虚ろで、反応もほとんどない。

 ハイアーセルフが涼子の身体を揺さぶる。


 ――すると、わずかに反応があった。涼子が虚ろな表情で、ゴボりと空気を吐き出すと、懸命に水面の方へ、光の射す方へその手を伸ばそうとしていた。




 ――――まだ、彼女の心は消えていない。光の雨の降り注ぐ闇の中で、涼子の命の灯火は微かに、それでも未だ燃え続けていた。





 ハイアーセルフは涼子を抱きしめたまま、光の雨を抜け、水面を目指す。だが、辺獄リンボを流れる黒い川の水は重く、彼女は涼子を抱えたまま浮かび上がる事ができない。


 古くから民間伝承として、こうした言伝えがある。



 すべての魔術師よ、すべての幽界旅行者よ、決して忘れてはならない。

 夢の向こう、美しき花咲く畑の先に流れる黒き大河をおそれなさい。


 辺獄リンボを流れる黒き死の河で、命はその罪の重さによって浮かぶことができないから――。






 拳を突き出し、腕から茨のつるのロープを伸ばす……ダメだ。水面まで届かない……。



 もう少し、もう少しでここから脱する事ができそうなのに……。ローズベリー=ハイアーセルフの身体が、左足もとから徐々に崩れだしてゆく……。



 光の雨は未だ降り注ぐ。だが、二人の身体が狂気の底に沈んでゆく……。





 ここまでやってきたのに、ごめんなさい。



 さようなら……………………………………………………………




………………



…………




……












…………?



 涼子とハイアーセルフ、二人の身体が水面を目指して上昇を始めていた。



 まだ、終わっていなかった。



 ハイアーセルフが水面向かって伸ばしたつるのロープに、全部で五つの卵型のドローンが触手を伸ばして絡みつき、二人の身体を一生懸命引き上げていた。



 ゴールデンアイカラーに光るオレンジの星々が、涼子を、ハイアーセルフを、この死の大河の出口、すなわち現実の世界へと導いて行く……。



『涼子ちゃん、必ず帰って来てね』

 ソフィアのテレパシーが、闇の大河の中に響いた。涼子の意識が、急速に回復し始める。



 ――ああ、そうだ。ソフィアさんとの約束。

 まだ友達になったばかり……。これからもっと仲良くなるんだから……。


 帰らなきゃ……。




…………


……






EPISODE「戦場に奇跡は起こらない ACT:2」へ続く。

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