Opening Execution:ACT3


【Opening Execution:3】




 居酒屋の店内。明るいJ―POPの歌とは裏腹に、店内は騒然とした状況となっている。一人の男が地に手をつき、頭を下げ、そこに割り込むようにして立つ男性と、彼と睨み合う青年の姿。



「――おい、みっともないぞ。店でそういう事をして恥ずかしいと思わないのか」


 背広姿の男性が、胸倉を掴んで青年を咎める。男性の後ろには、鼻血を垂らしながら頭を低くする中年男性の姿が。


「はぁ? ウゼエんだけど。誰に喧嘩売ってるか、教えてやるよ」

 青年が手をかざすと、そこから火の粉が勢いよく放たれ、男性の背広が燃え上がる。


「うわあっ! うわあああ! 火が! 誰か、誰か!」

 驚き転がる男性。転げまわった所為で、男性の火が床や柱へと引火してゆく――。



 ……


 場面は切り替わり、日中のパチンコ店の駐車場。パチンコでの気分転換を終え、バイクで自宅まで帰ろうとした所、その中年男は待ち伏せるようにして立っていた。



「あの時、お前さえ居なければ!」

 脂ぎって乱れた髪の中年男性が目を見開き、息を荒げながら青年を睨む。



「――なあ、いい加減しつこいんだけど、もうあれは終わった事だし、文句があるなら警察に言えって、何度も言ったよな?」


「知った事か……知った事か! お前のせいで俺は仕事を失った……俺は、お前を……!」

 もはや理性を失った中年男性は、懐から包丁を取り出し、青年に向ける。


「お、おい、警察を呼ぶぞ……」

「やってみろ! その前にお前を殺してやる!」

「おい、やめろ!」


 青年と中年男性が掴み合いになる。中年男性が青年の腹部に刃物を押し込もうとするが、刃がなぜか通らない。青年が男性の首を掴み、その手を赤熱させる――。




 ――もう、一年前の出来事だ。なかなか忘れられる思い出ではない。今もたまに夢には見る。でも、それだけだ。




 もう、終わった事だ。終わった事をいちいち気にして、人生何になる?


 何度か夢に見る事があっても、もうそれを、大して気にする事さえなくなった。



 …… ☘





 男の名は栗平 房田ぼうた

 その夜、その男は深い眠りの中にいた。大学に通う彼は、その日も就職活動に勤しみ、その疲れを存分にベッドの中で癒していた。



 就職活動も、将来の心配も、すべて面倒なことばかりだが、それも含めて平和なものだった。危機とは縁遠い暮らし。


 ――いや、彼の人生にも何度か、危険はあった。たとえば数か月前、ゼミでの飲み会の帰りに妙な通り魔に襲われた夜の事だ。だが、結局具体的な怪我とかをしたわけでもない。


 結局はその時の危機とやらも、スリルというフリガナを振って笑える程度のものだ。人は誰も一度や二度のスリルを経験して生きる。例えばちょっとした事故での骨折とか、盲腸とか、彼にとっては、経験したものなど所詮はその程度のものだ。



 その時の恐怖など、三か月程度時間があれば、大抵の人間は過去にして「まあそういうスリルも人生一度はあったよね」という思い出に留まってしまう。経験も教訓もそこには残らない。それが普通だ。それを咎められることもない。



 その普通を、是とせぬ者がいない限りは。



 その日は事前にニュースでも予告されるほどの激しい暴風の夜だった。激しい雨と風が、ワンルームのベランダに繋がる窓をカタカタと鳴らしている。それにも関わらず、栗平は深い眠りについている。



 パリッ。起床時でこんな雨風の日でなければ気づけたかもしれない、小さな音が鳴った。

 窓ガラスにダクトテープをあらかじめ張った上で、それを割って入る侵入など、あまりにも使い古された侵入の手口。だが、信頼性のある手口だ。


 音は眠りの中のいる男に危機を知らせるには不十分だった。雨に濡れたガスマスクの死神が、ワンルームのマンションに踏み込んだ。ピチャリ、死神は水をフローリングにしたたらせながら右のホルスターに手を伸ばす。



 血のように赤く暗い、エンジ色に染まった三つ葉のクローバーが描かれた死神の黒い拳銃が姿を見せた。



 風が吹いた。冬の夜の、突き刺す寒さがワンルームのマンションに吹き込む。急激な気温低下が、ベッドの中を夢の中から力づくで呼び覚まそうとする。


「うう~ん……」

 ベッドの中の男は、機嫌悪そうに寝返りを打ち、目を半開きにさせた。それは彼の為になる目覚めだっただろうか。本人にとってはそのはずだが、あるいはこのまま目覚めない方が、きっと幸福だっただろう。少なくともその後の苦しみは無かったはずなのだから。



「目標補足。こいつが”オレンジチーク”かどうか、そちら側で認証はできるか」

 ガスマスクの男はベッドの中の男を見下ろすと、銃を突き付ける。



『顔を認証。男性が栗平房田、暫定コードネーム:オレンジチークである事を確認。殺害してください』

 そのミラの声を、その時栗平は聞いた。

 と。同時に


「栗平だな。こちらファイアストーム。お前の命を貰いに来た」

「え」


 死神は名乗ると、間髪入れず拳銃の引き金を引いた。一回、二回、三回。引き金と共に3発の光る銃弾が飛び出す。



 決して避けたわけではなかった。避けられる能力があったわけでもない。単に驚いて反射的に身をよじったにすぎない。


 だが、それが結果的に栗平を即死の運命から救った。眉間を狙った一発は狙いを外れ、彼の右耳を貫通。2発目と3発目は、首と心臓を外れ、右の肩と脇腹を貫通した。

 栗平が、その身を貫いた輝く銃弾の痛みに叫びをあげるよりも早く、ファイアストームが四発目、五発目、六発目を撃ち込むよりも早く、次の光景は訪れる。


「!」

 4発目の引き金を引こうとしていたファイアストームが、行動を直観的にキャンセルした。異変、そして危機を感じ取ったからだ。

 放たれた3発の弾丸に身を焼かれ、栗平がその痛みを認識した瞬間、彼の頬にオレンジのアザが薄く浮かび上がったのを、ファイアストームは見逃さなかった。



 危険を察知したファイアストームは、とっさに自身の右側に向かって素早くローリング。直後、ワンルームの闇が一瞬赤く照らされた。反射的にかざした栗平の手が赤熱、さらにそこから火を噴いたのだ。



 もしもそのまま立ち尽くしていたならば、彼は今の炎に焼かれていた事だろう。ファイアストームは右手で銃を構えたまま、素早く立ち上がる。



『ワオ! 初見殺しでしたね!』

「このぐらいなら初見殺しに含まれない」

 死神はこの程度では狼狽うろたえない。


 そう、この程度のことは事前情報通りだ。


 この男、栗平は人間でありながらも、一種の超人的・超物理法則的な人体発火能力を持つ事を持つ事がファイアストームやミラの間では知られており、興奮時・戦闘時などに左頬にオレンジ色に光るアザが浮かび上がる事から、ついた通称が「オレンジチーク」。



 ファイアストームは消火剤を吹きかけたまま右手で躊躇なく4発発砲。弾丸がオレンジチークに着弾する直前、彼の全身を薄いオレンジ色の膜が包み、ファイアストームの放った光の銃弾とぶつかり合う。


 4発中2発がオレンジ色の膜に食い止められ、弾丸は光の塵となって拡散、消滅。残り2発は栗平の左脇腹と左腕にそれぞれ突き刺さり、貫通せずに光の塵となって消滅した。ファイアストームはそれに対し驚きを一切示さない。



(超人能力(スーパーフィジカル)持ち特有のエーテルフィールド。身を守り、他者のPSYを拒む力……情報通り、飛びぬけた耐久性ではなさそうだな)



 ファイアストームはあらかじめ予定していたかのような行動で、左手を後ろに伸ばすと、背負った大型消火器のホースを手に取った。そして躊躇なく、消火剤をオレンジチークめがけて噴射。

「ぶわっ!」


 右のホルスターに銃を収めると、消火剤を吹きかけたまま接近、フリーになった右手でオレンジチークの首を掴み、60キロ弱はあろうかという男の身体を右腕の腕力のみで持ち上げる。

「あ、あぁ……」

 栗平がうめき声をあげる。


 ファイアストームは消火器のホースから一時手を離し、相手の左手首を掴む、右手を相手の右脇に滑り込ませ、そのまま体捌きで、身を屈めながら自らの背を相手の腹に合わせるようにして潜りこむと、投げた。


 一本背負いと呼ぶには、それはあまりにも乱暴な投げ方だった。


 投げ技を受けたオレンジチークの身体はガラス窓を突き破り、部屋の外へ飛ばされ、腰をベランダの手すりにぶつけると、バランスを崩してそのまま転落した。

「うわあああああああああ……!!!」


 遠ざかる悲鳴、直後グシャリと微かに、だがとても不快な音がファイアストームの耳に届いた。


『ワーオ、まだ動いてますよ!』

 ベランダの外に一時退避していた白い球状物体が、その中心にチカチカとオレンジの光を明滅させながらファイアストームへと告げる。



 彼が放り投げられた高さはマンションの4階。人が死ぬには十分な高さだ。だが……

「簡単には死なないか。やはり、サイキッカーな上に超越者(オーバーマン)。エーテルフィールドを展開している」



『素人で腐ってても、超能力と超フィジカル持ちの標準的な戦闘サイキッカーってわけですね』

「だがこれでだいぶ減衰げんすいはしただろう」


 ファイアストームは背負い投げの残心さえおろそかにして、炎の燃え移った壁とカーテンに消火剤を吹きかけていた。



『燃え移りは多分大丈夫でしょう。消防士ファイアーマンさん、本物を既に呼んだのであなたは安心して処刑ファイアストームの仕事に戻ってください』

 ミラがジョーク交じりに言った。


「了解。収拾は任せるぞ。追撃する」


 ファイアストームは背負った消火器をガラス片の中に投げ捨てると、自身も闇の中へと勢いよく飛び出した。



……



 その真下、土砂降りのアスファルトを這う男の姿があった。

「うああああ、痛え、痛ええ……」


 栗平、そしてオレンジチークとも呼ばれる男。彼の身体能力はちょっとした自慢だった。元々運動神経は良い方だったが、ある日を境にその身体能力が飛躍的に高まった。


 すべてが変わった。彼は自転車よりも早く走れるようになった。ベンチプレスではボディビルダー並の力を発揮できるようにもなった。


 その後にバイクで車との衝突事故を起こした時も、バイク自体は廃車になったにも関わらず、彼自身はかすり傷だけで済んだ。その運動神経のお陰でモテまくって、女も沢山寄って来た。楽しい人生を送って来た。それが

「ああ、あああ……」


 それが


 どうしてこんな事に?




 オレンジチークは、自らの左腕を見て青ざめた。それは不自然な形で折れ曲がって、アルファベットのZにもにたような姿へと変貌している。腕の痛みはまだやってきていない。だが、折れ曲がった腕と、冬の雨と風に晒され、水溜まりの中を這う自分の状況に、彼の心は折れていた。



「はぁ、はぁ……!」

 何もかも、わけがわからないまま、ただ本能的に、彼は水溜まりの中を這い進んだ。腕から、肩から、脇腹から、血が流れ出る、赤い血は降り注ぐ雨と混ざり合って、やがては闇の中に溶けてわからなくなってゆく。

 一体何が、どうしてこんな目に。



(あれは一体誰なんだ)



 そうだ、アイツは一体。考えがそこに及んだ直後、物音と共に、地面に伝わった落下の衝撃が地を這う彼の腹へ伝わり、彼の魂を恐怖で凍え震わせた。


 オレンジチークが精いっぱい首を捻ると、そこにはガスマスクにレザージャケットの、黒い死神が立っていた。

 死神は受け身を取ると立ち上がり、ホルスターからザウエルピストルを無言で引き抜いた。

「あ、あ、うわああああああああ!!!!」



 オレンチジークの心は既に恐怖に屈していた。真の危機に直面し、死を意識し、それを恐れ、その恐れから逃れたい気持ちが絶叫となった。


 殺される、殺される、殺される殺される殺される。


「死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない!」



 真に死を恐れた時、彼は全ての力を振り絞り、全力で立ち上がった。死に追いつかれないよう、彼は走り出した。彼の走りは驚くほど早かった。常人と比較しても当然、彼本人の持つ従来の身体能力と比較しても驚きと言えるほどに。



「駄目だ。死を以て償え」



 死神は冷酷に言い放つと、その引き金を引いた。拳銃からは2つの死が飛び出した。死は男を追いかけた。死は男の走る速さよりもずっと早かった。だが男には力があった。それは特別な力、神に選ばれた力、すべての行いを許された力。


 走りながら男は、自らを追いかけて来る死の気配を本能的に感じ取った。そして一瞬だけ後ろを振り返ると、向かい来る死に向けてその右手をかざした。


 ――男の頬に浮かぶオレンジのアザ、赤熱する右手、直後、発火。



 炎の壁が死と己の間に立ちふさがった。炎は死を焼き、退けた。そして炎の壁が死神と己と隔てている一瞬の内に、少しでも遠ざかるべく、全速力で走った。


 逃げるべきだ。彼の全細胞が全力で警告していた。


 死神に、追いつかれてはならない。





『事前情報よりも火が強力ですね』

 ミラは実に喋りたがり屋だ。事あるごとに話しかけて来る。だがファイアストームは、彼女に話しかけられる事を特に嫌ってはいない。


「それも織り込んでの対策だ。候補地Cに向かって追い詰める」

『ポイントCの駐車場は、車両撤去の根回しがほぼ済んでいます』

「良し」

『でも変な所に行かれると困っちゃうし、できれば路上で仕留めてくれると嬉しいな~』

「善処はする」

 ミラに返事すると、ガスマスクの死神はそのまま後を追って走り出した。



……


 オレンジチークこと栗平は、もはやこの状況から逃れる以外の事など考えられない状況にあった。


 肩や腹部から血が滲み、彼が寝間着にしていたジャージに染み込んでは、雨と共に滴り落ちる。


 ……無理もない。マンションの4階のベランダから強引に投げ落とされたのだ。靴を履けるようなタイミングもなかった。彼は裸足で逃げるが、踏みしめた冬の雨の、針で刺すかのような寒さの痛みが、両足を襲った。



 全身が痛んだ。


 左腕だけでなく、他にも肋骨などが折れてるかもしれない。頭や顎も強く打った。気分が物凄く悪く、今にも吐きそうだった。


 あくまで常人基準で考えればだが、本来その高さから人間が意図せぬ転落をすれば、立ち上がって走れる程度のダメージで収まっている事は奇跡的とすら言える。



(逃げないと)


 オレンジチークは追いすがる死から逃れたい一心で、ただ走った。悪い夢を見ているような気分だった。せめてこれが本当に夢で、五分もしない内に覚めてくれればと思う。


 オレンジチークが、無残にも折れ曲がった自らの左腕をみやると、恐怖とストレスからか、途端に吐き気が込みあがってきた。




 雨の勢いはまだ収まる事を知らないようだった。吹き付ける向かい風は、死から逃れようとする自分の行いを拒絶するかのようだった。


 土砂降りの冷たく激しく重い雨は彼の着衣に血と共に染み込んで、鉛の如き重さを与えた。

 彼の死を望む存在が、血の底から彼の足を掴み、死の世界へと引きずり込まんとしているかのようであった。




 失われてゆく血と、冬の暴風雨の寒さが、彼から熱と、生存の望みと、心の炎を奪ってゆく。駆けだした瞬間はトップアストリート並の速度で走れたはずの男の足取りは徐々に重くなり、電柱に右手をつくと、その場で嗚咽し、むせび泣いた。



「ううっ……ううああ……おえっ……おえぇ……」

 様々な思いが、彼の頭の中を駆け巡った。




 どうしてこんなことになった?




 ……突然家に押し入ってきた男、とんでもない怪力で、マンションの4階から飛び降りても無傷で、銃を持っていて、間違いない。あんなものは人間じゃない。バケモノだ。




 怖い。とにかくそう思った。あんな男をオレンジチークは知らない。正真正銘の初対面だ。だというのに、なぜ彼は、自分の存在を知っているのか。



 そうだ。あんな奴は知らない。でも前にも一度、俺を知っている変な奴に会った事はあった。そして、その時は逃げ切ったはずだ。



 自分を狙っているあのバケモノは、もしやそいつの仲間なのではないか。



 彼はこの状況に対するアンサーと呼べそうなものを、ついにひとつ手にした感触を得た。だがわからない、一体なぜ、自分を狙うのか。



(まさかあの時の……いや、そんなはずはない。だってあれは……)




 ――既に終わった事じゃないか。





 そこから先の思考は、もはや時と死神が許さなかった。道路の対向車線側から、一台の車がノロノロと走って来た。




「助けてくれ!」

 向かい来る車両に希望を見出した彼は、道路に勢いよく飛び出す。そうすれば突如出てきた人影に驚き、車を止めてくれると思った。


 車に乗せて、自分を逃がしてくれると思った。警察を呼んで、このバケモノから自分を守ってくれると思った。



「無駄だ」


 ファイアストームの呟きが雨音の中に消える。車は微塵にも減速しなかった。いくらこの天候だからといって、街灯まで消えたわけではないのだから、止まってくれるはずだった。



 ――ガンッ! 衝突音が道路に響いた。


 車はあろうことか、無慈悲にもそのままの勢いで栗平を撥ね飛ばした。栗平の身体が宙に舞い、そして反対車線へと打ち捨てられた。


 車のドライバーは、ようやく異変に気付いたかのように、激突があってからゆっくり減速し、数十メートル先のファイアストームの近くで停車した。運転手は車外に出ず、そのまま周りをキョロキョロしている。まるで男を撥ね飛ばした事にすら、まだ気づいていないかのように。



「痛えええええ! バカ野郎! どこ見て運転してんだ! 殺すぞ!」

 道路を惨めに転がる栗平が、自分をよそに通り過ぎた車を大声で罵った。その大声はこの雨の中でも車内に届いたはずだった。だが、そこから妙な事が起きた。



 ファイアストームは車の近くまで駆け寄ると、銃を収め、傘も持たないのに右手で傘を差すかのようなジェスチャーを取った。そしてうやうやしくドライバーに会釈した。


 するとドライバーは、飛び出してきた男には一切気が付かなかったのに、急にハっと何かに気付いた表情をとると、ガラス窓を下げてはガスマスクの男に会釈した。


「いやあ、大丈夫ですか? 何かぶつけたみたいですけど」

 話題を切りだしたのはファイアストームだった。ドライバーの男は会社帰りとおぼしきスーツ姿の男性だったが、ガスマスクをつけた男を前にして、何も異変を感じていないようだ。



「え? あ、なんかぶつけちゃいましたかね……」


「なんか! 近くの店の看板が、風で、道路まで流されてたみたいで!」

 雨音にかき消されないように、ガスマスクの男は大声でドライバーの男性に虚偽を伝えた。


「あっ、ハイ」

「なんか、それが当たる所見たんですけど、大丈夫ですか!」

「えっ、あ、マジすかー……参ったな」

 話を聞かされた男性は、車の修理への懸念で困った表情をした後

「あー、まあ……多分大丈夫だと思います。お兄さんこそ何か飛んできて怪我とかさせてないすか」



「あ、私は大丈夫なんで、すみませんどうも。お気をつけて」

 ファイアストームは答える。


「こちらこそどうもすみません」

 ドライバーの男性とファイアストームは互いに頭を下げあう。




 車に撥ね飛ばされた男を無視して行われるそのやり取りは、あまりにも異常な光景だった。



 ――だがこの時、ドライバーの男性には違う景色が見えていた。彼の頭の中では、会社帰りの車の運転中、道路上に飛んできた看板に車をぶつけてしまった光景と記憶が作りだされ、彼の眼前に立つガスマスクの男も、傘を差したスーツ姿のサラリーマンの通行人の姿に見えていた。


 ファイアストームは繰り返し会釈し、車から離れる。ドライバー側も車の窓ガラスを締め、再び車を発進させ、過ぎ去ってゆく。



 オレンジチークは車に撥ねられても尚、驚くべき生命力を発揮し、なんとか立ち上がったが、その異常な光景にはただ唖然とするしかなかった。



 2人の会話中にオレンジチークは、自らの存在を示そうと何度も何度も叫んだ。


 だが結局、ドライバーの男性は最後まで彼に気付く事はなかった。まるでこの世界で、自分だけがその存在を無視されたかのような気分だった。



『記憶の誘導改竄に成功。目撃者が少なければ楽勝ですね』

 車が走り去ると、ファイアストームは滑稽なジェスチャーを止め、再びホルスターから銃を抜いた。


 即座に銃撃、オレンジチークは手から炎の壁を作り、銃弾を遮った。


「今のに驚いたようだな」



 炎の壁が消えると銃を構えたまま、ファイアストームが口火を切った。

「おかしいとか、不自然だとか思っただろう。だがよく考えるべきだ。――人体発火したり、マンションから落ちてもまだ動けたり、そっちの方がもっとおかしい事に気づくべきじゃないか?」



 ファイアストームは続ける。



「お前は知らないようだが、能力者サイキッカーの世界と、常人の見えている世界は違う……どちらが本当の世界かなんて、俺にはわからないが……確実な事はひとつ」


 ガスマスクの奥で、ファイアストームの右の瞳が金色に輝く。





「お前の世界は、今夜終わる」


 黄泉の空の如き死神の瞳の輝きは、静かな怒りに燃えていた。





「Opening Execution :ACT4」へ続く

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