第三節 - 開戦前夜 -

閉ざされた扉


EPISODE 010「閉ざされた扉」



 数日前の暴風雨はそのなりを潜めているものの天候は安定せず、その日の朝も相変わらずの雨だった。


 数日前ほどの勢いではないにせよ、厳冬に降る雨は傘さす人々の手から温もりを奪い、その手に等しく痛みを与える。



 今日は日曜日のため学校への登校義務はない。それでも学校の者で彼女の葬儀に参列したのは涼子だけで、クラスメイトも、クラスの担任教師の姿もなかった。



 それは彼らが薄情だからではない。遺族の希望で、野原 麗菜の葬儀はごく少数の身内、親しい者たちの間のみで行われる事となったからだ。それでも涼子は彼女自身の強い希望と、麗菜との生前との親交の深さから、この場所に足を運んだ。


 麗菜の住んでいた野原家は一軒屋。彼女の自宅前に集まる黒い傘、黒いスーツ、黒いスカート、黒い男、黒い女。その後ろにビニール傘を手に持ち、黒い喪服姿の涼子が玄関前に立つ。学生服は昨晩濡らしてしまって、天気もあってまだ乾いていない。



 涼子の着ている喪服は、涼子の姉が持っている冠婚葬祭用のスーツ。妹の一番の親友の葬儀に学生服では、と姉が計らい貸してくれたものだ。少しサイズが大きいが、そんな事を気にする余裕さえなかった。




 傘を閉じ、玄関を潜ると一人の中年女性が深々と頭を下げ、涼子を出迎えた。涼子も頭を下げる。それから女性が顔を上げた。麗菜の母だ。


「あの……この度は……」

「涼子ちゃん。今日は来てくれてありがとう……」


 潜り慣れた友達の家、いつも迎えてくれる女性。同じはずなのに、全てが違った。まだよわい四十にはなっていないはずで、まだまだ若々しさを秘めて元気だったはずの麗菜の母の瞳は、厚化粧でも誤魔化しきれぬほどに落ちくぼみ、やつれ、憔悴しょうすいしきった様子で、七十歳近い年老いて病に侵された老婆のようにさえ見え、痛々しくあった。



 涼子は麗菜の母親の変わりように内心驚き心配が湧いたが、ふと我に返り、今の自分の姿は、他の人から見たらどう見えるだろうか。あるいは麗菜がもし元気で今の自分の姿を見たら、何と言うのだろうか。


 そのような事をふと考え、そしてそれ以上、考える事をやめた。ただつらいだけだった。


 記帳し、受付を済ませ、家族から預かっている香典の袋を麗菜の母親に渡し、家に上がる。通されたのは二階にある麗菜の部屋ではなく、一階の和室。

 十二畳ほどの和室。敷かれた座布団の先、置かれた白い祭壇のその奥に、それはあった。






 白い棺がひとつ、置かれていた。



 それを見た時、涼子は全身から力が抜けるような感覚を覚え、めまいに耐えきれず近くの座布団の上へと崩れ落ちるように座り込んだ。


(あの中に、レナちゃんが……?)

 その思考を行うとすることを、自らの全細胞が拒絶しているのが涼子自身わかった。心臓の鼓動が早まる。それなのになぜだか血の気は反比例して、どんどん引いてゆく。


 一人、また一人と涼子のごく限られた身内が和室に集まる。涼子の気持ちなどよそに葬儀の準備は進んでゆく。涼子は既に自分を保つことさえ精一杯で、それさえも続けられる自信はすでに無くなっていた。


 ふいに、一人の男と目が合った。麗菜のカレシだった少年だ。彼も涼子に劣らずのひどい表情だった。目は合ったが、お互いが口を開く事はなかった。

「……」




 やがて僅かな身内の間での小さな葬儀が、麗菜の自宅にて始まった。



 人数は十人弱。あまりにつつましく、小さな葬儀だった。涼子は、これは麗菜にふさわしくないと思った。あんなにキレイで、明るくて、煌びやかだった女性が……。


 そんなことは考えたくも無かったが、もし彼女の葬儀が行われるなら、大きな式場で、大勢の人々を集めて、それこそ盛大に行われると、彼女のきらびやかだった人生を、仮に最後に飾り付けるなら、本来はそうあるべきだったのではないか。だが涼子の内のわだかまりをよそに、喪主の挨拶が始まった。



 麗菜の母が前に出ると、まず深々と一礼する。


「本日はご多用中の中にも関わらず、急きょ麗菜れいなのためにご参列下さり、親族一同、また本人に代わりましてお礼申し上げます。私達の娘、麗菜は幼くして多彩で、勉強、空手、バレエ、体操、ピアノ、音楽教室、習わせれば何でも人一倍の才能をもって行う子で、母とは似ても似つかぬ非凡な才能を、私はいつも誇らしく思っておりました。


 十六にして、まだ高校生でありながら声優になるという夢も叶えました。麗菜の夢の実現を手助けして下さった”ひばりプロダクション”社長の吉田様には麗菜も感謝しておりました。娘の夢を叶えて下さったこと、母としてもまこと感謝の気持ちです」


 麗菜の母が参列者の一人の中年男性を向き、深々と頭を下げる。麗菜を声優の道へと引き上げた男もまた、麗菜の母に深く頭を下げる。



「本来ならしかるべき会場で、生前麗菜と親交のあった多くの方々に集まっていただき葬儀をとり行う所ではございますが、まだ若くして自ら命を絶ってしまった麗菜のことも思い、私達、そしてあの子の暮らしたこの家で、一部の者のみで静かに送り出そうという事で、家内でも話し合わせて頂きました。ご理解とご協力を頂き、まことお礼申し上げます」



 いちおうは聞かされていたものの、あまりに信じがたい事だった。彼女の家族から聞かされた麗菜の死因――それは、自殺。



 事故でもなんでもなく、自ら命を絶ったという。





 あの、麗菜が?






 にわかに信じがたい事ではあったが、あの日の別れ際の麗菜の笑顔、実際はあの裏に多くの悩みと苦しみを抱え込んでいたのだろうか。だとしたら、と思うと涼子は何もできなかった無力感、思いつめさせてしまった罪悪感で頭の中はいっぱいだった。




「自ら命を絶ってしまった事を……母としてとても悲しく、思いますが……。どうか麗菜のことを、優しく送り出してあげてやってください。みなさま、本日はありがとうございました」

 麗菜の母は涙ぐみながらも喪主としての務めを果たすと、一礼し参列者と同じ場所に戻った。


 その後、声優で、音楽も邦楽からアニメの曲まで好きだった麗菜の趣味からはかけ離れた、住職による読経。


 それも終わると、やがて焼香がはじまる。だが焼香の前、遺族に変わって住職が参列者に一言、注意を述べる。


「これよりご焼香となりますが、まこと恐縮ではございますが、ご故人の棺の蓋に手をかける事は、ご遠慮くださるよう、お願い申し上げます」



 涼子は息を飲んだ。

 それから、喪主から順番に焼香をあげてゆくが、住職の注意のとおりに誰も棺に手を触れることはなかった。

 涼子の晩が回って来た。涼子が祭壇前まで向かい、座る。棺はその向こうに置かれている。焼香のやり方などまるでわからず、たどたどしい手つきで、みようみまねで行う事しか涼子にはできなかった。



 あの中に、麗菜がいる。ずっと、会えなくて寂しかった。今も、ずっと。


 会いたい。


 たとえ彼女が、ことをもう発してくれなかったとしても。

 たとえ彼女が、もう二度と微笑みかけてはくれないとしても。

 たとえ彼女が、自分の知る彼女ではなかったとしても。



 会いたかった。




 たった50センチの距離、祭壇を隔て、あの白い棺の蓋を隔てたその先に、彼女がいるはずなのだ。涼子は思わず手を伸ばしかけたが、我に返ってやめた。あの白い箱の中にあるものを知る事への本能的な恐怖もあった。


 ずっと会えなくて心配してた。それが今、こんなに近くにいるはずなのに。たった木製の扉一枚。その扉を開けられないせいで、会えない。一目見る事さえ叶わない。


 今日、今この瞬間を逃したら、きっと永遠に会えない。これが彼女と顔を合わせられる最後のチャンス。




 ……なのに、できない。




 涼子は喪失感と悔しさから、涙が溢れて来るのを感じた。唇を強く噛んで、心の内から沸き上がる自らの悲鳴を押し殺す。焼香を済ませた涼子は、涙でにじんだ景色のまま立ち上がり、自らの場所に戻る。入れ替わりで、麗菜のカレシだった男、カズマが立ち上がり、祭壇へと向かった。



 葬儀が一通り済み、出棺の時間になった。葬儀スタッフたちが白い棺を持ち、霊柩車へと運ぶ。これより火葬場に向かうのだが、この先は家族のみで行うという遺族の希望で、涼子はこれ以上ついていく事ができない。遺族の意志である以上、仕方のない事だった。




 

 結局、涼子は麗菜に一目も会えないまま麗菜の葬儀を終え、涼子の自宅へと帰って来た。借りてきた喪服をハンガーにかけ、自分の服に着替える。その日はそのまま横になり、呆然と一日を過ごした。



 ☘



 次の日もそうだった。日曜日が開け、月曜日がやってきた。休みが明けての登校日。でも、何もする気になれなかった。

 その前の晩はよく眠れなかった。目覚ましのアラームを止める。布団から体を起こし、スマートフォンの音楽を止めにいく。それから息をひとつ吐く。


「はあ」

 その日涼子は、いつもの制服に着替えなかった。いつもの時間に朝食を取らなかった。いつもの電車に乗らなかった。いつも通り学校に行く事もなかった。空手教室にも行かなかった。



…… ☘


 暗黒の日々は続いた。次の日、涼子は学校に行った。いつもの電車も、いつもの道も、いつもの通学路も、もう、彼女が知っている「いつも」ではなかった。


 教室に入ると、教室の雰囲気もいつになく暗く、悪ふざけばかりしてデリカシーに欠ける男子生徒たちも、教室の外でこそいつも通りだったものの、教室の中に入れば口を開かず、いつになく静かなものだった。


 そして、教室の机の一つに置かれた花瓶。麗菜の席のはずのその場所。花瓶に差された、麗菜にはきっと似合わない花、一輪の黄色い菊の花が、彼女はもうこの場所には帰って来ないという事実を涼子に伝えていた。



 涼子はそれでも気を強く持とうと懸命に努力したが、いつもにじんでくる涙を止める方法がわからなかった。




 帰り道、一人駅までに道を歩く。担任や、クラスメイトの女子が心配して、声をかけてくれたりもした。それは嬉しい、それ自体は。ただ、それ以上に涼子は、何も考えられなかった。彼女の心は、喪失感と絶望で塗りつぶされていた。




 いつも通りの授業内容、いつも通りの下校時間、いつもと同じ帰り道、そのはずだけど、何も日常を感じられない。

 天気も悪くはない。いつもの日差し。理由は、わかりきっている。



 一人で歩く帰り道、そこにはもう一人がいない。居るべきもう一人は、永遠に失われてしまった。



 日差しは一人の影しか作りだしてはくれない。表面上すべてがいつも通りのようで、実際にはすべてが変わってしまった。

 そして、取り戻す術はない。






 暗黒の日々はさらに続いた。麗菜の葬儀があってから、あっという間に一週間近くが経過した。


 毎日休まず学校に通っていた涼子は変わってしまった。学校へは行ったり、時々気分が優れず休んだりの日々になった。



 空手教室は、あれから一度も行っておらず、母が代わって休止届を出してくれた。


 中学時代、麗菜に出会う前の涼子もふさぎ込みがちな少女でこそあったが、今回はそれ以上だった。

 涼子は家族も含め、他人と話すことはほとんどなくなり、ふさぎ込むようになった。



 家に帰っても、最低限の食事やトイレ、風呂などの必要な時以外は自室の扉を閉ざし、そこからはまったくといって良いほど出てこなかった。姉や母も事情が事情だけに、食事だけはきちんと摂るようには勧めたが、それ以上はかけられる言葉を持ち合わせていなかった。


 毎日パソコンを立ち上げては麗菜のブログを開いた。涼子が最後に麗菜を見た時、ブログを更新すると彼女は言っていた。



 あれから二週間近くなるが、ブログサイト「La vie en Rose(ラヴィアンローズ)」の更新はない。いや、今後も永遠に、更新される事は無いだろう。


 最後の記事の写真と、自らの手元にある、同じ時に撮影した年明けに大阪まで遊びに行った時の写真とを見比べ、呆然と麗菜の事を想う日々。

 何日同じことを考え続けただろう。涼子自身の目からみて、麗菜が自殺するほどに思いつめているとは思えなかった。それでも、事実として彼女は自殺したという。




 どうして、死んでしまったのか?


 一体何を悩んでいたのか。何かできることはなかったのか。



 それとも、自分が何か、彼女を自殺に追いやる事をしてしまったのではないか。そうだとしたら、自分は悔やんでも悔やみきれない。麗菜が死んで、自分が生きているのはおかしいことなのではないか。


 涼子の頭の中を、何度も何度も何度も同じ話題が駆け巡る。




 一通り考え疲れたあと、こうして麗菜との楽しい思い出を振り返り、放心状態に至る。


 この状況は、十六の平凡な少女が背負うには重すぎて、そしてあまりに突然すぎるものであり、それをある日突然、一人で背負わされた。


 彼女の自我は既に危険水準にあった。



 ベッドに潜っても、終わりの見えない闇の日々と、自問自答の日々は続いた。考え疲れているうちに、涼子の意識は朦朧としてきた。


 一瞬ガクリ、と力が抜け、意識が戻る。一瞬寝ていたのだ。その意識が戻る一瞬、フラッシュバックが起こり、涼子は記憶の中の景色を見た。



 彼女が見た景色は、麗菜と行った大阪の景色でも、去年の空手大会の景色でも、学校の景色でもなかった。




 蒼とピンクの重なった空、流れ星、地平線に見える巨大な樹、泣いている親友の姿。

 ――あの日見た、不思議な夢。あの夢を見た時、麗菜はもうこの世に居なかったはずだ。

 でも、あまりにもあの時の実感、感触、記憶、残りすぎている。正直、夢とは思えなかった。その気持ちは日に日に大きくなっていく。


 彼女の自殺にショックを受け、その責任が自分にあるのではないかと苦悩する一方で、あの晩の夢の事を考える時間は徐々に増え、それに比して、涼子の中で小さくなっていた一つの想いが育ちつつある。



 涼子は鉛のようにさえ感じられる我が身を精一杯の力で起こすと、深夜にも関わらず部屋の明かりをつけ、机に向かう。


 そして通学カバンから、メモ帳と筆記用具を探しはじめた。それから、あの日見た不思議な夢の内容を、思い出せるだけメモ用紙に書きつづった。



 ……中学校の音楽室、自分が中学時代に受けた暴力(イジメ)、空手の大会、マンションの屋上、空の色、流れ星、大きな樹、自分の身体にまとわりつく植物、夢の中で出会った麗菜と、その会話、覚えているもの、思い出せるもの、すべて。




 すべてを書きだし終えるころには、カーテンからわずかな朝の光が差し込んでいた。



 麗菜が死んでしまって、自殺と聞かされて、あの白い棺を見て、あれがすべてだと、すべては終わってしまったのだと、自分はあまりにも無力で、もう何もできることがないと思っていた。


 涼子は自らが書きだしたメモの文字を見ていた。「レナちゃんを探す」「レナちゃんの無くしたイヤリング・ネックレス」「大人の人(<= レナちゃんの事を知らない人)」


 その文字を見ていると涼子の中のその想いは、より大きくなってゆく。


 もしかしたら自分は、何かを見落としているのかもしれない。

 あの日見た夢は、何か意味のある夢だったのではないだろうか。




 そしてまだ自分には、しなければいけないことがあるのではないか。




 世界で一番の、最高の親友のために

 彼女のいない、この世界で




EPISODE「閉ざされた扉」END.

EPISODE「辺獄(リンボ)の扉を叩く少女」へ続く。

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