10日目

 射し込む朝日が、眠る千尋の顔をきらびやかに照らし出すことはもう無い。

 昨日、行為できたことが不思議なほど現在の千尋は透けている。敢えて透過率を言うならば、六十パーセントほどだろうか。

 触れようとしても触れられないような、そんな感じがする。

 だが、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てているところから見てまだこの世に留まっているらしい。

「ちょっとくらいなら大丈夫かな」

 一人で呟き、眠る千尋の頬を指でツンと突く。

 頬に立てた指に感触はある。だが、頬をつき向けて自分の指が透けて見えるのは違和感でしかない。

「んっ」

 ほとんど色素を失っている唇の間から声が漏れる。

 これ以上はやばい。僕の精神が保たない。

 すっと腰を上げ、開放的な体にリビングにあるタンスからTシャツとズボンを取り出し、纏う。

 服の本来の役割の一つである体温調整。全裸で過ごした後に服を着、これほどまでに違うものなのかと、服を着る重要性を改めて理解しながら、纏ったまだ真新しい黒衣の服を見る。

「んっ……。もう朝?」

 凛とした声が心地の良い朝に同調して響く。

「あぁ」

 変わらないようで微かに弱々しさを感じ取れる声を聞き届けてから答える。

「そっか。今日が……最後だ」

 ベッドから下りた千尋は柔和な笑顔とは裏腹に掠れた声だった。でも、その前に……。

「服を着ろっ!」

 いくら半透明だと言えど、あるものはある。揺れるものは揺れる。

「昨日あれだけ激しかったのに。そんなこと言うの?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべながら茶化すように言う。

「当たり前だよ。それに昨日と今とでは全然状況が違うだろ」

「体は同じだよ?」

「体とかじゃなくて、……その気持ち的にだ」

 言ってて恥ずかしくなる。

「そっか」

 ニタニタとしながら千尋は昨日と同じ下着を身につける。

「下着は仕方ないんだけど、服墓してもらえるかな?」

 そう言う千尋に僕はタンスの中からあまり着ない白とピンクのボーダー柄の服を渡す。

「こんなの持ってたんだー」

 千尋はうふふ、と笑いながらそれを着る。

 長袖のそれは幾らスタイルの良い千尋にとっても大きかったらしく、ダボダボで萌えそでになっている。そして、服が大きく長いためパンツもしっかり隠れ、代わりに半透明の綺麗な脚だけが伸びている。

 とてもいやらしい気持ちになる。

「この格好はなんか恥ずかしいな」

「やっぱりか? 僕も見てて恥ずかしい」

 二人で盛大に笑う。刻一刻と迫る別れの時など来ないかのように笑う。

 結局、白の綿パンも貸して見ているだけで恥ずかしい格好はやめていただいた。

 それから僕はコンビニに向かった。本当は二人で並んで手を繋いで行きたかった。でも、千尋は僕以外にはもう見えない。ゆえに傍から見れば一人で妄想彼女と手を繋いでいるように見られる可能性が大きい。

 だから泣く泣く一人で向かう。

 隣にいると信じて疑わなかった人がいないだけで、これほどまでに悲しく、切なく、寂しいものなのだと、初めて分かった。一人暮らしをするために家を出た時も似た感情を覚えたが、それでもやはり『帰れば会える』というのがあるのと、『二度と会えない』というのはてんとちほどの差がある。

「やっぱり悲しいな……」

 そうつぶやく言葉は隣を通り過ぎる車の音によってかき消された。

 * * *

 自動ドアが開き、それを知らせる明快なメロディーが奏でられる。

「らっしゃいませ」

 覇気のない疲れた声がかけられる。

 僕はその声を無視して、弁当コーナーに直行する。白い灯りが弁当を照らし出している。そこから強い冷気がとめどなく溢れ出てくる。

 んー、と唸りながら、のどこしの良さそうなざるそばを二つ手に取る。

 実際は僕が食べたいと、惹かれたからなのだが。

 二つ合わせて七九六円だった。

 財布から野口英世がプリントされた千円札を出す。

 店員さんは僕が小銭を出そうとしてないことを確認してから声を出す。

「千円からお預かりします」

 僕はこくんと頷き、お釣りを待つ。

「二〇四円のお返しです」

 レシートと共に渡された百円玉二枚と一円玉四枚。

 普段は絶対にしない募金という行為を、お釣りでもらった四円で行う。その四円で何か変わるわけではない。千尋がこの世にとどまれるわけではない。でも、それでも……。

 大事な人を失う怖さを知れた。だから、護れる大事な命を人を護れるようにという思いで募金をした。

 店員さんはありがとうございます、と言っていた。

 出入口である自動ドアが開く。また明快なメロディーが鳴る。

 奥からはありがとうございました、と声がかけられた。

 外へ出たら天高くまで昇った太陽がギラギラと地上を照らし出している。

 季節はずれの暑さでアスファルト舗装された道路から陽炎が立ち上がっている。

「あっちぃ」

 僕はササッと駆け足気味に家へと向かった。そして家に着いた頃には汗でびっしょりになっていた。

 * * *

「暑かったの?」

 千尋は汗で光る額に目をやり訊く。そんな千尋の様子は何かを隠すような動きをだった。

「あぁ、夏じゃねぇーのかって思うほど暑かったよ」

 そのことに触れることなく答える。

「これでいいか?」

 そう言って買ってきたざるそばを手渡す。

「うんっ!」

 千尋は満面の笑みで頷いた。

 包装の袋を取り、蓋をとる。そしてダマになった麺に水をかけ、ほぐす。

 それからついていた汁を別の容器にいれる。

「よしっ。食べるか」

 食べる準備を整えた僕たちは、テーブルに向かいあって座る。

 こうやって向かい合うと昨日のカフェでの会話が思い出される。

 泣きながら告げられた衝撃の事実。僕を襲った突然のお別れ宣告。

 そんなことを思っていることなど露知らず、千尋はずるずるとイイ音を立てて麺をすする。

 その音で現実に戻され、僕も麺をすする。

 吸い上げる麺は宙でうねり、口の中へと消えていく。

 汁の飛沫が飛ぶ。口の中へと入ったそれは汁が染み込んでいて、鼻腔をくすぐる匂いが食欲をそそる。

 千尋も絶え間ない笑顔を浮かべ、麺をすすり続けている。

 そこそこ片付けられた部屋に響く二人が麺をすする音。

 それが五分ほど続いた頃にはもう二人の容器は空になっていた。

「なぁ、最後にやりたいこととか残ってないのか?」

 僕は自分でも驚くほどしゃがれた声で訊いた。

 千尋はえっ、という声を漏らしてから少し首をかしげてうーんと唸った。

「やりたいことはないかな……。ただ……工くんと一緒に居たいかな」

 予想だにしていない申し出に僕は頬が熱を帯び、朱に染まっていくのを直感的に理解する。

「そ、そんなことでいいのか」

 自分でも驚くほど声が細く、目の前にいる千尋に届いたかすら曖昧なところだ。

「ぅ……、うん」

 どうにか返ってきた千尋の言葉も僕のそれと変わらないボリュームだった。

 二人の間に沈黙が訪れる。互いに何を話せばいいのかわからないのか、チラチラと相手を見ては目をそらしを繰り返している。

 そしてそれを打ち破ったのは僕の携帯だった。

 大いに震えた僕の携帯はLIMEが届いたことを知らせるものだった。

『よっ。この前は俺の茉莉奈の自慢ばっかで悪かった。次はお前にぴったりのいい女も連れってやるからな!』

 相手は工だった。恒例の飲み会についての内容だったのだが、僕の記憶とずれていた。

 先週の飲み会は間違いなく四人で飲んだ。いや、実際飲んだのは工と工の彼女の茉莉奈って金髪ギャルだけなんだが……。

 間違いなくその場に千尋もいた。でも、それは工の記憶にカケラも残っていない様子だ。

「どうしたの?」

 千尋が消えかかる顔に不安げな表情を刻みながら訊く。

「えっ……」

 千尋を不安にさせるような、そんな表情をしていたのだろうか。自分ではわからない。

「もしかして、私のこと?」

 察しのいい千尋の一言に顔の筋肉が一気に強張る。伝えるべきなのか……、それとも……。僕の頭の中で飛び交う言葉。どうすればいい。

「いいよ」

 そんな時、千尋は天使のような、聖人のような優しい笑顔で告げた。

「全部。教えて」

 そのすべてを受け入れるだけの覚悟を表情と言葉に乗せて僕に真摯なまなざしを向けられた。

 それを見せられてなお、弱々しく、うじうじと悩むならば、それはもう男とは言えない。僕から迷い消えた。すべてを告げる覚悟が決まったのだ。

 僕は生唾を呑み、小さく頷き口を開けた。

「この前、飲み会行ったの覚えてるだろ?」

「うん。えっと……、工くんと彼女の茉莉奈ちゃんとのだよね?」

 千尋は消えかかる自らの額を指でポンポンと叩き思い出すようにして言う。

「そうだ。僕たちは四人で飲んだ。でも、いま工からきたLIMEでは三人で飲んだような内容なんだ。僕と工とそれから工の彼女の茉莉奈って子だ」

 千尋の顔が一変して曇るのが手に取るように分かった。でも、絶望や恐怖といった感情だけでなく、覚悟のうちであるようにも捉えられた。

「そっか……」

 千尋の言葉はやはり哀愁に染められていた。でも、表情にそれはでておらず、むしろ覚悟の色が濃く出ていた。

「もうそこまで」

 千尋は小さくそうつぶやく。

「ど、どういうこと?」

 僕はその言葉を聞き逃すことなく即座に聞き返す。

「話さなきゃいけないね、ちゃんと。私のこと」

 * * *

 仕切り無しの意を込めて僕たちは食べ終えた容器を台所に移し、お湯を沸かす。お湯が沸くまでの間にインスタントコーヒーの準備をする。

 コーヒー豆を潰し粉状にした濃いこげ茶の粉を赤と青の二つのマグカップに入れる。

「ミルク何杯いる?」

 汁が飛び散ったテーブルの上を布巾で拭いている千尋の背中に問いかける。

「んーと、二杯かな」

 背中越しに返ってくる答えを無言で受け取り、赤のマグカップに二杯の白いミルクの粉を入れる。次いで、僕の青いマグカップにも二杯のミルクを入れる。

「砂糖は?」

 テーブルを拭き終え、こちらに歩みを取っている千尋に視線だけ向けて訊く。

「一杯で大丈夫だよ」

 了解、と答え赤のマグカップに一杯の砂糖を入れ、青のマグカップに二杯の砂糖を入れる。

 そして、チファールで沸かしていたお湯をそれぞれのマグカップに淹れる。

 ぼこぼこと音を立てながら入っていくお湯に合わせてマグカップの中から白い湯気が立ち上がる。

 それはそれほど高くない天井に届く前に薄くなり、最初からそこになかったかのように消えていく。

 お湯を淹れ終えるころには部屋はコーヒーの香りで満たされていた。


 淹れたコーヒーを千尋が拭いたばかりのテーブルに運ぶ。

 縦に並べ再度、千尋と向かい合うようにして座る。

「じゃあ、続き話すよ」

 不安がにじみ出たような声音で話す。それに対してかける言葉すら見当たらない自分自身をはがゆく思い、奥歯を噛みしめる。

「そんな強張らなくても大丈夫だよ。私はわかってたことだし……」

 今にも泣きだしそうな声でそう告げられる。

 僕は……、なんて弱いんだ。

「工くんが私のこと完全に忘れてたんだよね?」

 僕は返事をしようと口を開くも、喉のなかで何かが詰まったようで、うまく言葉を放つことができない。

 僕は言葉を出すことをあきらめ、代わりに頷いて見せた。

「そう……。それはね、私が消える前兆なんだよ。私はこの世ならざる者。いないはずの人間がいればそれは世界に対して矛盾が起こる原因となる。だから私の記憶は消えていき、最後には私以外この世に来た事を覚えていないって状況になるの」

 涙色に呑まれた声音で告げられた言葉は、驚きを通り越し、脳内をフリーズさせた。

「消える。千尋が、消える」

 どうにか絞り出した言葉は会話というより、ただの単語の羅列だった。

「黙っててごめんね……」

 一筋の涙が千尋の頬を伝ってテーブルへと落ちていく。

「そ、それは……、僕も含まれるのか?」

「うん。多分含まれると思う」

 これまで色んな話をしてきた。その中でも今が一番辛そうで、切なそうで、苦しそうな表情をしていた。

「こんなに長く一緒にいたのにか?」

 込み上げてくる思いに突き動かされるように、体を乗り出し訊く。

「ぅ、うん……」

 僕の瞳から大粒の涙があふれ出す。堰を切ったようにとめどなくあふれる涙が千尋の顔をゆがめる。

「私、忘れてほしくないよ。この世の誰に忘れられてもいい。でも、でも……工くんだけには忘れてほしくないよう」

 わんわんと子供のように声を上げ泣く千尋に、僕はそっと彼女の横へと移動し、ゆっくりと抱きしめた。

 半透明になってもまだしっかり温度はある。華奢な体を僕のほうに寄せる。

 千尋は僕胸に顔を埋める。

 涙のぬくもりが服にしみこみ、じんわりと温度を感じる。そこから千尋の悲しみや切なさ、それから僕への想いがひしひしと沁みこんでくる。

 そうだ、辛いのは僕だけじゃない。僕以上に千尋のが悲しいはずなんだ。だから、僕は涙を我慢しないと……。

 今にも溢れてきそうな涙をこらえ、空いていた左手で彼女の頭をなでた。

 艶のある髪が差し込む日差しを反射して煌びやかに輝いて見える。

「大丈夫だよ。僕は千尋を絶対忘れない」

 強い意志をこめて言い、目の端にたまっていた涙を左腕で拭う。

 千尋も僕の中から顔を上げ、「うん」と涙交じりの笑顔を向けた。

 * * *

「最後だって言うのにしんみりしちゃったな」

 冷めかけのコーヒーを啜りながら告げる。

「そうだね」

 赤くはれた目をした千尋が不恰好な笑顔を浮かべて言う。

「やっぱり怖いか?」

「うん、ちょっとね」

 時刻はもうすぐ一時になろうとしていた。

 差し込む日差しはより一層強さを増し、千尋はより一層薄まっていく。

「大丈夫か?」

 顔色を伺う、なんてことはできなくなった。それほどまでに薄れてしまっているのだ。故に、言葉で確認を取るしかない。

「大丈夫だよ」

 そう言う千尋だが、何もしていないのに息切れをしているあたりからして大丈夫でない。

「無理はだめだぞ。しんどいならしんどい、辛いなら辛いって言ってくれ」

 言ってもらえたところで何もできやしない。でも……、一緒にそばにいることrくらいならできる。

「うん、ありがと。でも、本当に大丈夫だよ」

 弱い笑みを浮かべてから思い出したかのように立ち上がる。そして覚束ない足取りでキッチンへと向かう。

「お、おい」

 僕もあわてて立ち上がり千尋の後を追う。

「急にどうしたんだよ」

「えへへ、最後にやりたいこと見つけて……」

 言葉に力が感じられない。もう本当にお別れが近い。

「なんだよ、最後にやりたいことって」

「えっとね、工くんと一緒にご飯作りたい。新婚さんみたいでしょ?」

 表情を浮かべることすら辛そうに見受けられる。

 でも、だからといってここで千尋を止めたりするほど僕は馬鹿じゃない。ちゃんと千尋の思いを汲み取ってやりたい。

「そうだな。それじゃあ、一緒にご飯作るか」

 鼻の奥がつーんとなり、今にも涙が流そうになるのをどうにか堪え、柔和の笑みを顔に刻む。

「ありがと」

 全力疾走した後のような激しい息遣いで千尋は消え入りそうな声を放った。

 * * *

 材料など必要なものを買いに最寄りのスーパーへ行った。できるだけ千尋といたいという思いが僕をいつもより俊敏に動かした。

 およそ四キロの買い物袋を片手にしても、スピードを衰えさせることなく、自宅へと帰る。

 暑いや汗を掻くだとか、しんどいだとか、なんてものは全部無視してただひたすらに千尋のことだけを考える。

 家に着いたとき、千尋はシンクにもたれかかるように立っていた。

 荒い呼吸をしながら僕が帰ってきたのを見ると覇気のない笑顔を無理やりに作る。

 僕はあわてて駆け寄り体を支える。

 体重を感じなくなってきており、軽木を支えているような感覚に襲われる。

「おい、千尋」

「わかってる。本当にあと一時間くらいだろうね」

 そんな体にも関わらず千尋は「お味噌かってきてくれた?」とどこか楽しそうに訊いた。

 いたたまれない気持ちになりながらも僕は「おう」と答え袋の中から取り出し、渡す。

「ありがと」

 器用に体をキッチンのあちらこちらに預けて、味噌を溶く。

 濃いオレンジ色が具の入ったお湯の中で溶け出して、薄いオレンジ色へと変わっていく。

 原色から薄くなる。消えるときの薄まりが、どうも千尋と重なり、気持ちが重くなる。

 

「ねぇ、キャベツとお肉切ってくれる? 私は、こっちでタマネギの皮むきしてるから」

「わかった」

 千尋は自分が包丁を使うといったら僕が止めるとわかったのだろう。だから自らに皮むきを割り当てたのだ。たった一週間とちょっと一緒にいただけ。それでもそれくらいのことはわかる。

 不恰好にキャベツを切る。続いてお肉を食べやすそうな大きさに切り、千尋の皮むきが終わったタマネギを切る。そして、フライパンの中にお肉を投入する。お肉がいい色になってきてからキャベツとタマネギをいれ、それらがしなやかになっているのを確認する。

「千尋、しなやかになってきたぞ」

「そ……う」

 話すことすらしんどそうだ。

 しかし千尋は体を支え、僕に歩み寄ってきてから袋の中に残っていた焼肉のたれをフライパンの中に入れる。焼肉を食べる時のいい匂いが鼻腔をくすぐる。

「完成だよ」

 弱弱しい声で告げるれる。それを聞いて、僕はそれを皿に移し、味噌汁を入れる。

 最後に昨日炊きっぱなしになっていたご飯を茶碗にいれる。

 それらをテーブルに並べ、千尋に肩を貸して一緒にテーブルの元へ行く。

 調理開始からすでに五十分以上経っている。

「さぁ。……急いで」

 表情がなくなり、ぐったりしている。

 どんな病人でもここまでぐったりするか、と思うほどだ。

 素早く手を合わせ、「いただきます」と言う。

 白米と味噌汁と野菜炒め。僕は味噌汁を啜り、野菜炒めを食べる。

 千尋の作ってくれた料理を噛んで奥の奥にある食物繊維を解いて、深く味わう。

「美味しいよ」

 心の底からの言葉を述べた。

 刹那、千尋は満面の笑みを見せた。僕はそれに魅せられた。

 そして、それを最後に千尋の体は完全に透明になり、僕の前から姿を消した。

 最後の力を振り絞っての笑顔だったのだ。僕の「美味しい」を聞いて千尋は安心したかのように逝った。

 口の中の食材を噛む度に千尋の笑顔がフラッシュバックで蘇る。

 何者にも負けない、唯一無二のスマイル。僕だけに向けられた天使の笑み。

「くっ……。うぅ……」

 涙が溢れて止まらない。今となっては遺作の料理を涙とともに口へ運ぶ。焼肉のたれがよく効いた野菜炒めが箸を休ませない。

「美味しいよ。美味しいよ、千尋」

 いるはずのない千尋に声をかけ続ける。到底返事は返ってこない。でも、言わなければならない気がした。見えないけど、声は聞こえないけどまだそこにいるような気がしたから……。

 味噌汁を飲む時、自分の涙も一緒に飲み込んでしまい塩っぱさが増した。でも、それも含めて二人の作品だ。

「美味しいよ」

 何度もそう言う。何度も何度も何度も。

「でも、できるなら……一緒に食べたかったな」

 嗚咽にまみれた声でそう放ち、僕は野菜炒めを口に運んだ。


 流れ続ける涙は枯れるまで出続けるだろう。

 成長した男が鳴くのはみっともないかもしれない。でも、それでもいい。

 そして、これだけは絶対に約束する。

 千尋が守ってくれたように、僕も絶対に守る。

 ――千尋、絶対に忘れないよ。


 * * *

 食事を終える頃になっても涙は止まずにいた。

 何で僕は泣いてるんだろ。

 土砂降りの雨に打たれた後のように濡れる顔に違和感を覚える。

「片付けなきゃ」

 泣き疲れ、重たくなった体に鞭打って立ち上がる。

「一人で食べるのに大層な量を作ったものだ」

 味噌汁の量に首をかしげながら、皿をシンクへと持っていく。

「なんだこれ」

 すると、そこには見覚えのない二つに折られた紙があった。

 止まったと思っても、どこからか水分を補給し、溢れる涙を拭い、それを手に取る。

 正体不明の涙と紙に畏怖の感情を抱きながら紙を開く。

『工くんへ。

 これを見ている頃はもう私のことを忘れているかもしれません。でも、どうか私を信じて工くんが服を入れてる棚を開けてみてください。

 千尋』

 ふにゃふにゃとした力の抜けた字だった。今どき小学生でももう少しまともな字を書くだろう。でも、そんな字でも必死に書いたんだなって言うが強く伝わり、また胸が強く締め付けれる。

 同時に、激しい哀惜に襲われ、涙がまた強く流れ出し、鼻水も垂れ始める。

 しかし肝心の千尋、という存在が誰かを思い出せない。ここに置き手紙があることから恐らく家にいたのは確かなのだ。だがそれがいつなのか。どんな関係なのか。すべてわからない。

 僕はこの置き手紙の示す場所には答えがあると判断し、置き手紙を片手に指定された棚を開けた。

 そこには白い封筒があり、上には"井上千尋"とあった。

 井上って、僕と同じ名字だ。

 そんなことを思いながらゆっくりと、破らないように丁寧に開くとそこには紙が入っていた。

『井上工くんへ。

 突然のことで驚かせてごめんなさい。多分、工くんのことだから私のこと忘れないって言ってくれると思います。でも、私は忘れられます。そういう存在だから。

 でも私自身は忘れて欲しくありません。だから、これを残します。

 まず最初に。幼少期の記憶を縛り付けるようなことしてごめんなさい。幼少期の頃を思い出そうとすると頭を締め付けられるように感じたのは私が工くんに接触したからです。

 私がこの世にいたせいで歴史が改ざんされかけていました。だから私と接触があった頃の記憶を思い出そうとすると頭が痛くなったのです。でも、もう恐らく大丈夫だと思います。本当にごめんなさい。

 工くんと一緒にいれた時間は本当に楽しかったです。本当は、ウエディングドレス着たり、結婚指輪をはめてみたり、と工くんとしたいことはいっぱいありました。でも、今はすごく満足しています。一緒に居てくれて、本当にありがとう。

 それから、ここからはお願いです。

 私のことを忘れて欲しくは無いけど、それが工くんの人生を恋愛を縛りつけるのなら忘れてください。私は工くんが大好きです。肉体が無くなり、魂だけになってもあなたのことが大好きです。

 だからと言って、工くんに私だけを愛してなんて言いません。自由に生きてください。それが……、それだけが私からのお願いです。

 楽しい時をありがとう』

 キッチンにあった置き手紙と筆跡は似てるがキチンとした字で書いてある。

 キッチンでみつけた置手紙とタンスの中にあった手紙の間で《井上千尋》という人物の身に何が起こったのかは分からない。

 でも、この手紙は確実に僕の心を揺れ動かした。強く脳が揺れるように感じる。そして記憶の奥にある何かを揺さぶり、悲しみをこみ上げさせる。

 この思いは一体何なのか、分からなくなり、手にしていた封筒を握ろうとした瞬間、まだ何か残っている、と感じさせる分厚さを手が覚えた。

 僕は恐る恐るそれを取り出した。カラー写真だ。

 いつ撮ったのか分からないが、間違いなく水族館で撮ったものだろう。

 映るのは美しい一人の女性とカクレクマノミだ。

 自撮りしているような映りだ。一人で行ったのか?

 そんな疑問が頭に浮かぶ。

 ぼんやり灯る水槽の光が手紙の主である井上千尋という人物の顔を明るく写し出す。

 薄手の白の長袖にホットパンツ姿というお洒落というにはほど遠いものではあるが、大きな漆黒の瞳に長い睫毛、筋の通った鼻、あらゆる素材がパーフェクトに近い整った顔をしているせいかそんな服装でも完璧に見える。

 この人が……井上千尋さん? そう思った瞬間だった。

 頭に締め付けられるような痛みが走った。それは止まることなく、連続的に締め付け、次第に締めが強くなってくる。

「な、なんだ……っ」

 両手で頭を抱え込むように抑え込む。しかし、痛みは強さを増すだけだ。

『ねぇ、工くん』

 知らない声が頭を駆け抜ける。知らないはずなのに心が満たされ、安らぎを覚える。

『ごめんね』

 次から次へと溢れ出てくる謎の女性の声。優しく柔和な声で僕の心に沁みこんでくる。

 知らないのに知ってる。そんな不思議な感覚に襲われる。そしてもう一度写真を見る。

「ち、千尋……」

 自然と名前が口から零れる。

 その名を口にした瞬間、頭の中に数多の映像が流れ出した。

 大学図書館で会って、回転寿司に行ったこと。一緒に水族館に行ったこと。工たちと飲みに行ったこと。一緒の夜をすごしたこと。全てが一繋がりの映像となって、気づかなかったぽっかり空いた記憶の穴を埋めていく。

「千尋……。千尋、ごめん。忘れねぇって言ったのに。僕……」

 込み上げてくる涙の理由はこれだったんだ。彼女の記憶は消せても心の深層部の彼女への想いは消せないんだ。

 紅の夕陽が零れる涙を反射する。その光が部屋中に広がる。悲しみの色で満ちた部屋で僕は大人気もなく、声を上げて盛大に泣きわめいた。

 * * *

 千尋の消滅からもう一週間経った。僕はまだ千尋のことをはっきりと覚えている。顔も声も、全部だ。

「なぁ、この前紹介した子たちレベル高かっただろ?」

 千尋といた頃はよくサボった学校にもキチンと行っている。そして隣には山上工がいる。

 あの時のLIMEの言葉通り前回の飲み会は合コン状態になっていた。しかし、どんな子がいたかすら覚えてない。

 千尋の手紙には『自由に生きてください』ってあったけど、やっぱりこんなすぐには恋なんてできないし、千尋を越える逸材なんて会えそうにない。

「そうだな」

 でも、せっかく集めてくれた工に悪いので話を合わせる。

「それでな、幕田友香って子がお前のこと気に入ったんだってよ」

 興奮気味に言う工。だが、顔も全然思い出せない。

「幕田友香ってどんな子だっけ?」

 工は目を丸くする。

「おまっ。冗談はよし子さんだぜ?」

「それ古いよ」

 一瞬の笑いが起こるもすぐに静まる

「幕田さんはよ、この子だよ」

 飲み会もとい合コンの最後に撮った写真を取り出して見せる。

 ウェーブのかかった栗色の髪が肩甲骨あたりまでのびている。

 焦げ茶色の双眸が優しい色の光を放っている。

 すらっとした細身の彼女。どこか千尋を思わせるが、やっぱり千尋には勝てない。

「ごめん、今はいいや」

 すぐに新しい女なんて、千尋に顔向けできない。今でも思い出せる別れ際の満面の笑みは、どんな子よりも魅力的だ。

「えっ、マジかよ。連絡先くらいいいんじゃねぇ? って言っちゃったよ」

 人の連絡先だぞ。プライバシーとかあるだろ。

「ごめん。いま恋愛する気になれないから。保留ってことにしといてくれ」

 やっぱり千尋のことがまだ忘れられないしな。僕は席を立ち、「じゃあ」と言って立ち去った。

 最後の講義を終えた僕は自宅へと向かう。

 照らし出す茜色が僕の頬を染めていた。

 * * *

 家に着いた僕は一番にテレビの横に置いている千尋の写真の前にいく。

「ただいま」

 手を合わせてそっと呟く。

 いつまでも覚えておくつもりでいる。でも、それが本当に永遠に続くかは分からない。いつかはお別れが来るかもしれない。でも、その日が来るまでは――

 変わらない笑顔を向ける写真の中の千尋に僕はいつも通り告げた。

「好きだよ」

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僕が過ごした君とのキセキ リョウ @0721ryo

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