逃走記

きか

第1話

 さと子は今日も僕のご飯を忘れている。

 空腹で眩暈を起こしそうになりながら、僕は心の中で大きな葛藤とともに、かなり前に与えられた萎びたキャベツの葉が、まだ食べられるかどうか、検討を始める。

 ……駄目だ。もう匂いがおかしい。

 非常食用にいつも少し食料を残すようにしておくのが僕の習慣にはなっているんだけど、このところ、買い置きしていたペットフードが切れてしまったのか、何日か置きに与えられたご飯は生野菜ばかりで、蒸し暑い気温のせいもあってか、日持ちしないですぐ駄目になってしまう。

 僕は少しだけ溜息をつくと諦めたように首を横に振り、じっとさと子の姿を見つめる。

 余談だが、さと子は可愛い。

 光に透けて金色に輝く、ふわふわロングの髪の毛に、きめの細かい白い肌。多少舌足らずな発音でしゃべりかけてくるものの、声は柔らかく、耳に届く音も心地いい。時折僕に伸ばす、すらりとした指先に、最近凝っているのか、綺麗な意匠の、赤色と蝶の模様のネイルアートが目に映る。長い睫毛が頬に影を指し、その下で動く淡いピンク色の唇を、いつも僕は興味深く眺めている。

 そんな可愛いさと子は確かに僕の自慢の飼い主だけど、こんな時だけは、何で僕の飼い主はさと子なんだろう…、と少し哀しい気分になる。

 ねえ、さと子。

 テレビなんて見ていないで、僕のことを思い出して。

 銀色の檻の向こうに見えるさと子の後姿に、さと子は気付かないままだけど、ひたすら僕は呼びかける。

 お願いだよ。

 お腹が減りすぎて死にそうなんだ。

 このままじゃ、僕はもう……。

 ねえ、さと子。

 お願い。僕に、食べ物を……。



 とりあえず、与えられたニンジンをがつがつと食べる。

 頭に置かれたりゅーちゃんの手は不快だけど、こんな時だけは、我慢しなくちゃ。

 りゅーちゃんは軽いウエーブのかかった茶髪に、首下には金のチェーン掛けていて、そこそこ日に焼けた肌で、自分ではかっこいいと思っているのかわからないけど、全然似合ってない、流行のブランドの服を着ている。

 テレビとかで見る、いかにも今時の若者って感じ。個性っていうものがお前にはないのかと、いつも僕は腹立たしい。

 さと子もどっちかっていうと今時の女の子って感じではあるけれど、そこはかとなく、彼女にはりゅーちゃんなんかじゃ足元に及びもつかない品がある。育ちの良さ、とか呼ばれるものなんじゃないかな? さと子のおっとりとした雰囲気に、それはとても似合っていて、見ていてほんわかとした幸せに浸れる。

 ところで、ここまで書いたらかなりバレバレだと思うけど、僕はりゅーちゃんが嫌いだ。

 一宿一飯の恩義では、とても紛らわせないくらい、それは根深いものでもある。

 まあ、実際には一宿一飯の恩義どころではなくて、りゅーちゃんがいなかったら、僕はまず間違いなく生きていなかったような気もするけど、それは言わないお約束で。

 だって、美人のさと子が、りゅーちゃんのなんかの彼女というのがまず気に入らない。

 ひがみ根性丸出しだね、といわれると確かにそれまでなんだけど、僕にもさと子の彼氏に対する理想というものがある。

 まず、将来に対する安定性が窺えて、知性がそこはかとなく見え隠れし、時折ではなくて、毎回僕へのご飯を忘れてないか、ちゃんとさと子に確かめてくれる人間がいい。

 ……そうすれば、僕もひもじい思いをしなくてもすむし。

 でも本当は、僕だって、分かってないわけじゃないんだ。

 さと子が僕だけのものじゃないのに拗ねて、僕は腹立たしい思いを抱いているだけで、大切なのはさと子が幸せかどうかってこと。

 だけど、理性では理解できても、感情がついていかない。

 僕はだからいつもりゅーちゃんに会うたびに、複雑な思いに襲われる。

 一番近いのが、娘を持ったお父さんの感情だろう。

 せめてりゅーちゃんが、もう少ししっかりしていてくれたらなあ……、そんなことを考えて、僕は食事の合間に隠れて少し溜息をつく。

 僕の食事風景を見て「うわ、さとっち! メッチャ食ってるよ、こいつ」とか驚いてる場合じゃないって、本当に。

 ちゃんと分かってるんだろうか、りゅーちゃんは。

 ……心配だ。

 最後に、僕の自己紹介をしなくてならないだろう。

 僕の名前はミミちゃん二世。

 現在さと子に飼われている、推定一歳のウサギである。



 ところで、僕の名前に二世という文字がついているからには、じゃあ一世はどうしたの? いないの? と皆さんも思ったりしてるんじゃないだろうか?

 僕も、そこはかとなく二人の会話を聞いていて、いたんじゃないかな、とは気づいてる。でも、さと子のとこに来て別のウサギにあったことはないから、どこかに行ってしまったことは間違いない。

 僕の中で一世は、さと子の元で修行を積み、立派な介護ウサギとして働いていることになっていた。その訓練された愛らしさで、積極的にいろんな人たちの心の傷を癒し、みんなの尊敬を集めているんじゃないかな。そう信じているんだけど。

 だから、一世のことを考えると、僕もしっかりしなきゃと、いつも身を引き締める。

 さと子がこう頻繁に僕のご飯をやり忘れたりするのも、僕に逆境に強いしっかりとしたウサギになって欲しいからに違いがなくて。きっと僕を試しているだけなんだ。僕はそう思ってる。

 だって、さと子は僕が大好きだし、僕だって、さと子のことが大好きだ。初めて出会ったときからずっとずっと。

 だから、一世からミミちゃんの名前を受け継いだ僕は、どんなことからも、さと子を守るつもりでいる。名前と一緒に使命として、さと子への思いも、しっかりと受け継いだつもり。

 そうだよね、と僕は無言でさと子に問いかける。

 さと子は泣き虫だけど、泣いている時でさえ、僕の毛皮に触れると少しだけ泣き止んで目を細める。

「耳ちゃんだけは、誰がいなくなっても、あたしの味方だよね」

 そう言って僕に確認する。

 僕はそうだと言いたくて、さと子の指先に鼻を寄せる。

 そうすると、さと子は嬉しそうに僕を撫でる。

 僕はその瞬間、胸がいっぱいになり、思わず泣いてしまいそうになる。

 僕がさと子を守るんだ。

 そんなことがあるたび、僕はその言葉を胸に刻む。

 りゅーちゃんなんかには任せておけない。

 大好きで大切な僕のさと子。

 絶対に絶対に、僕が守ってあげるんだから。



 それにしても、りゅーちゃんとさと子は、特に理由がないように思える時でも、頻繁にどたばた劇を繰り広げる。

 見ているほうとしては、何でそんなことで毎回大騒ぎできるんだろう? と本気で不思議に思ったりもするのだけど、きっと、りゅーちゃんが大人げないのがいけないんだ、僕はそう思うことにしている。

 だから、今日も朝からりゅーちゃんがやってきて何か慌しくしていたのにも、僕は少しも動じず、全くりゅーちゃんはこうやっていつも問題を持ち込んでくるんだから、と苛立たしい気分でいるだけだったのだ。

 それなのに、いつのまにか僕は移動用のケージに入れられ、どこかに連れられていこうとしている。

 一体僕までつれて、どこに行こうっていうんだろう?

 さと子は車に乗るといつもすぐに眠ってしまうから、今日もりゅーちゃんの隣の助手席で可愛らしく寝息を立てている。僕はそれを後部座席から眺めながら、つらつらと暇に任せて考えを続ける。

 秋になってしまったから、どこかに紅葉狩りにでも行くんだろうか? でもそれだと、僕も連れて行くっていうのが、いまいち良く分からない……。

 でもそんな風に、漠然と形を成しつつあった僕の疑問は、りゅーちゃんの運転の荒さを身体で感じていくにつれ、頭の中から消え去ってゆく。

 カーブで車体が揺れるたび、こんな運転を続けられたら、さと子が目を覚ましてしまうんじゃないか、頭とかぶつけて、さと子が怪我をするんじゃないか、という不安に押しつぶされ、はらはらし通しで心休まる暇がない。

 だから、ようやく目的地にたどり着いた時、僕は精神的な疲れのせいで身体中がぐったりしていて、僕まで一緒に連れてこられた理由なんて、正直どうでもよくなっていた。

 ……きっといつものように、りゅーちゃんが気まぐれを起こしただけなんだ。

 投げやりに結論付け、僕が疲れから脱力している間、りゅーちゃんは青空の下、白い煙を漂わせている。

 りゅーちゃんが携帯灰皿に灰を落としながら、とりあえず車外で一服している最中に、さと子もようやく目を覚ましたようで、背伸びをしながら強張った身体をほぐし始めた。

 空は青くて、それほど寒くもなく、僕はお腹も減ってなくて、平和だなあ、としみじみ思う。

 そう、多少のイレギュラーがあったって、ここまでは僕にとって、いつもの延長に過ぎなかったのに。

 何であんなことが起きちゃったんだろう?

 しばらくして、さと子とりゅーちゃんが、僕の入ったケージを持ちながら、ふらふら二人で道を歩きだす。

 僕の左側を歩いているさと子は、女の子だから歩幅が狭く、しかもおっとりしているタイプだから、りゅーちゃんのペースについていくのに、真剣な顔で一生懸命歩いている。でも、そんなことにはりゅーちゃんは気付かず、あたりをふらふら見渡しながら自分のペースで歩き続ける。

 僕は、もう少しゆっくり歩けばいいのに、と僕の真上にあるりゅーちゃんの右手を、多少恨みがましい思いで見つめた。

 りゅーちゃんはマイペースな人間で、こうして時折、さと子に対する気配りを忘れてしまうんだ。

 今だって、さと子はりゅーちゃんと手を繋ぎたくて左側に駆け寄ったのに、何を思ったか、りゅーちゃんは「なに?」と怪訝そうにして、僕を左手に持ち替える。

 おいおいりゅーちゃん、そうじゃないだろ!

 言葉がしゃべれたらいいのにと思いながら、心の中でりゅーちゃんに対して突っ込みを入れる。

 これじゃあ、あまりにもさと子が可哀想だよ。

 なんだかなあ……。ほんとにりゅーちゃんは、どうしてこんな風なんだろう。

 僕は目の前を横切る鮮やかな黄色い銀杏の葉っぱを眺めながら、僕はやるせない気持ちになる。

 でもさと子は、こんなりゅーちゃんが好きなんだよなあ……。

 いつも思うけど、世の中ってやっぱりよく分からない。

 僕はその言葉をしみじみと噛み締める。

 そうこうしながらいつの間にか、さと子とりゅーちゃんは目的地にたどり着いたようで、人目に付きにくい、四方を木に囲まれた、森の中ともいうべき風情の場所で、二人そろって足を止めた。

 二人の足元には様々な色の落ち葉がふかふかに積もって、その上には今もまだ、はらはらと落ち続けている木の葉が、幾重にも層を織り成している。

 あの下には真っ黒な地面があって、それもまたやわらかくて気持ちいいんだよな。

 僕が徒然とそんなことを思っていると、さと子とりゅーちゃんは辺りをきょろきょろ見回して「ここでいいんだっけ?」「えー、あたしじゃ分かんないよ。あの時ここでいいじゃんって言ったのりゅーちゃんなんだから、りゅーちゃんがちゃんと覚えてなきゃダメじゃん」みたいな会話を繰り広げてる。

 どうやら、さと子とりゅーちゃんはこのあたりのどこかで、「何か」を行ったようだ、と僕は見当を付ける。その「何か」が何なのか、僕には良く分からないけど、りゅーちゃんとさと子はその場所がはっきり分からなくてどうやら困っているらしい。

「だいたいりゅーちゃんは、いつも行き当たりばったりなんだから。ちゃんと自分で決めたことぐらい、自分で責任持つようにしようよ」

 さと子がりゅーちゃんにむかってちょっと怒ったようにそういうと、りゅーちゃんも少し拗ねたようにして、反論する。

「だってあの時、俺、まだ車持ってなかったから、電車乗ってここまで来て……。それでさと子が『疲れた、もうこれ以上歩けない』って半泣き状態だったから、ここにしようって決めたんだったじゃん。ここに来たのだって、さと子が『どうせなら広くて綺麗な公園にしようよ』って言ったからだったろ?」

 さと子はそれを聞いて「ひどい! りゅーちゃん、全部、あたしのせいにするんだ」とそう言って、りゅーちゃん以上に、すごく拗ねた顔をした。

「だって、ミミちゃんがゆったり眠るためには、広くて綺麗なところがいいって思ったんだもん。ここまで来るのがあんなに疲れると思わなかったけど、ミミちゃんのためにあたし一生懸命頑張ったんだよ。なのに、どうしてりゅーちゃん、そんなこと言うの? りゅーちゃんはミミちゃんのお墓なんて、最初から、どこでもいいって思ってたんだ。あたしに向かって調子のいいことばかり言って、りゅーちゃんはミミちゃんがどんな目に遭おうと、全然気にしない人だったんだ」

 相変わらず可愛らしいながらも恨みがましい目つきでそう言ったさと子に、りゅーちゃんは大きく溜息を吐く。

 僕は、さと子とりゅーちゃんとの会話の中で繰り返される「ミミちゃん」という単語に、えっ、僕のお墓? 何で? と不思議に思うばかりだったんだけど、しばらく二人の会話を聞いているうちに、あっ、そうか、二人の会話で出てくる「ミミちゃん」っていうのはきっと、一世のことなんだ、と気が付いた。

 それでようやく分かったんだけど、僕が介護ウサギになっているとばかり信じていた一世は、もはや既にこの世におらず、このあたり一帯のどこかのお墓で、安らかな眠りについているらしい。

 ああ、そっか、その場所がどこか分からなくて、それでさと子とりゅーちゃんは言い争いをしているんだ。

 僕としては、一世が死んでしまっていたということは、まさしく寝耳に水の話で、実際もっと驚いた方がいいんだろうな、とは思ったんだけど、なんというか、二人は大丈夫なのか、激しい口喧嘩にこのまま発展していかないか、そのことにばかり気が向いて、一世について考えるのは後回しにしてしまう。

 僕は勿論、さと子の味方だ。

 だけど、さと子の言い分が明らかにさと子よりで無理があること、僕にだって分からないわけがない。

 だからこのまま、話がねじれて悪い方向に向かわないか、心配になってしまうんだ。

 案の定、りゅーちゃんは無表情で喋り始めた。

 りゅーちゃんが本気で怒った時、りゅーちゃんはいつも怒っていることを隠そうとして表情を凍らせ、能面のようになってしまう。

「ねえ、さとっち、俺が本当に、ミミちゃんなんてどうでもいいと思ってたって信じてんの? それってすごくひどくない? そんな風に思ったこと、俺、本当に、一度もないから。大体、俺にひどいひどいって言ってるけど、さと子が殺したんだろ、ミミちゃん。俺、二世死ぬの嫌だから、ご飯食べ忘れてないかチェックしてるし、気に掛けてるよ。むしろさと子のほうが、ミミちゃんに対して、愛情が足りてない気がするんだけど。ねえ、さとっち。ミミちゃん死ぬのそんなに悲しいなら、どうしていつも、ご飯やるの忘れるの? ご飯食べなきゃ、死ぬんだよ。そのことちゃんと分かってる? 悲しい悲しいって言いながら、ご飯あげるのをいつも忘れる、さと子のほうがおかしいよ」

 りゅーちゃんの声が耳に届く。

 二人とも、喧嘩はやめようよ。どっちにしろ、僕は生きてるんだから、もうそれでいいじゃない。りゅーちゃんの言っていることは正しいけど、さと子に向かって言い過ぎだよ。さと子だって、一生懸命やってるんだ。

 僕は泣き出しそうな気分で、ケージの中をぐるぐる回りながらりゅーちゃんの話を聞く。でも途中、何かとても間違ったことをきかされたような、すごく変なことがあったような、そんな漠然とした違和感を覚え、一度立ち止まり、りゅーちゃんが何を言ったのか、もう一度ゆっくりと考え直す。

『さと子が殺したんだろ、ミミちゃん一世』

 さと子が一世を殺した?

 りゅーちゃんは一体何を言っているんだろう。

 さと子は二世である僕を、こんなに可愛がっているんだよ? 一世を殺したなんてありえない。

 ねえ、さと子も何か言い返してよ。りゅーちゃんのバカ。だからバカバカ言われるんだよ? そんなわけないじゃん。りゅーちゃんたらほんとバカ。なんでそんな勘違いしちゃったの、って。

 僕は期待を込めて、さと子のいる方向をじっと見つめる。なのに、さと子は何故かりゅーちゃんに怒って、

「ひどい、りゅーちゃん……。あたしのこと、ずっとそんな風に見てたんだ……」

 傷ついたようにそう言ったんだ。

 ……嘘だよね?

 さと子も、りゅーちゃんも、嘘をついたに決まってる。

 でも、そう決まってるはずなのに、二人はあくまでも自然で。喧嘩していること以外は普通すぎるほど普通で。何か齟齬が起こっている気配すらなくて。

 心は少しも認めていなかったのに、長年使い慣れた僕の頭は、二人が言っていることは多分ぜんぶ本当なんだと、簡単に結論を出してしまった。



 あの日を境に、僕は自発的にご飯を食べることをやめた。やめたというより、実際は、食べ物を口にするができなくなった。食べようとしても、ご飯が喉を通らないんだ。

 さと子はいつも僕のご飯のことなんて忘れてるから、僕の異常になんか気付いてないと思って安心していたのに、流石に二三日、檻の隅で蹲り続けている僕の様子に、いつもと違い、どこかおかしいと感じたらしく、「ミミちゃん一体どうしたの?」と心配そうに檻の中を覗き込んできた。

 そして、しばらく僕の様子をじっと眺めて、「どうしよう、病気なの?」と躊躇いながら、一つしかない扉を僕の前に開け放ってしまったから、僕はその隙に、一目散に、さと子の目の届くところから、逃げ出すことに成功する。

 さと子は目を見開いて僕が逃げてゆくのを呆然と見送った後、僕が姿を完全に隠した頃にようやく事態を把握して、「ミミちゃん、どこ!」と大慌てで僕の姿を探し始めたようだった。

 僕がこんな風に逃げてしまったことで、さと子は多分、すごくオロオロしているじゃないだろうか。さと子はきっと、困ってる。それなのに、僕は今日に限って、さと子を安心させるためにさと子の前に出て行かなければなんて、少しも思いやしなかった。

 自分でも、そのことに対して、罪悪感がないことに驚いていた。悪いと思わないと言えば嘘になるけど、でもそれ以上に、どこまでも、どこまでも、僕はさと子から逃げ続けたいと願っていた。

 だってそうしたら、本当のことを、いつまでも先延ばしにしていられるじゃないか。

 今、部屋の中ではさと子が「ミミちゃん」と、僕の名前を呼ぶ声がする。少し前までなら、それに多少の誇らしげな気持ちを感じながら、急いでさと子の下に駆け寄っただろうに。僕は今、さと子の声を聞くたびに、がたがたと身体が震えだす。さと子を心配させるのは嫌だけど、同時にさと子がとても怖くてたまらない。

「ミミちゃん……」

 勘違いしないで。お願いだから。さと子は好きだよ。大好きだ。その気持ちは絶対で、きっとずっと変わらない。でも、僕はさと子がどんな人間だったか分からなくなって、さと子のことが好きなのと同じくらい、怖くなってしまったんだ。

 ねえ、さと子? どうか僕に教えてよ。

 さと子は一世を殺したの?

 さと子にどうしてそんなことができたの?

 さと子はそんなことができる人間なの?

 お願いだよ、さと子。お願い僕に答えてよ。

 さと子はいつか、僕も殺すつもりなの?

 ……僕はそれが怖いんだ。

 さと子は僕のことが好きなのに、僕もさと子が好きなのに、僕を殺せてしまえるの?

 僕はさと子がそんな人であって欲しくない。

 僕の知っているさと子は、身も心も、誰からでも愛される、綺麗な人でなくっちゃいけないんだ。

 ねえ、さと子。僕はさと子が大好きで、何があってもさと子を守ろうと決めてたよ。別に、僕の勝手な思い上がりでも全然構いやしなかったんだ。そんなことは重要じゃなくて、さと子が僕を必要としていて、僕もさと子が必要で、僕が守りたいと思ったから、さと子の傍にいたかったから、さと子を大切にしたかったんだ。

 ……でも、こんなこと、予想もしてなかった。

 さと子が僕を好きだと感じていたのは、僕の一方的な思い込みで、さと子が僕に注いでいた愛情というのは、僕だけに対してではなく、さと子のペットであるウサギに対してなされたものだったんじゃないか?

 もしかすると、僕はいくらでも取替えのきく、数ある代用品の一つに過ぎないのかもしれない。

 ……怖いよ、さと子。

 さと子は笑って、僕のことを殺せるのだろうか? そして僕のことなんてすぐに忘れて、また新しいペットのウサギを飼い始めるのかな?

 僕は隠れたまま、さと子の声に耳を傾け、そして思う。

 お願い僕に気付いて。

 僕はここにいるんだよ。

 絶対に見つかりたくないという考えとどうしようもなくさと子に見つけて欲しいという願い、その二つのちょうど隙間におちた状態で、僕はさと子に呼びかける。

 さと子、さと子はきっと、僕を見つけてくれるよね?

 僕は他のウサギとは違う、れっきとしたさと子のミミちゃん二世なんだから。ずっと長い間一緒に過ごした、さと子の特別なウサギなんだから。

 だからお願い。

 ……僕は世界中で僕一匹しかいないんだよ。僕は世界で一匹だけなんだ。

 そのことが、僕は他の誰でもない、僕の好きなさと子に対し伝わっていてと、どこでもない遠いなにかに僕は祈った。



 何時間もさと子と僕のかくれんぼは続けられて、あの時喧嘩して以来、しばらく連絡をとっていなかったりゅーちゃんに、さと子はSOSの電話をかける。

「ミミちゃんが檻から逃げ出して、どこからも出てこないの。ねえ、りゅーちゃん、あたし、どうしたらいい? ミミちゃん見つからないよう……。このまま、ずっとミミちゃん見つからなかったら、ミミちゃん、きっと干からびて死んじゃう! ミミちゃんが死んじゃうなんて、あたしヤダ! ねえ、どうしよう……、りゅーちゃん。あたし、どうしたらいい? どうやったら、ミミちゃん見つかる?」

 さと子は喧嘩の最中でも困った時には必ずりゅーちゃんに電話をかける。だからこれはやっぱりいつもの見慣れた光景で、僕は自分がさと子のところから逃げ出しても、いつもどおり日常が続いているという事実に、言葉にできない複雑な気持ちを抱く。そして、喧嘩してても用事があっても、りゅーちゃんは遅れてでも必ずやってきて……。

 今回も、りゅーちゃんはやっぱりりゅーちゃんで、今こうしてここにいる。

 りゅーちゃんはベッドの奥で縮こまる僕を見つけて、「こっち来いよ」とか声をかけてきたけど、僕がそのままじっと動かないでいるのを見て一つ大きなため息をつき、さと子に「ミミちゃんいたよ」ととりあえず声をかけた。

 さと子はそれでも半泣きで、「どうしよう、ミミちゃんが反抗期に入っちゃった」とか相変わらず見当違いな発言をしてる。それをりゅーちゃんは「大丈夫大丈夫、反抗期って誰でも一度は通る道だから。ほら、俺とかも死んだりとかしてないじゃん? 反抗期では死なないって!」と慰めてて、僕は違う意味でちょっと泣きたくなる。

 反抗期とかもう僕、子どもじゃないし!

 アイデンティティの問題なのに、おバカなりゅーちゃんはバカだから、やっぱり全然気づいてくれない。

 思わず壁にどんどん体当たりをしたら、りゅーちゃんは「あーやっぱりちょっとやさぐれてる。反抗期ってそうだよなあ」とかなんとか言ってて、結局なんか全部反抗期のせいにされてしまって、僕正直、すごく面白くない。

 さらにりゅーちゃんは、ここで長らく籠城することを決意している僕について「きっとお腹が減ったでてくるんじゃない? あいつわりと食い意地はってるし」とさと子に軽く答えてて、僕の決意とか僕の決意とか僕の決意とか、なんだよそれ!って腹が立つ。

 そのあとも繰り広げられるりゅーちゃんの僕を馬鹿にするような発言に耐えられなくなり、ここは指をかむなどの行為でりゅーちゃんに知らしめなければ、と勢い余ってりゅーちゃんに向かって突進を仕掛けたのに、りゅーちゃんに傷を負わせることもなく、あっさり御用となってしまった僕を、お願い誰も笑わないでほしい。……僕も馬鹿だったんだな。しみじみと。今すごく落ち込んでるから。



 檻のなかで、自分自身を罵倒しながらしょげている僕を、勝者の貫録を背負い、りゅーちゃんは指でつつく。

 りゅーちゃんは「元気ないね、こいつ。毛艶とか悪いし。なんかあった?」とさと子に尋ねてて、肝心なことには全く気付かないくせに、どうしてどうでもいいことには目ざといんだ、とぶちぶち思いながら、ほっとけよ、とりゅーちゃんの指を威嚇する。

 さと子は「わっかんない」って答えてて、まあ、さと子だし、ってちょっと悲しく思いながらも、僕は檻の隅に体を横たえ、じっとうずくまる。

「飯とか、食ってないの? こいつ」

 ご飯の残量見ながらりゅーちゃんはさと子に聞いてて、さと子でもその時だけは神妙に、「そうみたい」って返事した。

 そのことに、ああ、さと子、気付いてたんだ、と僕は少し驚いた。

「なんかね、一世のお墓まいり行ってから、なんか元気ないの。じっとしていることとかもいつもより多くて、どうしたのかな、っては思ってたんだけど。」

 ふーん、とりゅーちゃん僕をつつき、不意に少し笑って「拗ねてんじゃね?」と呟いた。

「自分だけ特別だと思ってたら、一世がいたって知って、さと子独り占めできてないことに気付いて、うわ、ここにもライバルが!って。」

 うーんとさと子は考えて、「一世は一世で大切だけど、ミミちゃん二世はミミちゃん二世で大切なのにね。どっちとも、代わりなんかいないんだから。」と笑って僕をなでる。

 その言葉に、僕は少し泣きそうだった。


 

 りゅーちゃんとさと子は相変わらずバカっぽい会話ばかりしてて、僕はそれを聞いてため息ついたりはらはらして檻の中をバタバタ動いて。どうにかしようとあくせくしてもどうにもなんないまま毎日が進んで。いろいろ考えてやってみて、うまくいくとこもあれば失敗することもあって。努力が実ることもあれば頑張っても駄目なものもあって。なんかもう、そんなんがいっぱいでぐるぐるしてて、だけど僕は、そんな日が、別に少しも嫌じゃない。だから、こんな日がずっと続けばいいのに、って願ってるけど、多分そんなうまくいかないよね。

 内緒の話。僕が一世のところに行くときは、別に僕は、りゅーちゃんのことだって嫌いじゃないよ、って伝えられたらいいな、と実はこっそり思ってる。

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逃走記 きか @39kika

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