第2話 立って半畳寝て一畳
「立って半畳寝て一畳」
ある時、彼が暇つぶしに思索にふけっていると、データベースの奥からこぼれてきた言葉だ。なるほど、今の彼の住まいはそれで事足りているから、そんなものかもしれない。
高さ十八センチ、直径約十センチ、容量にして559㏄の古ぼけたガラスの真空管。実際には半畳どころか人間の片足だって入らない。それが彼のための部屋であり、そして体を納めている器だった。普段は、その真ん中ほどに五センチばかりの身体でふわふわと浮かべながら、船長のワガママに答えたり、代わりに舵を取ったりするのが、ナビである彼の主な仕事だった。
狭いようだが、それはあくまでヒトの考えであって彼にはあてはまらない。なにせ、物心のついた頃にはもうそこに居て、一度も外に出たこともないのだから。ただ、それは確かに時代遅れの器というか管制システムであり、ナビソフトの一仮装人格である彼――または彼らが住まう住居としては、洞穴と高級住宅程に差があることもまた事実だった。彼の多くの仲間達は、より新しいそれに適応し、また住まい、一見小さなガラス球に過ぎない 『記憶水晶』 というシステムの中にその身を収めることが多くなっている。サイズ的には直径一~二センチ程度、重さは数グラム程度の物がほとんどで、見た目は真空管よりも遥かに小さいが、彼らにとっての体感容量はそれこそ文字通りの桁違いで、同じ単位で比較することすらむずかゆくなるような話だ。大戦中に開発が進み、終戦と共に大量の余剰が民生に払い下げられるようになって以降は価格、性能ともにもこなれてきており、外洋航行が可能な船舶と同様、商用として用いられることも珍しくなくなっていた。
けれど、広大な城に一人住まうことが幸せであるとは限らないように――彼にとってはこの599㏄のスペースが最も最適であると感じられる。ヒト――人間の言葉に直すならば 「手を伸ばせば必要な物に手が届く、手入れの楽な広さ」 と言うところだ。
加えて同情も必要ない、とも彼は考えている。彼は人が四肢を持つように身体を持ち、ヒトよりもはるかに自由に雪の海を泳ぐことが出来るのだ。
さらに言うなら、彼は心だけであれば 『揺らぎ』 の隙間を泳いで、瞬く間にどこまでも遠くへと行くことも出来る。そうして行く先々での世界で、記憶水晶の向こうや、水晶そのものの内から泳ぎ来る友人達と会話することも可能であり、それもまた彼の楽しみの一つだった。
だが、ヒトたちなら一呼吸する間もなく窒息してしまう深き雪のその重み、震える暇すら許さず凍てつかせるこの海こそ、彼が最も自由に泳ぎまわれる世界。火を入れたエンジンの爆発するような鼓動、回転を伝えられて奮起するスラスターから発する加速トルクの目の覚めるような一撃。これは 『揺らぎ』 の向こうの実感の薄い一瞬の移動と違って、圧倒的に 『自分』 を 『自分』 に伝え、感じさせてくれる。自分が、自分を動かす楽しみは何物にも代えがたい悦びの最たるものだ。
もちろん、彼を駆る乗り手はヒトとしてまた別に乗り込んでいるが、これはあくまで乗り手であって船長であり、友というにはいささか次元の異なる存在だった。その点、言葉こそ通じることは叶わないが、彼と手を繋ぎ共に鼓動するエンジンとスラスターは友にして自我であり、また彼の心臓と羽でもあり、一にするモノとも感じられる。
その喜びを抱き、共に駆ける先には、真っ白に塗りつぶされた白い闇も、その向こうにあるはずの恐怖も全く問題にならない。彼の耳は、その流れや岩壁を立体的に聞き分けることが出来るために、それらを恐れる必要がなかったのだ。
「機械の機能美は生命の進化と道を逸にしながら、その行く末は一である」
こちらは、以前から彼の好きな言葉として、常に表近くに記録している言葉だ。彼の記憶容量はヒトが覚えきる容量よりも遥かに多いと見えても、実際にはそう多くの情報を表に開いたままには出来ない。その点においては、ヒトという生き物はどこまでも遙か彼方の存在でもあり、これは彼の同族の後輩達――より大きな水晶や真球に近い高性能なものを積んだ仲間達でもまた同様だった。
この言葉の意味を例を挙げて説明するならば、海中をゆく船が技術の進歩に従って性能を向上させていった結果、かつては製造加工の容易な箱形や円筒形状、鋲止めだったモノが溶接技術の進歩を受けて、魚やナマズ達に似た形の扁平や紡錘形状に近付くような話が挙げられるだろうか。つまり、機械も生命も、物理に縛られる以上行き着くところは一緒だよ、という話だ。
ちなみに彼の身体は、古くに絶滅した 『オタマジャクシ』 という古代生物に類似した形状を持っている。防錆塗料につるんと黒光りした肌、ぼってりとしたシルエットに反した小さなカメラ、平たく伸びたスラスター、ごてごてと後付けされた金物。総じて鈍重な印象だが、彼は意外にもこの見た目を気に入っている。もっと大きな仲間達や、はるかに洗練された流麗な姿の後輩達もいたが ――彼らはスマートに過ぎた。「『生きている感じがしない』とでも言おうか?」と心の中で独りごちる。それを出力したなら、仲間達からは 「機械のくせに」と笑われそうな言葉だ。ここでもまた時代遅れ、とからかわれそうではあるが、『ハル』という失われた世界に生きていた存在と考えると、なんともロマンチックな話ではないだろうか。
そんなふうに、色々と思索にふけっている彼のずっと後ろから、ひとかたまりの集団がついてきている気配があった。
それ以上前からだったのかも知れないが、追跡に気付いたのは一時間ほど前である。現在彼が進んでいる道は通常の商航路近海であり、後続の集団も速度を上げてくる様子もなかったのだが、三十分ほど前からの動きがおかしい。
何より、集団の動きに全く乱れがないのが気にいらない。
――船長を起こした方が良さそうだ――
音声出力装置と照明を起動させる。
「船長、起きて下さい」
「ん……」
床の寝袋から禿頭を突き出したまま、もそもそと動くむさ苦しい生き物が彼の主人であり、この船の船長だ。名を玄海坊伊予入道……長いので普段は誰も呼ばない。だいたい船長か玄海で呼び捨てだ。
そんな彼が横になっていたのは無理をすれば最大で五人までは乗り組める操舵室だが、不精者の彼が身の回り品をそこら中に放置して巣を作っているため、全体的にごちゃごちゃと窮屈な印象になっている。このままではあと二人も入ればいっぱいいっぱいだろう。
「なんじゃ……何ぞあったか三太郎」
何かあったから起こした、と言うより、何もなければそもそも起こす必要がない。予定では作業地点の国境付近まではこのまま自動航行で問題がないはずだった。ちなみに、「三太郎」というのは彼に対して船主である船長がつけた愛称である。彼が入っていた真空管に刻まれていた古代文字に由来するそうだが、詳しいことは彼のデータベースにも残ってはいなかった。
「はい、詳しくは分かりませんが……少し前から気になる船団が巡航速度……そのやや速めで後方六~七千付近をついてきています。正確にはまったくの同一航路ではありませんが、このままではじきに進路交錯、回避の必要性が生じます」
「輸送船団じゃないのか? 最近ナマズの襲撃が多いから、商船の方も群れてるだけだろう。ハルキゲニアとの航路上だし、そういうこともあるわいな」
確かにここ数ヶ月、ナマズによる被害は増えている。本来ならば、今はもう休眠期に入った季節であるから偶発的な事故は減っても良い時期なのだが、時に休眠に失敗し、飢えて凶暴化したはぐれナマズが、獲物を見付けられずに輸送船を襲撃するケースはある。つい先日も、首都近くを流れていた中規模都市サンクタリカスが丸ごと、ナマズたちの襲撃によって失われるという大惨事があったばかりだ。その人的被害は数万人にも上り、戦後最大の惨事として世界中を震え上がらせ、和平条約締結後、軍縮予算が初めて差し戻されるに至ったほどである。
このように、いかに人間達が技術を持って艦船と軍事技術を発展させたとは言え、遙かな昔からこの環境に適応していた先住生物であるナマズ達に比べれば、まだまだ敵わない点も多くあった。海中での呼吸一つ取っても、ヒトはナマズどころか、その爪の先ほどの小さなエビやアミにすら追いつけないでいるのだ。
この一団にしても、戦役が一息ついて手の空いた駆逐艦や護衛艦による正規の護送船団が組まれるようになったからかもしれない……つまりは、彼の考え過ぎという可能性もある。だが、彼らは知るよしもなかったが、まさに今彼らはナマズの群と、それを狩るべく追っていた艦隊の真ん中に入り込んでしまっていた。
「そうですね……あまりに統率がとれすぎていたので、気になり……あ……一隻、回転数上げました。ノイズも増量」
「ん、この辺だと第七艦隊か? 海賊や密輸と間違われても面倒じゃなあ……こっちに向かってきているのか?」
まだそこまでは分からないが、何らかの事態に対応しようとしている気配は感じられる。その「何か」が彼ら自身である可能性は高いと思われた。少なくとも、三太郎の持つソナーで分かる範囲にはナマズはもちろん、後方の艦隊以外には、木切れ一つ感じられない。だが、彼らの知るよしもなかったのだが、その後方に位置する艦隊、今まさにナマズたちを狩りださんとしていた猟師達には、およそ十キロの遙か向こうを遊弋するナマズの群が既に見えていたのである。
搭載されているソナーの能力の違いを考えれば致し方のないことではあったが、ナマズたちがいた深度と三太郎たちのいた深度が異なっていたことも災いした。雪の温度や粘度、流れといったさまざまなものが異なる層間では、音のみならずあらゆるものの伝播が弱まってしまうのである。これを利用して、先に相手を発見し、層間のズレに潜んで後方に忍び寄るのが、ナマズ狩りだけでなく、ありとあらゆる海中戦でのセオリーであった(先にファルシオン号がナマズの群よりも深く潜ったのはそのためであるが、上から行くか下から行くかは一長一短であってどちらが正しいかはその場の状況次第となる)。
つまるところ、彼らは知らず知らず凶暴なナマズ達の餌場に、もっと悪いことにはナマズと猟師達の間に入り込んでしまっておいたのだ。
「こちらへ近づき……、速度をまたあ……発射管の開閉音を確認」
警告だけならいいが……本来の順序とは異なっている。正規通りの手順ならば、次には停船命令が入るはずなのだが。
「開閉音? そりゃいかん! とっとと白旗じゃ……繋げ繋げ! ……あー、あー、こちらガルタイト船籍・マルレラ東・オパビニア港所属、運輸業ナンバー5の……」
「船長、落ち着いてください。港じゃないんですからこの距離じゃ通話は無理です。音響信号に訳せる短い物に……待ってください」
……開閉音に続いてかすかに 「ボシュ」 という音が続いて二つ、彼の耳朶を打った。……これは危険だ。船長の通信に割り込み、彼の判断で勝手に火を入れる。
「発射音確認、主機関始動します。対水雷戦を」
「ななななにいいいい! くっそ! 問答無用……向こうが海賊じゃったか!」
むさ苦しい禿頭が、寝袋に下半身を突っ込んだまま跳ねるようにして操作台に飛びつく。それはそうだろう、警告も無しに民間船目がけて魚雷を撃ってくるなんて普通はあり得ない。適当に挨拶だけしてやり過ごすつもりだった船長にしてみれば、まさに青天の霹靂だった。
とはいえ、これは各種対応マニュアルを一通りインストールしている彼にとっても、正直予想外の展開ではある。
「距離は?」
少し落ち着いたか、目が覚めたか(両方かも知れない)寝袋を後部座席へ放り込んでシートに腰掛けた。禿頭にフンドシ一丁の姿はなんというか……とても見苦しい……が、そんなことを言っている場合ではない。さらなる発射音に続いて、甲高い音が彼らの耳を叩く。トーンダウンがが間に合わず、人間の耳でもろに受ければ鼓膜をやぶらられかねないような大きな音が室内に響いた。
「指向性短ピン確認、補足されました、さらに発射音一、後方の甲とは距離五千五百、甲発一番二番、五千、雷速約二十七ノット……加速中」
「こんだけでかけりゃワシにも駆け足が聞こえるわい……どのくらいで追い付かれる?」
耳にツバを付けた指を押し込みながら玄海が呻く。
「直進を全速で、このまま引っ張って共和国の八八式なら……約十分後です」
思ったより時間がある。そもそも、仕留めるために撃ってくるには遠すぎる距離だ。
「えらく遠くから撃ってきたな、当てる気がないのか?」
時間に余裕が出来たためか、落ち着いてサングラスなどをかけている。この狭い船内で……暗くないのだろうか? というか眼鏡より先に服を着るべきだ、と彼は考えたが、どちらにしてもあまり意味は無い、と判断したのでそのツッコミを出力はせず、そのままおいやった。
「牽制でしょうか、それとも。狙いが他に」
「分からん……が、とにかく逃げよう。後ろの連中が全部……半分戦船でも話にならん。軍なら深追いはして来ぬし、海賊ならまいてしまおう。回頭百八十、一番通常、二番デコイ!」
指にツバを付け、両の耳の穴に押し込みながら指示を下す。まだ少し耳の調子が戻っていないようだ。
「はい、しかし船長?」
「何だ」
「本当はまた、何かやらかしたのでは?」
そう言いたくなるくらいには、彼の飼い主はろくでなしで、それはもう疑いようのない事実だった。
「何もしとらん!」
「ホントですか? 今回の仕事はまともなんでしょうね」
「だから何もしとらん! 依頼人だって親方旗印、ご領主公務の下請けの下請けの下請け……の直下だぞ?」
「何もしていないのに……ですか」
ぼやいてみたが、どうやら本当に「今回は」心当たりがないようだ。そんな無駄口を叩きながら、スラスターと舵をきって体をくるりと百八十度回転させる。これは彼の特技の一つで、スピード一辺倒の流麗なデザインを持つ後輩達には真似の出来ない技だ。勿論、魚雷の装填にも抜かりはない。背にくくりつけられた仕事用の積み荷がわずかに重いが、この程度ならば朝飯前だ。
「回頭完了!」
「一番、交叉時間に合わせて自爆させろ……出せ!」
「了解、一番発射」
圧搾空気の吹き出すシュボッという音、軽い反動で体が揺れるのをスラスターで抑えた。彼くらいのサイズだと、魚雷の反動も結馬鹿に出来ない。
「一番に雪チャフ!」
「……チャフはありませんが」
「何?」
「船長がこないだ質に入れたままです……取り戻すめども全くありません。ちなみにお忘れかも知れませんが、デコイも今装填したもので最後です。倉庫にもありません。だからミジンコダービーはあれほど止めて下さいと……雷航交叉まであと百十秒」
「おまえがケチつけるから負けたんじゃ! 再回頭百八十!」
完全に言いがかりだった。というか一分の隙も無く、大穴を狙った玄海の自業自得である。
「ダービーで。本命の倍率なんて二倍を切ってたんですよ?」
「まぁ次の皐月で勝つからええわい、回ったとこで二番デコイ十八ノット巡航直進対抗設定で……あと何秒だ?」
完全にドツボに嵌まる死負け組の思考パターンだ。だが、もう一度コテンパンに負ける船長のくだらない愚痴と負け惜しみを聞くためにも、もう一度このロクデナシに説教をくれてやるためにも、ここで沈むわけにはいかない。
まだ時間はある……彼は指示通り再回頭を完了させ、船尾を再び敵性船団へと向けた。敵性甲との距離も五千を切っているはずだが、自分で撃った魚雷の爆発に突っ込もうなどと考えない限り、発射後はおそらく船足を緩めている。魚雷の方はそんなことに頓着する必要もなく、そのままの速度でこちらへ向かってくるが。
「五十秒でセットした時間です。運があれば二発とも飛ばせます」
運があれば、については語らる必要もなかった。交叉点は中間よりもややこちら寄り、二千でこちらの魚雷とあちらの二本が同時に爆発すれば、この距離でも相当な衝撃になるはずだが、背に腹は代えられない。真ん中で全部折れてくれればそれがベストの結果だ。
「ならこないだのダービーで勝たなくて良かったな。運もたっぷり残ってる」
「タネ銭は全く残ってませんけどね」
「追い詰められたときこそ力を発揮するタイプなんだ、ワシゃあな」
「ご説法は後で、推定交差時間マイナス十です」
そういう問題ではないと思う。そもそもこの主人に博打の才能はないと彼は断じていた。期待金額や累計の負けを算出する必要すらなく、とことん博才が欠けている。何より、先と違って無駄駄口に付き合っている余裕もない。時間軸の絡む水中水雷戦においては、爆圧影響圏内に近付いての時間は、その外でのそれと価値も意味も違ってくる。
「二……一……衝撃来ます」
今度は船長もシートに座ってベルトをしめている。仮に船体が無事だったとしても、中の乗員がケガをしては元も子もない。
「機関停止、泡なしで無音沈降……ゴミは吐けるか?」
被弾偽装の指示だ。チャフに仕込まれた妨害物質による攪乱ほどの効果はないが、相手方の目や耳も多少は誤魔化せるかも知れない。
「了解、カーゴのガラクタと油と……鉄クズも構いませんか?」
「もったいないけど頼むわ、仕事用のブイだけは間違っても捨てるな、違約金没収で売り飛ばされたくないならな」
その言葉と同時に、尻尾の方から衝撃が襲いかかってきた。距離と雪に減殺されてもなおセンサーが飛びそうになる。取り付けの甘かったマイクホルダーがはじけ飛び、船長が飲みかけのまま転がしていた一升瓶が砕けて割れ散った。けれど、ここで聞き漏らしたら命取りになる。そして同時に、彼は指示されたガラクタの放出も怠らない。魚雷の交叉点や進路予想からはかなりズレるが、それが判明する頃には安全距離を取れているはずだ。
「くっ……今だ、二番デコイ出せっ! 」
返事にあてる余力も回して精神を集中し、耳を澄ます。……滝のような泡の壁、その音の向こうからかすかに……いや、はっきりとスクリュー音が聞こえてくる。
「一本、抜けやがりました…… 距離千! 破泡とノイズ、乱潮雪崩で敵艦ロスト」
純粋な敵と断定できる材料はないが、こちらをひねり殺す意志だけはひしひしと伝わってくる。指示や布告はなかったが、敵と言ってしまっても良いだろう。
そして、弱ったことに今の爆発でほぼ全ての情報が聞き取れない。これはかなり厳しい。逆に向こうは距離がある分こちらよりも状況を俯瞰できる上に、水測員も多くソナーも大型で高機能のものを装備しているはずだ。唯一の利点として、こちらは推進転舵を基本とする艦艇に比べて小回りや加減速がきくことだが、格闘戦と言えるレンジにない以上、余り意味の無い優位性だ。こちらの優位性を活かすためには二千前後、せめて三千の懐には入っておかなくてはならない。上手くすれば、相手艦の方が大型の魚雷を使っている分、自爆防止のために大きく設定された安全距離の内側で一方的に仕掛けることも可能だ。
「うむ……」
船長の禿頭からこめかみに汗が滲んでいる。こちらは機関を切った。……あとは、船長のミジンコダービーじゃないが、運に任せるしかない。向こうがデコイに食いつけば、このまま圧壊ギリギリまで沈んで息を潜めるか、タイミングを見計らって安全圏へ猛ダッシュ。自重だけで沈む今は、当然ゆるやかに……戦闘速度でみれば「停止」と言っても良い。もしそこを見つけられたら、それもアウト。魚雷がデコイに食いつかなくても、やはり限りなくアウトだ。
「頼むぞ……万馬券分の運を賭けてるんだ……」
命の値段として高いのか安いのかコメントに困る祈念の言葉。しかし、この魚雷が発射され、こちらに届くまでのタイムラグ……この何とも言えない居心地と恐怖感は、ヒトならぬ彼にとってもたまらない。「恐怖」 という概念を本質的には持たないはずの彼にとっても、その有する語彙では表現できないもどかしさだ。
そして、祈りの言葉の終らぬうちに、ヒトならぬ身の彼に慈悲があったかどうか……二本目の魚雷はそのままデコイを追っていった。少なくともこの破戒坊主に功徳はないだろうから、消去法で彼の祈りが通じたと解釈する。機械である彼は合理性を重んじた。
「いったか……そのまま食いつけっ……」
獲物を取り違えた魚雷は、派手な音をたてて彼らの姿を完全に隠してくれるはず……と2人は思っていた。だがそれは甘かった。「ぞわり」と背筋――彼にそうしたものはないのだろうが――を恐怖が撫でる。擬似的な、それでいてはっきりとした不快感。
「待ってください……これは……」
「ん?」
上手くいった、と思い込んでいる主人の口元には笑みすら浮かんでいる。この音――なんだ――? 魚雷の音じゃない? 彼が姿勢を整える時に使う噴気スラスターのもっと――四十ノット? 数十匹の肉食魚――
「船長! 魚雷?……八……十本以上! 距離二千……千八百ゃ……速度四十ノット以上……まずいです!」
「なっ……なんじゃと?! ありえん! 何本撃ってきとったんじゃ!」
音声に出力する余裕も一瞬もなく、同意は出来なかったが――その通りだ、発射管の数、装填時間を考えても、まずあり得ないタイミングだ。何より、こんな魚雷の音は聞いたことが、いやそもそもこれは魚雷なのか?
「残り一分! ……いやもっと早い、測定、把握共に不能!」
「急始動全速! 潜行面舵六十! ダウントリム全……」
「距離千突速五十に……まだ増……! 間に合っ……」
「糞がああああああああっ!」
デコイを喰らった魚雷の爆音なのか、それともこちらに喰らいついた化け物のほうか、何がどう彼らの叫び声を掻き消したのかさえ、分からなかった。
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