第1話 ヒカリとハリマ

ヒカリとハリマ

 

 冷え切った街の裏路地を男が走っていた。ハンチングを目深に被り、厚手のボアジャケットに作業着の上下、この世界ではごくごく一般的な服装だが、全体的にやや薄汚れ、色落ちて見える。


「待ちやがれ!」


 その少し後ろを、これまた薄汚れた恰好の男が追い掛けていた。前を走る――逃走する男に叫ぶが、それで止まるようならば初めから追走劇にはならないだろう。追う側のロングコートの男の年の頃は三十前後か、固めた髪に無精ヒゲのせいで老けて見えるが、よくよく見ればかろうじて「青年」の域に留まっていることが分かる。


「……けっ……! ……賞金稼ぎ風情が、こんなところでセコい仕事してんじゃねえよ……っ!」


 ガシャン、と壁に立てかけられていた廃材の束が、振り向き様に蹴散らされて追跡者の行く手を阻む。「クソっ!」 と、悪態をつきながら乗り越えるが、その間に両者の距離は倍以上に広がっていた。


「あばよ!」

 逃げる男の方はひとまず安堵したが、まだ油断はしていない。このあたりは彼の庭のようなものだが、一年の大半を雪に覆われるこの街では、軽くまいた程度ではすぐに足跡をつけられてしまう。屋内や屋根のある場所、もしくは地下のような場所を抜けて確実に痕跡を切っておかねばならない。そして、この近くには彼を匿ってくれる場所もなく、足跡を消してくれる雑踏もなかった。

 とは言え、仕事を始めて間もない男も足には自信がある。もとよりその足自慢と手先の器用さを頼りに選んだ生業、足もともそのために固め、靴の下に仕込んだ鋲も通常の物よりもしっかりと締めていた。一歩一歩確実なストライドを取り、雪や氷に足を取られぬようペースを崩さず走り続ける。――そろそろ大丈夫だろう――通りと角を二つずつ抜け、港の近くで店が立ち並ぶ一角に辿り着いたところで歩を緩めた。追っ手の足音はもう聞こえない、どうやら逃げ切ったか、と息を整えようとした彼の前に、人影がふいと現れて行く手を塞いだ。

 

「いらっしゃい、待ってたよ」


 男の行く手を塞いだのは、意外にも小柄な少女だった。それもただ一人。厚手のマントに身を包み、首から上だけを出している。長い黒髪を結わえ、いわゆるお下げにして両脇にたらし、卵形の中に紫色の瞳が並んでいる。美人と言うほどではないが、整った顔だちだ。もう十年もすれば、男達にちやほやされるようになるかもしれないが、つまりはまだ子供。十代前半から仕事に就くものも多い街だが、それにしても背伸びが過ぎる。追っ手の仲間か、と訝ったが、どちらにしてもたいした脅威ではない、と判断した。


「……なんだてめぇ、さっきのツレかガキか?」

「どっちでもいいけど、大人しく捕まって欲しいかな」

 ガキが一人前に言うだけ言うもんだ、と腹立たしくなり、懐に忍ばせていたナイフを取り出してちらつかせる。使うつもりはないが、このくらいの脅しをくれてやった方が話は早い。

「言うじゃねえか、ケガしたくなきゃそこをどきな、女子供をケガさせるのは趣味じゃねえし、うちらの流儀でもないんだ。ましてやその両方じゃ……」

「掏摸に流儀? そんなもんで矜持を保てると思うんなら、もっとマシな仕事選びなよ」

 男の口上に被せるように少女が吐き捨て、ばさり、とマントを脱ぎ払う。その下から、一風変わった景色が現れ、煤煙まみれの雪と泥にくすんだ通りに花を咲かせた。マントの下に彼女がまとっていたのは、くるぶしまでを覆う染め生地と刺繍で描かれた景色の一枚絵の描かれた着物だった。足を覆うロングスカートの部分には塗れ土の中を流れる小川、小道をふさぐように広げた両手の袖には若緑色の萌草が描かれ、その所々に黄色い小さな花が幾輪か散らばっていた。太い朱色の帯から締められた胸元から上はさらに奇怪で、気味の悪いほどに青い空と、寒に晒したような一朶の雲だけが流れ、全てがまるで異世界の光景の様に思えた。

 だが、それだけではない。それだけならば、まだ異国の衣装をまとった酔狂な少女、で片付けられただろう。その彼女の背には、それらの光景に負けじと異彩を放つ長物が斜めに飛び出していた。

 少女が背負っていたのは大人の拳を五つは並べられそうな長く太い柄、少女の顔ほどもあろうかという大きな鍔、その先にはさらに太く分厚い鞘が続き、その先端は引きずられるように雪に埋もれている。その様子は、見ようによっては子供がチャンバラ遊びに興じている様のようだった。兄達に混じってチャンバラ遊びに始めて混ぜてもらった幼子が、年長者のお下がりのオモチャの木剣を背負っている姿を。つまりは、なんの恐ろしさも感じないどころか、むしろ微笑ましいような姿である。

 だが、柄周りの渋彫りと鞘の黒漆は、玩具や稚技ものにはあり得ない、使い込まれたそれであり――明らかな異彩を放っていた。

「抜けもしねえ剣を背負って虚仮威しか? ガキの考えそうなこった」

「抜くまでもないからね」

 ナイフを振りかざしながら迫る男の突進を、少女が後ろに跳ねて躱す。服装の見た目と重厚な武具からは想像できない身のこなしだった。

「中身は空か!」

 あれほどの鉄の塊を背負って、あんな動きが出来るわけがない。

「違うわ、本命はこっち……炎よ、発し生まれ、その糧を呑み干せ……ヤ、イー……」

「てめえ……魔法使いかっ! その大刀に珍妙な衣装……まさか……『抜かずのヒカリ』!」

「ご名答! ……ティェンフォア!」

 少女が呪文を唱えながら左手で印を結び、右手の指を弾く。その瞬間、彼らの向き合っていた両脇の建物の上で火花が散り、炎が走った。


 ――しまった! ――反射的に頭上を手で覆い、身体を丸めて防御姿勢を取るが、悔やんでも遅い。

 

 ……

 

 ……ぱちん

「んっ? このっくそっ」

 ぱちん、ぱちっぱちっ

「……?」

「ありゃ……? っかしーな」

「お、おい……?」


 彼がおそるおそる目を開けると、魔法使いの少女は戸惑った様子で指を鳴らした時のポーズのままでいた。印を切った先へ伸ばした左手が何とも間抜けである。

「あ、もうちょっと待っててね」

「何をだよ」

「うん仕込みでね……屋根の雪であんたを埋めちゃう予定だったんだけどね……なんかうまくいかなくて」


 少女が 「てへ」 と舌を出しながら可愛く自分の頭を小突く。


「アホかぁーあっ! 待てるかよ! ふざけんな!」

 今度は脅しではなく、ナイフを腰だめに構えて突っ込む。刃のあたりに関係なく、体重にまかせてはじき飛ばして突破する――つもりだった。噂なんてしょせんは尾ひれのついたもの、酔っ払いが小娘とじゃれていたのが大袈裟に伝わったに違いない。でなければ、それこそ魔法でちょいと化かされたか、だ。

「あーもうめんどい!」

「どけっ!」

 

      ドン

 鮮血が雪に散り――男が地面の上に大の字に倒れていた。

「な、言うことを聞かねえからだ――ってあれ?」

 そう言い捨てた自分の足が、空を踏み抜いて空回るのにも気付かない。ナイフを握っていた手は空で、得物はどこかに消えている。慌てて正面にいたはずの少女の声がどこから聞こえるか把握しようとし――灰色の空と屋根の軒下しか見えないことに呆然となる。彼自身は未だに状況を飲み込めていなかったが、それを横で見ている者がいたとすれば、彼の懐に滑り込むように入り込んだ少女が、男を独楽のように回して投げ飛ばしたのを理解したはずだ。


「……えっ、あれっ? お、俺いったい」

「あとおまけ」

 ドン、ドン、と両の手の平で掌底を一発ずつ左右に放つ。彼女が踏み込む度に壁がぐらりと揺れ、衝撃が屋根を揺らした。

「え、あ、うわあっ! くそっ……」

 当初の仕込み通りに大量の雪が狭い道になだれ込み、男の罵声ごとその姿を埋め尽くした。屋根の上で固まっていた雪は湿気を含み、その見た目よりも遥かに重量がある。こうなってしまうともう、余程の偉丈夫であっても雪から抜け出すのは困難だ。


「っちょあがりー」

 ヒカリと呼ばれた少女が、パンパンと手を打って掌に付いた濡れ埃を払い落とす。


「ふー、ちょっと焦った……最初からこうすりゃ早かったかな」


「なにが『一丁上がり』だよヒカリ……おまえの、トラップ……と、やら、は穴だらけじゃないか……だい、たい危うく……外すところだったし、仕込んで……はぁ」

「あ、ハリマ。遅いじゃない!」

 その後ろから、先ほど男を追っていた方のもう一人、ロングコートの男が姿を現した。ハリマと呼ばれた彼の方は、ぜえぜえと息を切らしながら壁に手をつく。この街の空気は喉に優しさがなく、ガラガラの粘膜を痛めつける。

「ハリマが遅いのが悪い。だいたいなんでそっちから来るのよ? 普通追い込む側が反対から来るもんでしょ」

「ぐ、いやその」

「大方また、撒かれた後に道に迷ったんでしょ……まったくこれだから」

 痛いところを突かれ、言い返せなくなるロングコートの男――ハリマと呼ばれた彼が頬をかく。彼がこういう仕草をしているのは、色々弱っているときだ。

「まあいいけどね、さ、こいつを番所に突き出して……今日は久し振りに美味しいお酒が飲めるわね!」

「ツケ……払って残ってたらな」

「それは言わないお約束でしょ、おとっつぁん」

「悪くない響きだが、おとっつぁんじゃなくて叔父さんな。お兄さんでも良いけど」

 ようやく調子の戻った朽ちようでハリマが言う。先ほどに比べると、少し声の調子も戻っているようだ。

「調子に乗んな三十路……ほら、さっさとそいつ縛り上げて運ぶ!」

「はいはい、仰せのままに」

 軽口を叩きながら二人で雪を掘り返し、男を助け出す。だらしなく鼻血を垂らし、完全にのびているが命に別状なく、大きな怪我もないようだ。掘り返した雪の中にちらほらと、ヒカリが仕掛けていたカラフルな爆竹が混ざっていたのを、ハリマが見付けてつまみ上げてしげしげと見つめる。

「……仕込み方を考えれば、これはこれで有りかもな、爆竹と導火線を油紙でくるんどいた方がいい」

「でしょー? 私あったま良い!」

 実は面倒くさくなって直接壁を叩いて屋根を揺らした、とか、「初めから魔法で落とせばよかった?」 と今さら気付いているとは決して口にしない。さらに真実を掘り下げれば、「冒険小説のネタを試してみたかっただけ」 というのも。

「はいはい、まあ姉貴の子だしな……筋は良いはず」

「ハリマだって一緒じゃん」

「まあそうなんだけどな、姉貴は別次元だったわ、っていうかおまえ、また姉貴の着物勝手に持ち出したな? おまえには大きすぎるって言っただろ」

 ヒカリの纏う奇妙な服を指して言う。あまり持ち出すな、と口うるさく言っているのだが、最近は反抗期なのか、言えば言うほどに意固地になっている気もした。

「ほんとうっさいなあ、これ着てると魔法が楽なのよ」

 大きく垂れ下がった袖の袋地を撫でながらヒカリがむくれた。撫でられた箇所がほのかに光り、淡いながら魔力を蓄えていることを顕す。こうして物理的な現象に変換されない限り、魔力適性のないハリマには、魔力を認識することは難しい。

「そりゃまあ、お怪蠱さんの糸で織られたって話だしなあ……けど高いんだぜそれ、裾とか引きずってあんまり汚すなよ?」

「大丈夫よ、普段はマントの下だし、はしょったから……悔しいけど」

「まあ、おまえはまだ成長期だしもっと伸びるよ……っと、念のためそっち押さえてろ、縛り上げるから」

「ん、了解」

 ハリマが懐からロープを取り出した。男が気がついたときに暴れ出さないよう、ヒカリが男をうつぶせにして押さえつける。その小柄な体躯からは想像が付かないほどに膂力のあるヒカリだが、突然暴れられては面倒だ。小物ではあるが、今日は獲物も獲れたことだし、ちょいと奮発しようかな? 心の内で算段をつける。呑んべぇの姪程ではないにしろ、彼も美味い酒で乾杯、というのに異議のあろうはずもなかった。

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