終わりの始まり
大野 朝
終わりの始まり |完結
まったく、なんてことだ。喉は渇いたし、腹も空いている。最後にものを食べたのをいつだっただろう。いやいや、そんなのはもういい。
ものすごく怠い。何かをまともに考えることさえ億劫でたまらない。足が重い、頭も痛い。耳が痛いのはさっき飛びつかれたときに切れてしまったのだろうか。空腹と、怒りと、焦りと、なにやらいろんなもので、思考もまとまってくれない。この体も馬鹿なものだと自嘲する。血は止まっているようで、引きつるような痛みが続くが治療するのも面倒なので放っておくことにする。
ずいぶんと前に日が暮れた。よろよろな体で無茶をして、挙句に更にぼろぼろになって。一体何をしているのか。横腹の傷もなんだかじくじくと痛む。
「あぁ、いてえ」
自業自得としか言いようがないが、八つ当たりでもしたい気分だ。
住んでいた場所を追い出されたのは三月
みつき
ほど前だったか。時間の感覚がよくわからないが、たぶんそのくらい前だったはず。
それまで惰性にぐうたらと過ごしていただけの毎日だったために、ここ三ヶ月間、食事や寝床を獲得するのは極めて困難だった。元々そこの地が、夜になると目をぎらぎらさせて、ケンカをしているような奴らの溜まる場所であった所為かもしれない。引きこもりがちだった奴がいきなり町を徘徊すれば、お決まりの「俺のテリトリーだぜ、そこはよお」なノリの奴らに囲まれて、傷だらけになるのは必至。
当然、逃げた。
安全だと自信を持って言えるような場所でないと、きっと軟弱な奴は生きていかれない。自分がその軟弱な奴だというのをわかっているから、町を出ようと決心するまでは早かった。
だがしかし、安全地帯を見つけ出すだけでも目前には苦労しかなく。いや、そんなもんじゃない。幾度死ぬかと思ったか。行く先々でケンカ、ケンカ、ケンカ。待て待て、箱入りはそんなに丈夫にできていないんだと言っても聞く耳を持つ奴は存在せず、弱い奴はまたしっぽを巻いて逃げるしかない。逃げても怪我は負うし、腹も空くばかりだが相手をすれば死んでもおかしくない。それだけはさすがに避けたかった。
腹の傷をえぐられるような思いをしたのは確か二日くらい前のこと。そのときも同様、腹が減っていた気がする。傷がふさがる前にケンカ(あくまでも一方的)をしては、治るものも治らないのが道理だ。
足取りは既にあやしく、右へ左へよろよろと進む。どこに向かっているのかは自分でも定かではない。とにかく、足が動くなら動くだけ進んでしまえ。
力尽きるのはすぐだった。ゴミ捨て場でもあれば、漁って食えそうなものを探すのだがそれすら見つからない。崩れるようにその場に倒れ込む。コンクリの道の端の方。じめじめしていた。これは、と覚悟を決めるか否か悩んでいたとき、ふいに汚いこの体をすっぽりと影が包むように覆いかぶさってきた。
持ち上げられるような感覚。久々だった。
知らない匂いをしたそいつは自分の手についた血を見て、少し身じろいだ。
「おまえ、死ぬの?」
さあな、と鼻で笑ってやったら、目の前に迫った髪の毛に埋もれたでかい顔も笑った気がした。もうどうでもいい、どうにでもなれ。思ったとたんに思考はブラックアウト。まったく、簡単な体だ。
気がついたら、体の重さは変わらなかったが少し暖かかった。知らない匂いで満ちている。警戒していると動く気配があったので首を巡らせた。
「目、覚ましたんだね」
髪の毛はもっさりと目元を隠していた。この体を持ち上げた、でかい顔の奴だ。その手にはなにやら白い皿。
「おい、ここはどこだ。おまえなんなんだ」
どれだけ言葉を浴びせかけても、何も答えない。そいつはしゃがみこみ、手に持つ皿を目の前に置いた。ぐっとのぞき込めば、そこには久々にお目にかかる食べ物。この体の怪我を見てか、やわらかく崩した「お腹にやさしい」それだった。奴を見上げれば、首をかしげて食えと促してくるので、様子をちょっと見てから我を忘れるかのように貪りついた。しばらくするといつの間にやら横にはミルク。喉もからからに渇いていたのを思い出して飲み干す勢いで器に飛びつく。
奴はずっと目の前に座り込んで、器の中身がなくなるまでじっとしていた。傷が手当てされているのに気がついたのは、すっかり腹が膨れた後でだった。
「おまえ、一体なんなんだ」
すっかり食べ終えて満足してから、もう一度同じ質問を浴びせかけるとそいつは笑った。一度目とは少し違う笑い方だった。でかい顔の奴らは「うれしそうな」と形容するようなものなのかもしれない。
そいつは俺の問いについぞ答えることをしなかった。
仕方なく今いる場所を観察していると、奴は部屋の窓から外へ消えていった。奴らにしたらそんなまね、危ないだけじゃないか。思ったが、なんだか気になってその後を追った。勢いをつけて窓の桟に飛び乗る。自分で思ったよりも身軽に動けた。
「おい」
声をかけたところで、奴は振り向いた。窓から出ればすぐに屋根になっていたようで、そこに座り込んでいた。
「こっちくる? 気持ち良いよ」
言葉の通り、緩やかな風がこの汚れた黒い毛だまりを撫ぜた。寒くはなかった。
そいつの横に移動して真似をするように座り込めば、小さく笑ったような気がした。見上げれば、奴も同じように見上げていて、視線の先を追ってみればあるのは空だけだった。夜明けはまだのようだ。
「おまえ、人に慣れてるんだね」
「まあな」
「どこかで飼われてたの?」
「……まあな」
ふいにそいつが俯いてじろじろと見てきた。居心地の悪さに、引っ掻いてやろうとかと思ったがやめておいた。こんなところで無駄に体力を消耗するのは頂けない。実に、頂けない。思いとどまる。
手が伸びてきてもじっとしていた。喉や耳裏を撫ぜるのが気持ちよくて、思わず喉を鳴らした。これも久々のことだった。
「首輪、ないんだね。ノラにしては人慣れしてるし……。捨てられちゃった?」
楽しげに言うことじゃないだろうに。ふん、と鼻を鳴らすと奴はまた笑った。何がおかしいのかわからない。
ただ笑った声の隙間で、じゃあ俺とおんなじだね、と漏らした。どこまでも、理解しがたい。
その後しばらく、そいつと空を眺めていた。星が、光っていた。隣の奴の目には俺のものよりいくらか、くすんで見えているのだろうか。人間というものは、夜はあまり目が見えないんだそうな。鳥と同じだって少しの間一緒に暮らしていたじいさんが言っていた。
星の隙間を見て思う。こいつの隣は危険がない。ここが安全な場所であるのだろうか。痛い思いも腹が空いて死にそうな思いも、しなくて済むのだろうか。こいつの側にいれば。
気付けば視線は奴へ移っていた。奴も俺が凝視していたことに気がついたのか、多い前髪の間から細い目がこっちを見返していた。交し合った視線が動くことはなくて、奴は何を見出そうとしているのかその目はまじだった。そしてまた口を開く。
「ここにいるかい?」
その目がまた変わった。そうかこいつは。
「寂しいのか」
「……寂しいのかもしれない」
同時に発した言葉は、ぶつかることはなかった。すっと傷だらけの耳に馴染んだそれは、背中を押した。
「仕方ねえなあ」
ああ、そういえばこいつはこっちの言葉がわからないんだっけか。なんだか気にならなかったから、忘れていた。だったらしょうがない、とそいつの足に纏わりついて頬を当ててやる。奴は笑った。それは奴らが「たのしそうに」と形容するたぐいのものだろう。それも思ったほど耳に不快に響きはしなかった。
笑い声を聞いていると不意に目の端に光がうつった。
「あぁ、ほら見て。夜が明けた」
「これをおまえらは朝焼けとも言うんだろう?」
「きれいだね」
「……そうかもなあ」
眩しいことこの上ないが。
まったく、なんてことだ。思ったよりも早くこの放浪記に終わりがきてしまった。全く予想のしてなかったことだ。だが、悪くはない。
朝焼けが終わりも始まりもかねるなんて、乙な話だ。
終わりの始まり 大野 朝 @asayake
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