第3話 雪風亭の夕べ

 

「ちわーっす、号外でーす」


 見るからにやる気のなさそうな新聞配達の少年が店に駆け込んできた。流れ込んだ外の冷気と混ざり、入り口付近にもやが浮かぶ。

「何があったんだい」

 入り口から一番近くにいた男が、興味深げに少年の抱えた号外の束を覗きこむ。少年はニヤリと笑っただけで彼には答えず、店の奥で洗いものをしていた男に話しかけた。


「コレ、どこか目立つところに張っておいてちょうだい。そしたら、来月のお代から一割ひいとくから」

「好きな所に張っておけ」

 手を休めずに店主らしき男が答えた。どうやら彼がマスターと呼ばれた男のようだ。

 日も傾き、ちょうど夕飯前の頃合いとなって賑わいを見せていた『雪風亭』の店内の話題は、瞬く間にたった今駆け込んで来たばかりの号外に関するものに変わっていた。中にはわざわざ席を立ち、号外を貼っている少年の上から覗き込んでいる者もいる。

「ありがと、他のトコの上から貼らないでね? でないと、おいらが親方に叱られちまう」

 最初に声をかけた男に号外を手渡しながら、少年が言った。外を走り回っていたせいか、吐く息は白く、頬と鼻の頭は真っ赤である。

「今月分の新聞代は半額だ、厭ならもって帰れ」

「厳しいな……OK、親方にそう言っとくよ、じゃあ約束! ……これお代のかわりね、喉乾いちゃった」

 号外を見ている男達の座っていたテーブルから、半分ほど残った果実酒のコップを手に取って一息に飲み干し、代わりに幾枚かの号外を置く。号外は代金を受け取るものではなく宣伝の為に配られるものだが、配達の子供達がチップ代わりに代金をせびるのは一般的な慣習となっていた。配達夫の親方たちもそのことを別に咎めたりすることもない。もっとも、配達の手間賃だけで彼らを納得させるには程遠いという事情もあるのだが。

「ごちそうさま!」

 もう男達は少年の言葉になど耳を貸すのも忙しいと号外に見入っている。娯楽の少ないこの街で、これほどまでに彼らを楽しませる事はそう多くはない。誰もが急の大事に沸き返り、心地よい高揚感を楽しんでいるようであった。


「何かあったのか?」

 そんな喧噪の中、一人でカウンターに座っていたハリマが肩越しに後ろを見やりながら言う。背後の騒ぎとは対称的にいかにも疲れ切った様子だ。くたびれきったコートは裾が雪と泥に汚れ、湿ったままにしていた部分がくしゃくしゃになっている。店内のぬく気に当たれば、うす黴の匂いすら漂ってきそうだ。

「そんな事より仕事しろ仕事、いつまで油を売ってる気だ? もう夕方だぞ、油を売っていても金にはならんぜ」

 到底、客に対する言葉とも思えない一言、苦笑するほかに返しようもない。

「勘弁してくれよ……昨日だってあんたの回しで遅くまでこき使われてたんだぜ、明けくらい休んだっていいだろう?」

「はん、賞金首を捕まえたとか言って、結局前科がなくって賞金もついてねえ様なコソドロ掴まされて、ただ働きしてたじゃねえか。金をもらえないような仕事は仕事とは言わねえよ」

「せめて善意の一市民のボランティアと言ってくれないかなあ……こいつに免じて何か一杯くらい奢ってくれよ」

「何だそりゃ?」

 じろり、と一別した紙切れには、なにやら判で押したような文言と、番所の書式らしい内容が並んでいる。それと、少し大きめにハリマ達の名前も。

「昨日番所にスリ野郎を突き出したとき、詰めてたマニヒッチのクソ野郎様が賞金の代わりに書いて渡してくれたよ――感謝状、だとさ」

「そんなもんが金になるか。だいたいあのケチのところに行くってのに、根回しもなしで行ってもうまくはいかねえさ」

「食い詰めすぎて、鈍ってたな……まあ、言ってみただけさ」

「飯代もねえって言うから、別の仕事も回してやったんじゃねえか」

 だがマスターは、彼の言葉に動じるでもなく、冷たく言い放った。何より、昨日のドブさらいは、食い詰めたハリマを見かねて回してやったようなものである。

「だいたいそういうセリフはだな、ツケをきれいサッパリと片付けてから言うモンだぜ、ハリマ。馴染みだからって頭に乗るなよ? 今晩にも二階から追い出したって良いんだ。オレットの路地はさぞ冷たいだろうな……温かい風呂にも入りたいだろ? うちの柔らかい綿布団よりも、白くて綺麗な雪の布団がお好みかい?」

「あれが綿布団なら装甲服や棺桶舟の椅子だって綿入だ……三段ベッドも上を見上げりゃ女がいるだけ天国だ、っていうかまだ残ってんのかよ……」

 ハリマがやり場のない視線を宙にさまよわせた。埋め切れない間を繕うように言葉を絞り出す。港、と言えば聞こえは良いが、要は街と海の境目、外壁の切れ目に市街地のささやかな熱と大海の雪が交わり、ほんの少しばかりの水が池のように溜まっているだけの場所だ。自然、外海の冷気が最も激しく吹き込み港から中心に伸びるオレットの通りは吹きっ晒しで、家々や長屋の隙間から吹き出す湯気もあっという間に凍り付くほどだ。煮炊きの時間――ちょうど今時分こそ各家庭から出される熱で多少のマシにはなるが、朝方になれば月に2、3人は凍死者が出てしまうほどの冷え込みとなる過酷な街である。

 マスターがここに店を開いたのも、単に土地の値段、翻って家賃が安かったことと、昔の付き合いで馴染みの退役軍人達や現役の海兵が多く立ち寄りやすいから、と言うものだった。今でこそ現役の軍人達が立ち寄ることは少なくなったが、相変わらず当時の雰囲気を残すのもここ、雪風亭のウリの一つである。

「もっと稼げる、せめてデティクティヴ(探偵業)らしい仕事ってのはないものかね」

「便利屋がナマ言うな、なにがデティクティヴだ、いいとこ何でも屋だろ」

「かわんねーよそれ、せめて解決屋、とかもう少し聞こえのいい名前にしてくれよ」

「それこそ変わるまいよ、この景気の悪いのに、仕事の内容や呼び方をえり好みしてんじゃねえ」

「まあ……そいつは分かるんだがなあ」

「そもそもだ、ヒカリちゃんを荒事に連れて行くとかどういう了見だ? いくら力や魔法が多少使えようと、あの子はまだまだ子供だぞ? 冒険小説にかぶれてるような歳のな」

「昨日は屋根の上で待機してるって約束してたんだよ、危ないことはさせるつもりじゃなかったんだ」

 ただ、トラップを起動させるだけ、というから昨日の仕事についてくることを許しはしたが、ハリマ自身失敗だったと思っている。相手も小物、とハリマ自身の気も緩んでいた。次はもう少しキツく言い聞かせた方が良いかもしれない。

「いい大人がだな、それも親代わりになろうっていうのが言い訳してんなよ、景気が悪いと言ったって、探せばまっとうな仕事もあるんだぜ」

「俺がそれほどツブシがきくようなのじゃねえって知ってるだろう? ただでさえ軍隊上がりは煙たがられるってのに」

「まあ、それはお互い様だがな。この店もそんな連中ばかりだし……器用な奴は皆、大きな街へいったみてえだな」

 首都がこの近くを通過した頃は街も今よりずっと賑わっていたが、今はもう軌道が大きく離れており、今のマルレラはすっかり辺境に落ちぶれている。自然、景気も落ち込み仕事も減り、国境をはさんでアラクシアと睨みあい、海軍や商船が大挙して押し寄せた頃とは大違いだ。大潮流に大きな変化がなければ、次に首都が再接近するのは、周期から言って十年近くも先の話である。

「もういっそ、アラクシアの街でもいいから近くに流れてこないかね?」

「どっちでもいいさな、もう」

「まあ、俺達には今更関係のない話しだ。ポーレイ金貨の絵柄と顔くらいどうでも……で、あれは一体なんの騒ぎだ?」

 そう言いながら、うしろの号外にたかる男達の騒ぎを肩越しに指差す。

「さあな。見てくるなり、聞いてくるなりすればいいだろう?」

「野次馬すんなってついさっき言わなかったか」

「よくよく考えりゃ、仕事も昨日ので打ち止めだ、ここんとこは入りが悪くてな」

 いかにも興味のなさそうな返事にハリマは話を続けかねた。かといって、後ろの騒ぎに混ざるのも面倒くさい。それでも、店内のざわめきはその空白を埋めて有り余る程に続いていて、黙って耳を傾けていれば無制限に、無責任かついいかげんな、想像と創造に彩られたおとぎ話が流れ込んでくる。

 しばし話に聞き入ろうとしたハリマの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 

「ただいまー。ねぇハリマ、聞いた?」


 雪風亭の開き戸の鐘をカラコロと鳴らしながらヒカリが入ってきた。彼女の小柄な容姿では、先の新聞配達の少年同様、お使いにしか見えない浮きようだ。歳がそう変わらないのもあるが、化粧っ気のない肌が真っ赤になっているのも、子供っぽさを感じさせる。

それでも今日は昨日と違い、頭は長い髪をお団子に結い上げ、こぼれた分を両脇にも少したらしていた。肩から羽織った大きなコートと、分厚い布地を太いベルトで腰にきゅっと縛った姿が、ハリマのだらしない身なりとは対照的である。

 唯一、おかしな点を上げるとすれば……相変わらずその小さな背丈よりも長い、大きな刀を斜めに背負っていることで、普通の長刀が彼女が背負うと、まるで馬斬り野太刀のようだった。――抜くことも出来ない大刀を背負って、あの子は何をしたいのだろう? ――彼女とすれ違う者は、そういう感想を抱くに違いない。

 だが、店内の客達は彼女に目もくれないし、振り返りもしなかった。あるいは、号外の方に興味を奪われていたのかもしれない。彼女は白い吐息を置き去りに騒ぎの脇をとんとんと歩いてカウンターまでまっすぐやってくると、握った号外を振りながらハリマの隣の椅子に登って腰を下ろす。床まで届かない足が、ぷらぷらとはしゃいで楽しそうだ。

「いや、いま起きたところだ。っていうか何の話だ? あとこんな早くからどこかに行ってたのか?」

 「デートよ、誰かさんみたくヒマじゃないもの……女のことを詮索する男はゴミ屑のように捨てられて融雪水路に流して捨ててしまえ、って習わなかった?」

 そう言って上気した頬をさらに膨らませる。ますます子供のようだ。

「習ってねえよ」

 酷い言われ様だ。

「つうかさ、こんな時間までだらけてるなんていいご身分ね。今朝、私が出かけた時もまだ寝てたでしょ」

「はは、まあそう言ってやるな。こいつはこいつなりに女にもてようと頑張ったけど、駄目だったタイプなんだから」

「まあそうだろうなーって思う」

「というかヒカリ、俺は彼氏の事なんか聞いてないぞ?」

「安心しろ保護者、今朝、迎えに来たのは女の子だったよ」

 マスターが笑いながらコップに水を注ぎ、ヒカリとハリマに勧めた。

「そう? でもそれは大きな問題じゃないわね」

「どっちでもいーからおまえもドブさらい、手伝えよな……」

「やあよ、汚れるもん」

「仕事ってのはそーいうもんだ」

「アタシはもっとエレガントな仕事がいいな、そっちのがに似合うし、ディテクティヴっぽい!」

「エレガントな詰所でマニヒッチ様から感謝状を番所からいただいたんだが、これでも飾って満足しとけよ」

「袖の下ばっか膨らませてるような、中年ロリコンエロオヤジの書いた落書きなんかいらない」

 口の減らないやつだがまあ同感だ。それに、今はそんなことよりも気になる事がある。

「まずだな、ヒカリ、俺はお前を事務所の見習いにも社員にもした覚えはねえぞ」

「誰がハリマの弟子になったって言ったのよ、アタシはアタシで個人事業主なんだからね?」

 ハリマとヒカリは生計も収支も同一にしているはずなのだが、彼女はなぜかそのように自分の立場を称している。彼女なりのプライドがあるのかもしれない。歳が十に達した誕生日以降、頑ななまでに『お小遣い』を『お給料』と言って譲らなくなった。この強情さは、姉譲りかもしれず……正直、ハリマは常に分が悪い喧嘩を強いられ続けている。

「まあいいわもう……で、なんだってヒカリ」

 号外を彼女の手から抜き取りながらハリマが聞いた。そしてそのまま目を走らせて紙面の文字を追いかける。

「ところでハリマ、コレのことなんだけど」

「うん」

 ヒカリが着物の袖から一冊のノートを取り出した。表紙には 『ハリマ探偵事務所業務日報』 と書かれている。

「聞いてるの?」

「うん」

 ヒカリが何度か問いかけるが、ハリマの方は号外記事を読みふけっており、生返事ばかりかえってくるのみだ。

「実は何にも聞いてないでしょ?」

「うん」

 コートを翻したヒカリの右がまっすぐ走る。彼女の体格から繰り出されたとは到底思えないその一撃がハリマの腹に綺麗にはいり、彼は崩れるように椅子から落ちた。


「あのねー、この間街を出たばかりの大型交易船……こないだまで港に止まってて、野菜とかもってきてた。あれが行方不明になっちゃったんだって」

 ハリマが床に倒れ込んでしまったので、代わりにマスターを話し相手に据える。

「確か、『セトカ丸』だったかな……旧型駆逐艦の改造輸送船だが……事故か何かかい?」


 彼の顔にもかすかに興味が浮かび、そしてわずかに陰った。セトカ丸に身内が居たわけでも由縁もないが、港の中に構えている店だ、しばらく停泊していた間に船員達がこの店に飲み食いにに来たこともあっただろう。港に泊まれば新鮮な食い物と酒と女、それがいつの世も、どこの国でも変わらない船乗り達の何よりの楽しみだ。名前も覚えていないような行きずりの客だったろうが、自分の店に立ち寄った人間達が遭難したとなると、どうしても心中穏やかではいられない。――クソみたいに人死にを見てきても、慣れないもんだな――いや、慣れてしまう方がクソなのか――

 「それが分からないの。でも噂じゃその船には何か凄い秘密の積み荷があったとか……それがナマズに襲われちゃったらしいって……あ、太ペンか筆とインクある?」

「フェルトペンでいいなら」

「ん、それでいいよ……ありがと」

 受け取ったペンのキャップを外し、ノートの表紙に書かれた「ハリマ」の文字の上に「ヒカリ」と大きく書き加える。二重線にして、ハリマの字よりも大きく目立たせることも忘れない。

「昨日と今日のことも書いとかないとねー、これが何か大きな仕事に繋がるかもだし!」

 いつの間にそんなに事情通になっていたのか、と笑いながらマスターも身を乗り出してくる。「しかし、ここらで今時分にナマズが出るとは珍しいな……アナモタズかな? だとしたら面倒だが……また野菜が高くなる」

「そこまでは分かんないんだけどね、んで、海軍……やっぱずーっと港の基地にたむろってた連中いたでしょ? あれと、たまたまここの近くに立ち寄った本国の艦隊が総出でナマズ狩りに出たらしいのよ、それも、あの有名ななんとかって艦隊」


「第七艦隊、旗艦はラッキーセブンことファルシオンだ」


 床にのびていたハリマが、のっそりと起き上がりながら話に割り込んだ。

「あ、生きてた? ……その名前どっかで聞いたな……確か大戦屈指の名艦で、アラクシアの大艦隊とたった一隻で渡り合ったっていう武勲艦、でしょ?」

「ああ、もちろんだとも……俺達のような元船乗りでなくとも誰でも知ってる名前さ。『殊勲のラッキーセブン』様の本名だしな」

 マスターが抑え気味に答えた。彼の言葉には明らかに引っかかりが感じられる。それをヒカリは彼らの古傷に触れた自分の失言と感じた。戦争の最中の彼女はまだ幼く、物心ついたときには既に街の復興もあらかた終わっていたが、それでも戦禍の痕はあちこちにあり、ことに人々の心に残ったそれはまだ、癒やされきってれているとは言い難いのが現実だった。


「あ……ごめん」

 しょげかえるヒカリにマスターが笑いかける。

「いや、そうじゃないよ、俺はあの戦争に行ったことを悔いちゃいない、むしろ勲章さ、俺達が、あのファルシオンいたからこの街は沈まずに残っているんだ……そもそも俺がそんなタマに見えるのか?」

「ううん、全然! おなか減っちゃった、何か食べさせて」

「食べるだけかい?」

「もちろん、違うわよ、燃料もお願い」


 既に彼女のグラスにはなみなみとウォッカが注がれている。そこに氷の代わりに、固められた白い雪玉が一つ浮かんだ。埃の少ない吹き漏れ口の新雪は固めれば氷に、溶かして漉せば飲料水にもなる、この街では唯一、無尽蔵の資源だ。

「昼間っから……誰が払うと思ってるんだ」

 ハリマが不満を述べるが、ヒカリの方はどこ吹く風、とウォッカを舐め舐め、上機嫌で岩塩を囓っている。

「あー、今の気分はストレートかホットでも良かったかな?」

「いっぱしに酒飲み気取るなよヒカリ、いいか? 俺が酒を覚えたのはな……つかだからな、いや二杯目っておい、誰が払うと」

「だからそういうのは……その都度きちんと現金で払う奴のセリフだと何度。てーかいくらツケがたまってると思う」

 ヒカリの二発目より早いマスターのツッコミ、ヒカリの放った二発目のツッコミ(物理)は背を逸らしたハリマのスウェーに躱される。

「ちっ……まあいいや、で? いくらなの」

 まるで他人事のようにヒカリが言う。疑問というよりは感想に近いイントネーションだ。マスターも、とくに感情を挟むでもなく淡々と帳面をめくり、ソロバンを弾く。

「……四千六百とんで八ポーレイ。まだ今日の飯代は入ってない」

「大変ねぇ……あ、アタシ今日はランチでいい、酒もう一杯入れるからゴハンは中盛りー」

「そうだなぁ……ランチ中いっちょ」

 どうやら、彼女にとってはあくまで他人事らしい。マスターが帳面に書き込んでいる金額の半分近くはヒカリのツケで、さらにその半分は彼女が嗜むアルコールのはずなのだが。

「今時ソロバンたあアナクロだな」

「それを言うならアナログ、だろ」

「どっちでも良いだろ、似たようなもんだ……俺達から巻き上げた金で、さっさと水晶に切り替えたらどうだ?」

「水晶ねえ、あれを使うのはどうもな、性に合わん」

「まあ、そこは同意だ。ところでマスター」

「なんだ」

 フライパンを揺らしながらマスターが答える。

「俺にも飯な」

「ランチか?」

「……餃子は嫌いなんだ、単品でユキアミのみそ汁、メザシ、それと千切りキャベツに大根おろしとライス大盛り」

「めんどくせーなおい、あとアミも干しアミしかねえが贅沢言うなよ」

「かまぁねえよ、食えりゃあそれでいい。つーか生アミってドブ臭くないか?」

「ほんとは生の方は味が良いんだが、そこらのは硫黄分が残ってるからな。泥を吐かせたような生アミを食えるのは、ここじゃやんごとなき御領主の男爵様か、神様くらいだろうよ……まあ野菜があるだけ贅沢だぜ」

「? 神様って何? 会ったことあるの二人とも」

 しばらく号外に夢中だったヒカリが二人の会話に割り込んだ。

「ん、ああ……神様ってのはな、俺らっていうかまあ下っ端の兵隊から見た上級士官様のこった、雲の上のお歴々なんで、そう呼んでたんだよ……っと」

 フライパンの中身を皿に移す。

「ふーん、そうなんだ」

「まあ、ヒカリちゃんには馴染みがないわな……どっちの神様も。しかし相変わらずつまらん男だなハリマ、お前みたいなのは、結婚しても女房に絶対逃げられるぜ、この店を賭けたっていい」

「まず結婚できないと思うわ、コブ付きだし、むさ苦しいし」 

「コブが言うかよ。というかなんだよ唐突に、ランチの方がありきたりじゃねえか、だいたい昼も夕もランチっておかしくねえか?」

「ありきたりどころか、おまえ週に三日は同じもん食ってるだろ、それに角の喫茶店だってモーニングを夕方までやってる。あれよりはおかしくねえよ」

「代わり映えしないよね」

「いいだろ、好きなんだよ、メザシとキャベツと大根おろし。だがイモとニシンは勘弁だ」

「ちげえねえ……もうお互い、一生分は食ったな、ニシン。ああ、大根は自分でおろせ手が離せねえ」

 おろし金と輪切りにした大根がカウンターに置かれる。

「客も働かせるかよ、ろくな店じゃねえな」

「そんな店でしか食えねえ自分の懐を恨めよ。ウチ以外にツケがきく店があるならそっちへ行きな」

「ねーな、しかし久々に聞いたわ、『神様』なんて」

「ああ、そういやあそうだな。あと、おまえはいっつもぶっ飛ばされてたよな……神様の御使いに……炊爨が下手くそで」

 彼が注文したメニューの野菜は、どちらも保存が利く分比較的入手しやすいものだが、あくまで野菜の中で安価であるに過ぎない。この世界では光と土壌の両方が乏しく、そもそも野菜にあたるもの全ての生産量が絶対的に不足している。日の差す場にある土の価値は、純金に勝るとも劣らない、とさえ言われていた。

「だからあの当番は嫌いだったんだ」 

「知ってるさ」

 ユキアミと小魚を焙る香ばしい匂いが、厨房から漂い始めた。――まあ、何をするにしても腹に物を入れてからだ―― 誰にいうでもなくそうつぶやき、ヒカリが読みふけっている号外の裏に目をやる。

「何よ、アタシが見てからだかんね? あと切り抜きにしてノートに貼るんだから汚さないでよ?」

「わーってるよ」

 雪風亭の壁に貼られた号外の周りはいよいよ騒がしく、夜も賑やかなことになりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おたまじゃくし航海日誌 ―冬来たりなば春遠からじ― 彼女に尻尾が生えたわけ ねりタケ @neritake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ