第2話 ある代償の話

 健やかに生きるために、生き物たちは様々な手段をとる。


 とりわけ、人間という生き物は、人間史という薄い概念の上にその存在意義を求め、自らが思う正しいこと、なすべきことを積み重ねてきた。

 そうしてできた脆く、今にでも頽れそうな、人間という生き物の意志の重層は、まさに砂上の楼閣といえる。

 しかし、人間という生き物の手段を見る上で重要なのは、その足元の脆さではなく、それに甘んじることなく繁栄の道を選んできたことである。

 人間という生き物が今日まで繁栄してこられたのは、偏に、その意志の頑強さを持ち合わせていたからであり、何もせずぬくぬくと暮らしてきたからではない。


 したがって、いかに人間史という概念の確立が危ういものであったとしても、その上に立つ頑強な人間意志の摩天楼は、人間という生き物がその楼閣の頂点で確固たる意志を抱き続ける限り、これからも高くそびえ立ち続けるであろうといえる。


――――――――――――――――――――


「よし、入ってやる。絶対に逃げたりしないぞ」

 つい一週間ほど前に絶叫しながら店を飛び出し、その日の事を思い出すたびに、怖いやら恥ずかしいやらで、仕事が全く手につかなくなっていた私は、今日、再びあの喫茶店の前に立っていた。

 不思議とコンクリートの壁で四方を囲まれたこの喫茶店と、壁の向こうの大通りからの音は無く、しんと鎮まりかえっている。


 その静寂の中、ドクンドクン、と私の心臓の音だけが次第に大きくなっていく。

 あの日の恐怖が、脳裏にべったりと張り付くヒヤリとした感覚を私に思い出させている。

 こうして「喫茶メズラシ」という看板の掲げてある扉を前にすると、さらに体中の冷や汗が止まらなくなってしまう。

 バッグを抱える手には力が入らず、この非力な両手が、あの喫茶店の扉を開けるのは不可能だ、と言っているのが分かる。

 それでも、と私を突き動かすのは、このあいだ食べた「おふくろの味」だ。

 あんなに直接私の心を掴む料理は、今まで都会を探した中でただの一つもなかったし、何より、もう一度食べたいという気持ちが、もうどうにも溢れて止まらないのだ。


 そうして、喫茶店の扉の前で、今まで味わったことのないくらいの緊張をしながら、ネガティブにポジティブに、と忙しく葛藤していると、何分ほど経っただろうか、やっとの思いで店の扉に手をかけることができた瞬間、どこかで午後3時を告げる置時計の鐘の音が鈍く鳴った。

 

――ボーン、ボーン。

 その音が鳴り終えるのと同じくらいに、目の前の喫茶店から聞いたことのあるハスキーな声と、聞き覚えの無い男の人の低くて渋い声が聞こえた。

 置時計の趣がある音に聞き入っていた私は、ハッっと我にかえって、ちょうど泥棒なんかが聞き耳を立てるのと同じ格好になって、店内の音に耳を澄ませる。

 店内からの声なので、くぐもっていて一言一句聞き取ることはできないが、どうやら会計を済ませて帰る準備をしているようで、男の人の大きな笑い声と、またこの喫茶店に来るようなことを言っているのが耳に入ってくる。

 一体この男の人はどんな人なのだろう、とか、ユーコさんとはどれくらい親しいのだろうとか、そんなことを考えていると、渋い声の持ち主だろうか、コツコツという革靴のような音が近づいてきた。


 悠長にも、私はここで考え事をしてしまう。

――コツコツ?

 この喫茶店の床が板張りだったのを考えると、男性であれば、体重がある人が革靴を履くと、コツコツという音よりは、ドンドンという音がするはずである。

 私は、聞こえた男性の声から考えるに、ああいった渋くて伸びやかな低い声を出すことのできる人はある程度体重があると決めつけていたので、正直この靴と床がぶつかる音には驚いていた。


 さて、このお店の扉は内開きなので考慮にいれなくても良いが、店内からお客が出てくるのに、特に焦ることもなく、中腰状態で聞き耳を立てていれば、どうなるかは一目瞭然であろう。

 ガチャン、という音とともに扉が開く。


――カランコロン。

「誰だァ、テメェ」

 そう、楽しいお茶の時間を切り上げ、気分良く店の扉を開くと、そこには、あからさまな不審者がいて、であれば、いままでの雰囲気をぶち壊しにされるわけであるから、気分を害さないはずがないのだ。

 そうして、呆けた面をしたままでいる私の目の前に現れた人は、ツバの広い帽子を被った、長身の、黒い影であった。

 このお店の扉は比較的高く、その扉を屈んで通ろうとしているこの黒い影は、恐らく2メートルを超える身長である。

 一昔前の女優が被るような帽子、そのシルエットをよく見てみると気づく柔らかみのある膨らみや丸み、そして、足元は背の高いピンヒールであるのを総合して考えると、私の頭は、目の前の影は女性である、という結論を導こうとしているのだ。


 黒い影の人というだけでもホラー的なビジュアルに卒倒しそうなものなのに、さらに、先程発せられた渋い男性のような声は、目の前の女性的な影のものであるようだ。

 どうやら、今という時まで、この喫茶店のことで頭を使い過ぎていたらしい、混乱の末に、私の思考回路はここでショートしてしまった。


 ――暗転。

 次に目を覚ましたときには、午後7時をまわっていたのだった。


――――――――――――――――――――


「ん、灯り、灯は? ッターアイサイ」

 目が覚めたとき、目の前が真っ暗だと勘違いをして、何か灯を求めて右手を真直ぐに伸ばすと、手のひらに柔らかく暖かい感触と、少し後に、顎下にとてつもない衝撃を感じて、私は完全に覚醒したのだった。

 断末魔のような叫び声を上げてしまったのが恥ずかしい。


 店内の灯に目が眩む。

 少しして、派手にカウンターまで吹っ飛び、天地がひっくり返った状態で、アンティーク調の丸椅子にぶつかったことを確認した私は、自分のいる場所があの喫茶店であることを知る。

 目の前には細い目をさらに細めてクスクスと笑うユーコさんと、慌てふためいて長い前髪をおどおどと左右に振るカオルコちゃん、そして、テーブル席に椅子を並べて、その端の席に座ったまま、拳を放った格好で止まっている背の高い黒い影があった。

 黒い影は女優帽を外しており、その髪のシルエットは、ロングヘアーのそれだ。

 私は少し時間をかけて姿勢と衣服を正しながら、目の前の光景と、いままでのことについて自分の中で一旦整理をつけて、未だに拭いきれない疑念、つまり、黒い影の人は男性ではないよね、ということをユーコさんに聞いてみると、彼女は笑って、カウンターに戻りながら

「あっはっは、やだなぁお客さん、この人は正真正銘女の人ですよ」

と、答えてくれたのだった。


 その後、ユーコさんが、なぜか少しだけ難しい表情をしながらコーヒーを淹れる準備をしてくれているあいだ、黒い影の女性とカオルコちゃんも丸椅子に座って、ユーコさんと一緒に僕の質問に答えてくれた。

 4人で話して分かったのは、この黒い影の人はレイコという名前の女性で、見た通りの長身と深く吸い込まれるような、クレヨンで塗りつぶしたような黒い身体、男性の声であれば魅力的な低く響く声をもち、怒りっぽい性格で、私が店の前で気絶をしてからさっきまで、膝枕をしてくれていたということである。

 そして、レイコさんは、寝起きの一件は殴ったからチャラ、と言ってくれた。

 私はあまり覚えていないのだが。


 少しずつ会話に花が咲き始めたころ、ユーコさんがカオルコちゃんには紅茶を、レイコさんと私にはコーヒーを出してくれた。

 豊かな酸味を感じさせる香りが店内に広がる。

 一口、コーヒーを口に含むと、オレンジやグレープフルーツを思わせるような酸味が心地よく、私の気持ちはだんだんと落ち着いてきて、この喫茶店に入るまで感じていた恐怖が、全く気にならなくなっていたことに気づいた。


 心置きなくコーヒーを味わうと、心に余裕ができたことで、私の中にレイコさんについて、ひとつ聞いてみたいことが浮かんだ。

 私としては、レイコさんが怒りっぽい性格であれば、先程私を膝枕をしてくれたというのが、とても引っかかるのだ。

 とはいえ、まだ会って間もない女性の好意に対して意見するのは気が引けたので、その後も別の話題、カオルコちゃんの苦いコーヒーについての話題を振って、その疑問を私の中に押しとどめていた。

 カオルコちゃん、困らせてしまってごめんなさい。


 さて、私が目覚めてから一時間ほどして、レイコさんの衝撃的なビジュアルにも慣れてきた。

 ちょうど会話のネタも尽き、ユーコさんとカオルコちゃん、レイコさんが少し黙ったタイミングで、私はいい機会だと思って、レイコさんに膝枕の件について聞いてみる。


「あの、レイコさんは、その、どうして私に膝枕なんかを」

「テメェ、起きたときのこと詳しく思い出してみやがれ。次は首がすっ飛ぶくらい強烈なのをくれてやるからな」

 と、少し食い気味に、恐らくメンチを切りながらであろう、彼女はその暗闇のような顔を近づけてそう忠告し、何秒かしてから顔をもとに戻した。

 面食らった私は、レイコさんが意外にも(と言うとまた殴られるかもしれないが)、とても甘くて癖になるような、シャンプーだろうか、その香りをあとに残したことにに驚きながら、静かに彼女の話を待つ。


 レイコさんはコーヒーカップを傾けて二、三口飲み、ひと呼吸おいてから、拙い言葉を恥じて口がうまく開かなくなる子供のように、ぽつりぽつりと話を始めた。


「あたしはね、昔は、こんな身体じゃなかったんだよ。そうだね、だいたいこのお店に来はじめて、一か月くらいかね。背なんて伸びる歳でもなかったのに、突然身長が伸びはじめてね、ついでに体の色も黒くなってきやがったんだ」


 レイコさんは辛いことを堪えてか、一瞬グッと言葉に詰まる。


「声もだんだんと低くなって、だから、なんかの病気じゃないかと思って、医者に行ったんだけど、みんな揃って『体に異常はありませんね』って言いやがって、もう、気がどうにかなりそうだった。こんなにキツいのに、誰一人としてあたしのことを見てくれる人なんていないって、そう思ってさ」


 なんだかとても悲しい話に少し耐えられず、ユーコさんに一瞥を送ると、彼女はコーヒーを淹れてくれたときと同じように難しい顔をして、なぜか私の方を見つめていた。

 彼女の意図が読めずに、恥ずかしくなって目線をレイコさんの方に戻すと、レイコさんはさらに告白を続ける。


「……でさ、いつからか、ホントに、影みたいに、そこら辺の人には、だんだん認識されなくなって、今ではさ、友達とか、身近な人にも、もう誰にも認識されなくなっちゃってさ。あ、もちろんここの店に来るような奴らには見えるんだろうけどさ」


 この喫茶店自体とこの喫茶店に来ることができる人には、ちょっとした秘密がある、と、この前カオルコちゃんが私に言ってくれたことを思い出した。

 ――秘密、とは、レイコさんを見ることができる、ということ?


「それで、あたしは怖くなって、切なくなって、心の拠り所を求めてね、ここの店によく来るようになったってわけ。ここに来る人はあたしのこと、しっかり見えてるみたいだからさ。で、なんだっけ。そうそう、あんたに膝枕してあげたのは、あんたの雰囲気が、あたしの弟に似てたから」


レイコさんは、一拍おいて、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「……もう、優しくしてあげることもできなくなったから、せめて、この店に来る人だけにはそうしようって、決めてんだ、あたし」


 切なそうに、話を締めたレイコさんは、少しだけうなだれて、きっと涙であろう、水滴がポツリと落ちていた。

 虚ろな漆黒から一粒の涙がこぼれる様に、私も同情の涙が溢れそうになり、同時に、その絵画のような美しさに心奪われていた。

 綺麗だ、なんて思っては、きっとユーコさんに嫌われちゃうな、と余計なことを考えて、私は鼻を啜りながら、木の暖かさを感じる丸椅子に座りなおす。

 レイコさん以外、とても話し出せるような雰囲気はなく、ただただレイコさんの話を理解しようと、少し酸化したコーヒーの香りが重く漂う喫茶店の中で、沈黙を貫き、努めて考えに考えていた。


 ――と、長い沈黙の中で、レイコさんは何かを思い出したらしい、ハッとした仕草をして、ユーコさんに向き直り、尋ねる。


「え、ユーコ、普通に話しちゃったけど、ダイジョブだった? 2回目って言ってたし、さすがにこいつはもう話聞いてるでしょ。ここがどういうところか」

 何のことか分からずに、ユーコさんの方を見ると、見たことないくらい厳しい顔で、眉間を手で揉みながら、ぐぅ、と唸っていた。

 沈黙を返すユーコさんに、レイコさんは席を立って、カウンター越しに、たたみかける様にして詰め寄る。


「おい、言ってねぇのかよ。これからどうするつもりだったんだ。こいつはこれからもここに来るつもりだぞ。何回も繰り返しここに来るとどうなるか、説明ぐらいはするべきだろ」

 レイコさんは半ば呆れたように怒鳴り、こう付け足した。


「あたしみたいのを出さないために全力尽くしてくれるんじゃなかったのかよ」

 レイコさんは溜息を吐いて、スッと力が抜けたように椅子に掛けなおした。

 彼女のすぐ隣で話を聞いていたカオルコちゃんは、少し俯いて、前髪で顔が隠れ、表情を見ることはできない。


 ――今、レイコさんは何と言っただろうか、あたしみたいに、ということは、私も、彼女のように、絵画のような黒い色で、誰からも見えなくなってしまうということだろうか。

 不安が頭の中を占め、少し視界がぐらつく。

 助けを求めてユーコさんの方を見ると、ユーコさんは申し訳なさそうな目をこちらに向けていた。

 

 腕時計のカチカチという音だけが聞こえる。時刻は八時半。

 ユーコさんは、彼女のしている腕時計を少し確認すると、私に向かって

「あのね」

 と、ゆっくり、話し出したのだった。


――――――――――――――――――――


 人間という生き物の中には、超能力といわれるような個性が存在する。

 

 サイコキネシスや超感覚など、テレビで取り上げられるような強力なものは稀だが、しかし、誰もがそういったものを生得的に身につけている。

 例えば、生まれつき人より観察眼に優れていたり、他の人より時間感覚が正確であったり、ほかにも、相手が何を考えているかをより正確に察してしまったり、などがそれである。

 また、そういった超能力は、突出したメリットと同時にデメリットも与える。

 例えば、もの覚えが悪かったり、運動が苦手であったり、友人関係の構築に時間がかかったりなど、様々あるが、いずれも他の人と比べると苦手、というくらいの話である。

 超能力というものは、誰もが持っているがゆえに、日常生活に溢れかえっていて、既に陳腐化の一途をたどっており、普通の生活の上では、いわゆる、「アレが得意、アレが苦手」というような認識がされているのだ。


 しかし、この喫茶店は別である。

 この喫茶店は、人の超能力を選別し、強く発現するようにしてしまうのだ。

 超能力を強くする、ということはなにも、メリットだけが強調されるわけではなく、もちろん、デメリットの方も強くなる、ということでもある。

 この喫茶店がどういう意図をもって、どんな超能力を選ぶかは分かってはいないが、超能力を持つ人がこの店に来るたびに影響力は強まり、デメリットの性質によっては、レイコさんのようになってしまう人もいる。

 

 したがって、この「喫茶メズラシ」では、ユーコさんが店長を務め、この店に来た人がレイコさんのようにならないためにも、何としてでも二回目以降の来店を阻止しようと躍起になっていた、ということであった。


――――――――――――――――――――

 

 ユーコさんの話を聞いて、私の中では、このあいだの恐怖体験と、今日のユーコさんの難しい顔が思い浮かんでいた。

 それらの事態がすべて、お客である私のためを思ってユーコさんがしてくれていたことだと考えると、なんだか心の底がじんわりと暖かくなって、心が落ち着く。

 ユーコさんの方を見てみると、涙ボクロの目立つ、切れ長の美しい目を潤ませながら、少し頬を赤くして、うつむいていた。


「ユーコさん、ありがとうございます、私のために。でも、私は」

 

 ユーコさんの話を聞いている途中に、もう、かける言葉は決まっていた。


「私は、もう、この店の常連になるって、決めてるんです」


 私はユーコさんに、恐らく都会に来て初めての、満面の笑みを作ってみせた。


 ***


 ハニーミルクとコーヒー、アッサムの香りが混ざり合う閉店後。

「とにかくだ、あいつはもう、ここに何回も来るつもりなんだろ」

「そうみたいですね、わたしは賛成です」

「ぐぬぬ、みんなして店長を苛めないでよね。レイコは切実な問題なんだから、もっとまじめに考えなさいな」

「つったって、あいつの考えだからなぁ。あ、分かった。ユーコ、あいつのことから、なおさら気になって仕方ねーんだろ。ストレートだもんな、あいつ」

「ユーコさん、そんな生娘みたいな……」

「誰が生娘か。とにかく、レイコとカオルコにも色々手伝ってもらうことになるから、それだけは覚悟しておきなさいね」

「ヘイヘイ」

「はい、喜んで」


 ――そうして、「喫茶メズラシ」の夜は更けていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喫茶メズラシ 上白 燈明 @3tuba-aoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ