おたまじゃくし航海日誌 ―冬来たりなば春遠からじ― 彼女に尻尾が生えたわけ

ねりタケ

序 白い夜

 

 艦内に警報が響き渡る。通常深度二百八十、乗員たちの緊張が否応無しに高まっていく。臨戦状態を示すランプにガスが満ち、次いでほのかな灯りが点って通路を赤く染める。乗員達は訓練でその身に染み着かせたとおり、作業姿勢のままでじっと息を潜めた。戦闘状態にあってさえどこかのどかな内湾艦のそれとは全く異質の静寂、それは乗員達の自我と人格を一瞬亡失させ、彼らは艦の血となり肉となり、一体となった。


「総員第一級戦闘配置。補修作業は直ちに中止せよ。繰り返す、補修作業は直ちに中止せよ、これより作戦目標に接近する」


 伝声管を艦橋からの振動が駆けめぐり、よく磨かれた銅管の開口から簡潔な命令が流れた。その残響が消える頃には既に走り回る男たちの姿もなく、ガスと男達の汗、ディーゼル臭が混じり合い、空気に乗ってゆるやかに循環していた。

 この時代になってもなお、外海では魔力に依存する装置の大半が使えなくなるため、いまだに多くの艦で可燃性のガスが使用されており、照明が全て電力によるそれ置き換わるにはまだいくばくかの時間が必要であった。そして戦前の条約下において建造された甲種潜行巡洋艦であるファルシオンもまた、幾度の改装にもかかわらず、いまだにスメルまみれの脂ぎった身体で乗員達を悩ませていた。

 鯨にも似たその巨躯が、胎内の緊張をあざ笑うかのごとくゆったりと舳先を転じる。、すべてが闇に包まれていた。そしてどこか青みがかったその闇の向こうに「奴」がいる。これから起こるすべての事を思う武者震いか、巨大な艦体が微かな唸りと、振動を乗員の足元に伝える。その鼓動はエンジンを遠く離れた艦橋にも例外なく伝わって来た。そこには、先ほどまでと違い、少しばかり身綺麗にした数人の男達が壁の計器や操作機材に向かって詰めており、その中心には、この艦の長である初老の男性が座っていた。


「さて諸君、相手はおそらくクソッタレの人喰いナマズどもだ。本艦隊はこれよりあいつらを三枚におろして程よく焼き上げる。仕事はそれだけだ。作戦というほどのこともない、訓練と同じ様に、目の前の義務のみを果せ。

 ……まずは通常深度離脱、圧力三百七十まで潜れ、作戦用弾頭前部一番から六番。七、八番にデコイ(囮魚雷)及び通常弾頭、後部一番ワイヤー(有線魚雷)装填。二番ジャム(妨害)弾頭!」


 オペレーターが、艦長の命令を復唱する。前半は機関部へ、後半は水雷へ。そしてその言葉の終わると同時に床が少しずつ傾いていき、練度の高さを証明した。


「補修作業全員、配置待機を確認」

「目標群東南東へ転針と推測、深度変わらず、距離約一万」


 副長が艦橋に詰める各担当員からの報告をとりまとめ、必要な物だけを抽出して、中央の席に座る艦長に報告する。


「これは望外の僥倖だよ副長、大佐のくだされた、いらぬお使いにも付き合ってみるものだな」

 走り書きの報告に目を通しながら、艦橋室中央の席に座るホフレンが笑顔で副長に耳打ちする。口元は緩んでいたが、本来の任務とは異なる『余計な仕事』で子供のようにはしゃいでいるのを部下に悟られてはよろしくない。ただし、余計な仕事という意味ではこの遭難船舶捜索救助任務も正規のルートで発令された物ではなかった。拒否しなくても良いというだけの話で、指揮系統を別にするホフレンが、ロスワルド大佐の依頼を断ったとしてもまったく問題になり様はない。

「は、ですが……港を完全に空けてよろしかったのですか? いくらナマズの群れが出た可能性があるとは言え、救助任務だけでしたら半個戦隊でも足りましたものを」

 本来ならば、これもまた平時にあっては重要な任務である。艦長のホフレンはもちろんのこと、副長のタイリンタール ――こうした職にありがちなことに、彼もまた生真面目な性格であった―― が、その彼をして「全艦隊で当たることはないでしょう」と遠回しに言わしめるには、それ相応の理由があった。建前としてはこれは救助捜索任務ではあるが、事実上は沈没確認と遺体収容が仕事と言っていい。場合によっては積み荷や船体の回収も想定はしているが、魔法の使用もままならぬ零度下の海中で丸一日以上、ドジョウやナマズの群に襲われて大破した船の内部に生存者がいる可能性はほぼないに等しいからだ。また、救助を任とする街の救難海防隊の顔をも潰しかねず、それは和をもって良しとする彼の望むところでもなかった。

 そしてもう一つ、こちらのほうが実はより重要なのだが――、彼らはセトカ丸が「遭難していない」ことを半ば確信してもいたのである。

「ん、まあ我々が留守にしている方が、大佐殿ものびのびと『職務』を遂行できるのであろうと思ってな。それに、こちらの遊び竿にも本命がかかったのだ、仕掛けは常に大を良し、餌と竿は存分に、が釣りの基本だよ」

 これから命がけの仕事をしようかというのに、まるで遊びにでも出かけるかのようだ。

「例えにせよ、本務を遊びというのはいささか不謹慎かと」

 言外に込められた皮肉に苦笑するが、失言を諌めることも忘れない。

「すまん、少々口が過ぎたようだ。で、どうだったのかね」

「はい、艦長ご推察の通り……セトカ丸のものと思しき艤装の一部と外板がスクラップ場と鉄屋で発見されました。塗料片から確認しましたが、間違いありません。セトカ丸は報告にあった状況発生日よりも前に解体されて、市場に流れています」

「あるいは、予定通りに姿を消した、と?」

「それ以上はまだ分かりませんが、戻り次第うちの憲兵を出したいと……後で御裁可願います」

「ハンコ渡してあるだろ、適当にやっとけ」

「駄目です。本来であれば就寝中以外は全てその場で押していただかねばならないくらいです」

「融通のきかん男だ……まあいい、そろそろだな。副長、無音警戒発令が済んだら君も席に着きたまえ」

「お言葉ですが艦長、私まで融通を効かせては規律が保てません」

 潜水艦隊の性格上、艦隊編成であっても艦隊司令が置かれることは少なくなっていた。そのため、艦ごとに独自の風土が生まれ、ただでさえ緩みがちな規律が有名無実化している艦すらあることは、スメルと並ぶ彼の頭痛の種である。

「教科書通りで結構」

 普段はあまり被らない帽子をきっちりと被り、ベルトの締め具合を確認する。

「それともう一点、よろしいでしょうか」

「なんだ、細かいことは任せてもいいだろう? 確認はするよ」

「細かいことですが、釣糸は細く、針は小さく、でなければ獲物はかかりません……大仕掛けを良しとするのであれば、漁師にでもなればよろしいのです」

「妙なところにつっかかるな」

「大事なところです。これは譲れません」

 どうも、彼の触れてはいけないところに糸が絡んだようだ。

「とは言え、かかった獲物を逃しては元も子もあるまい」

「釣りはしょせん遊びなのですから、それでいいのです。そも糸を細くせずして、あの臆病な魚が針にかかったでしょうか?」

「……無音航行へ以降、第一種、第二類警戒態勢」

 やりこめられた悔しさを隠すように、帽子をさらに目深に落とす。

「は、では無音航行に……総員無音航行準備、総員第一種、第二類(通常、ナマズ類を指す)警戒態勢をとれ!」

「復唱! 第一種、第二類警戒態勢!」

 再び、艦内がわずかにざわめく。そしてやがてその音も途切れがちになり、次第に静かになっていった。鈍重にして凶暴な肉食獣の柔らかな緊張が、雪の海を静かに、ぬるりと進む。


 「……来るぞ……」 

 そのつぶやきが誰に向けたものであったか、艦長のホフレン自身にも分からない。もしかしたら彼が発した言葉ですらなかったのかもしれない。ただ、艦内の誰もが例外なく感じていた。言い知れぬ、未知から来る『それ』を。

 そしてその静寂に、無粋な叫びが割って入った。


「左舷前方距離五千……深度二百五十付近に推進音!」

「なんだと! どういうことだ! ……セトカ丸か? 生きていたのか」

「いいえ……ずっと小さいです、音紋は外洋水雷艇クラス……おそらく我が軍の甲型です」


 ――だから装備を民間に払い下げるのには反対だったんだ――胸の内で毒づく。おそらくは戦後の特需で仕事を始めた海知らずの運び屋だ。そういう間抜けな手合いが航路を外れ、紛れ込んだという所か。怖い物知らずとはこのことだ。報告の通りであれば、その船はナマズの群と艦隊の間にいる、ということになる。予想外の事態が艦橋を騒然とさせた。伝声管から吐き出される狼狽と、艦長に集約する視線はそのまま全艦の縮図であろう。だが、老練な艦長は即座に決断を下した。一瞬の遅れが致命的な事態を引き起こしかねず、最悪の場合はこの間抜けと共に艦隊が運命を共にすることになる。


「左翼の端か……状況中断、非常回線開け『ツルギ』を呼び出せ」

 このままでは、ナマズたちの群と接触するよりも先に、互いの鼻っ面の先で騒ぎを起こりかねない。こちらが小型艇を無視したとしても、向こうは慌てて何かしらの行動を取るであろうし、ナマズに怯えながら露払いを務めている駆逐艦が勇み足を踏む可能性もある。

「しかし! 作戦行動中です!」

「かまわん、繋げ!」

 有無を言わせぬ怒声に通信員が慌てて回線を開くが、返答はない。

「だめです! この距離に回線では……トンツー許可を」

 杓子定規ながら当惑を隠しきれないその返答を遮り、まくしたてる。

「あほう、相手の目の前でこれから隠れんぼをしようというのに、鳴り物入りで進むつもりか! ……いや、いい。不明艦はツルギに一任する。あちらでも補足しているはずだ」

 艦長の裁可が下った。乗組員達の視線が集まる中、ホフレンは腕を組んで数秒沈黙し、起こし書けていた腰を窮屈な椅子に戻した。そして、――撒餌もよかろう――

と、隣に立つ副長にも聞こえぬほどの小声で呟やく。


「……さて諸君、少々トラブルがあったがこちらも予定通り始める……ダウントリム三十、深度圧六百五十! このまま滑っていって下からかち上げる。ナマズより潜りっこが上手いところを見せてやれ!」 




  ――白い夜――

 

 船乗り達はこの広大な海をそう呼ぶ。未踏査域を除けばその大半を占める分厚く凍てついた、それでいてどろりと流れるみぞれ雪の層とその巨大な潮流。音を眠らせた静けさと光を抱きとめるそれは、夜の名を冠するに相応しい世界だ。単純に雪と言ってもその状態は一様のものでは無く、巨大な氷塊から、流れるような粉雪、果ては凍っていないだけの水までをも含んでおり、仮に魔力が阻害されることがなかったとしても、大型外洋艦でさえ安定した航行を行うのは至難の業である。また、その表層より上――すなわち海上にあっては硫化水素を中心とした腐食性の強いガスが全域を覆っており、かろうじて光の届く表層にいる紅色硫黄細菌群や植物性プランクトン、そのすこし下層に多い嫌気性細菌、それらを摂取するアミ類によって無害化されていない深度を長時間航行するのは、これもまた困難であった(船外へと出さえしなければ短時間の航行は可能である)。そして逆に深く深くへと潜れば、今度は冷たく固まった雪――もはや氷山と言った方が良いが――に衝突して圧殺されて磨り潰されるか、その雪の重み自体によって船体構造が耐えきれずに一瞬で圧壊するかである。さらに言うならば、それらの悲劇ですらもまだ幸運なものであり、最悪の場合は動くことも出来ないまま、ただゆっくりと凍えながら、ゆるやかに窒息と凍死、または餓死の選択を迫られることになるのだ(そのため多くの艦船においては、軍用の物であれば班ごとに自決用の銃弾が、民生の船舶であれば同目的の毒薬を封入したカプセルが備えられている)。

 この酷薄な世界において、既踏査域に点在する街は言うなれば海原に漂う木切れに過ぎず、それは着実に腐食しつつあったが、人はその木切れにと共に滅ぶを潔しとはせず様々な延命を試みていた。その行為をあがきととるか努力と見なすかは、当の人々にとっても見解の別れるところである。もっとも、別の呼び方をしたところでその本質には些かの影響を与え得るものではないのだが。

 そして、手っ取り早く具体的な手段として、街の外層を強化するといった手段がとられたが、そもそも外部からの資源供給が乏しい状況ではこれは限界があった。くわえて、繰り返される戦いで大量の資源がまた海の中へと溶けて消えていったため、大戦によって失われた人命を差し引いてもなお溢れた人口を購い、街を維持するためには未踏査の外海へこぎ出すしかなかったのだ。

 そうして発達した「海」をゆく術は、いつしか残り少ない椅子を奪い合う力として急激に姿を変えていき、幾つかの悲劇を踏み台にしながらも発展を続け「海」を制するかに見えた。けれど人はまだ、いやそれ故に、歩みを休めようとはしなかった。









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