喫茶メズラシ

上白 燈明

第1話 ある男の話

 宇宙に浮かぶ、水に覆われた青い惑星。そこには多種多様な生き物がいる。

 生き物たちは、環境に合わせて、それぞれの社会で、様々な営みをしている。

 異なる生き物達が、あるいは、同じ生き物同士で、ときに対立し、ときに共生しているのだ。

 こうした営みの中でとられる手段は、生き物によって違う。

 あるものは他の生き物を捕食して住みやすい巣を略奪し、また、あるものは他の生き物に知恵を授けて食料となるものを貢がせる。

 しかし、目的は皆同じだ。

 

 その目的とは、健やかに生きることである。


 ――――――――――――――――――――


「さて、またここに来てしまったわけだ」

 私は今月も、ほとんど無意識に、とある喫茶店に足を運んでいた。

 この店との出会いは、都会暮らしに欠かせない、ある種の嗜好を満たすための旅から始まる。


――――――――――――――――――――



 田舎生まれで、仕事を求めてこの都市にやってくるまで、背の高い鉄筋コンクリート造りの建物なんて見たことがなかった。

 初めて地元から上ってきたときには、あまりに多くの人が駅の改札を出る様子を見て、遊園地の紅茶カップがぐるぐる回るアトラクションに乗った後みたいな気分を味わったのを覚えている。

 そんな私は、人の蠢く都市と職場とで受ける日々のストレスを発散するために、月に一度、必ずやるようにしていることがあった。


 懐かしの田舎を思い出す味、いわゆる、おふくろの味探しである。

 もちろん、高級店に行って担当シェフにそう伝えれば、それなりに満足できるものを作ってもらえるだろうが、いかんせん今の職場は、そのような道楽を享受しながら都市で暮らしていく分には、少しばかり稼ぎが心もとないのだ。

 だから、この「おふくろの味探し」の習慣が、私の稼ぎに合ったやり方で、つまり、安くて口に合う定食屋や喫茶店を巡る旅へと自然に落ち着いていったのは、変な話、私自身も納得がいっている。

 オフィスで隣の席の同僚には、毎日のようにランチに誘われ、また別の同僚には、毎晩のように

「のみ行きましょうよー、のみ。私いい店知ってるんですよぉ」

 との甘言をいただいていたが、あえて自分の中のいろいろな欲望を押さえて断り、ついには理想のおふくろの味を再現している店を見つけるまで、同僚たちの誘いにのることはなかった。



 そんな、変人じみていて、尚且つ、私自身の都会の生活に必要不可欠な習慣は、あるとき、ふとした拍子に結実したのだった。

 それは、入社から二年ほど経ったある日、雨の降る夕暮れのこと。

 月に一度の旅路、その日も足が棒になるまで多くの店を回って、お腹が空になる前に次へ次へと食事を済ませており、今月も収穫はなしかぁ、と傘を差してお腹をさすりながら、半ばいつも通りに諦めかけていたときのことだった。

 

 ――おや、こんなところに喫茶店なんかあっただろうか。

 疲れかけていた私は、少し有名なカレー屋に足を運んだつもりだったが、少し道を間違えていたらしい。

 大通りから続く、向かって右側にある窓のないコンクリートの構築物と左側の雑居ビルとの間に路地裏のような細道の入り口があり、立て看板がしてあった。そこには

「喫茶メズラシ

――あなたの『おいしい』ここにあります――

今日のおすすめメニュー 紅茶カレーセット

裏メニュー マンドラゴラの口・ユニコーンの角・ピクシーの羽根 etc.」

 とある。

 「渡りに船」とはこのことだ、と疲れ果てた私には感じられたのだろう、今思えば怪しい文言が並ぶ看板に、誘われるように足が自然とその道へ進んでいた。

 

 喫茶店に着くまではちょっとした迷路みたいになっており、細い路地は右に二回曲がり、コンクリートの構築物の角まで行かない距離進んで、ぐるっと回った右手に入り口があった。

 路地は途中まで隣の雑居ビルとの隙間にあり、そのあまりに高い建物が雨除けになっていたようで、道の途中コンクリートの壁に擦って邪魔になる傘はとじてしまっていた。

 しかし、路地に入ったところと一回右に回ったところの道の左側にビルがあるのは分かるが、どうして入り口の目の前にこんな高いコンクリート塀が、という当然の疑問が吹き飛ぶくらいの衝撃が、入り口のたたずまいにはあった。

 「喫茶メズラシ」と書いてある、古めかしいペンキ塗りの看板が入り口の上に取り付けてあり、アンティーク調の重厚で趣のある扉に、私は期待で胸を躍らせる。

 もしかしたら、という思いが、ドクンドクンと胸を打ち、深呼吸をしてから、緊張に震える右手に、傘のかかった左手を添えて、私はドアを押し開けた。



 ――カランコロン。

「いらっしゃいませ。あら、お客様は初めての方かしら」

 私は傘を傘立てにしまって店内を見渡すと、一気に魅せられてしまった。

 カウンターバーに、二階の吹き抜けから光の差し込むお洒落な造り、いくつかのテーブル席に、厨房から漏れる蛍光灯の灯と美味しそうな香り。

 店内の装飾やそこに置いてあるテーブルと椅子も正面の入り口同様、アンティーク調に統一してあり、カウンターの向こうにはコーヒーを淹れるための器具が一式揃っていた。

 焙煎機やサイフォン、ダッチコーヒーを淹れるための長い管まで用意してあり、その多様な器具を目でなぞっていくと、厨房の入り口があり、奥の様子が少し見える。

 カウンターでこちらに声をかけた私からみて妙齢の店員は、屈託なく、にこやかにこちらを見ており、奥の厨房には、高校生くらいの歳頃のかわいらしい女の子が皿を洗っていた。

 ――と、ここで店の雰囲気にのまれて全くカウンターの店員さんに反応していなかったことに気付く。


「……ああ、す、すいません。一見さんお断りシステムでしたか」

 何とか、店に押し入ってきた不審者っぽさを取り繕うために、てきとうな言葉が口走った。

 すると、カウンターの女性は少し吹き出しそうになってから、私がこの店に入ったときに止めていたであろう、コーヒーを淹れる器具を磨く作業の手を再び動かしながら、

「お客様は、おかしいことを言いますねぇ。いや、そんなシステムはうちでは採用しておりませんので、どうぞ、ここの席におかけくださいな」

 と答えた。

 私は、おかしそうにしている店員さんに案内されるまま、無言で店員の正面の席に座る。

 さて、カウンターの丸椅子に座ってから、ひと呼吸おいて、私はすぐに注文するべきか、それとも、店員さんに今までの経緯を話したうえで注文するべきか、少し考えた。


 ――正直言って、店の雰囲気は最高だ。

 店の立地は幼い頃夢見た秘密基地みたいでかっこいいし、入り口の看板も歴史を感じさせるようでワクワクする。

 目の前の店員さんも、制服だろうか、白いブラウスとその上にしたエプロン姿が似合っていてとても可愛らしいし、コーヒーの器具を扱う手も達人のそれのようで、とても美しく見える。

 切れ長の目と、左目近くにある泣きボクロが映える美人で、話しかけてくれた声は、ハスキーで、とても私好みだ。

 しかし、この状態でいままでのことを話したところで、変人扱いされるのが関の山だ。

 この雰囲気のまま、出てくる料理まで最高であれば、もうこの店に決まりなのだが。


 そうして私が難しい顔をして考えごとをしていると、なぜか頬を赤く染めたカウンターの女性が、軽く咳払いをしてから、手書きのメニューを私の目の前に差し出し、

「お客様、ご注文がおありでしたら、どうぞ遠慮なさらずに。特になければ……」

と注文の催促をした。

 私は間髪を入れずに、

「おふくろの味を」

 と、一言だけ答えて、やっちゃったなぁ、と、口をつぐむ。

 

 ――私の生活には必要なことだけど、この女性には全く関係のないことじゃあないか。

 私は赤面しているのを見られないように即座にうつむくと、カウンターの店員さんは、さして不審に思うこともない様子で、

「はい、おふくろの味いっちょー」

と答えて、ニコニコと笑いながら、手を布巾で拭いてから厨房の奥へと姿を消した。

 呆気にとられても仕方ない返答をしておきながら、その店員さんのあっけらかんとした態度に、私の方が呆気にとられてしまった。

 そんなカウンターの女性の対応に、もっと不審者扱いしてくれてもいいのでは、とか、笑顔が素敵だったな、とか、様々思っていると、少ししてから、厨房の方から先程皿洗いをしていた高校生くらいの女の子が出てきた。


 前髪は目を隠す長さに切り揃えてあり、それ以外はいわゆるショートボブのようなカットになっていて、制服の上から先程カウンターにいた女性と同じエプロンをしていた。

 エプロンに違うところがあるとすれば、腰のあたりに「バイト」と書いてあるバッジがついていることくらい。

 そこは、研修中、じゃないのか、などと思っていると、その目隠れ女子高生は絞り出すような声で私に話しかけてきた。

「あ、あの、初めて来たお客さんに、わたしの淹れたコーヒーをご馳走しているんです。よろしければ、飲んでみませんか」

 この女子高生がカウンターについてから、コーヒーカップを持って何か言いたげにしているのが見えており、コーヒー淹れてくれるのかな、と予想していた通りの提案だったので、

「はい、いただきます」

 と、私がやや食い気味に答えると、その女子高生は少し驚いた様子で、先程と同じくらい小さな声で答えた。

「初心者なので、うまく淹れられないかもしれませんが、よ、よろしくお願いします」



 それからというもの、私のもとに、注文した「おふくろの味」が届くまで、女子高生に話しかけて、彼女がカオルコという名前で、近くの高校に通っており、家庭の事情からバイトを許されていること、カウンターにいた店員はこの喫茶店の店長で、名前はユーコということを教えてもらった。

 他にも、店長や女子高生、この喫茶店に来ることができる人、さらには、この喫茶店自体にもちょっとした秘密がある、というようなことも話していたが、私は、こんな内気に見える子でも冗談を言うんだなぁ、と関心しただけだった。


 ちなみに、コーヒーは今まで飲んだものの中で一番苦かった。


 さて、苦みでいっぱいになった口の中を水で薄めながら、いまにも聞こえなくなりそうなカオルコちゃんの声に耳を傾けて相槌を打っていると、厨房からいい香りが漂いはじめた。

 そう、「おふくろの味」だ。

 しかし、私は確かにその匂いを嗅いだことがあるのに、未だにその正体を見破れずにいた。

 炒めたトマト、コショウの香り、卵の焼けた匂いに、玉ねぎ、コンソメの香り。

 私は喫茶店に居ながらにして、少年の頃、休日の昼間から母親が台所に立って何かしらを作ってくれていた光景を思い出し、当時のワクワクと、思い出して感じた寂しさで胸をいっぱいにしながら、それでもなお、胸いっぱいにその懐かしく切ない香りを吸い込んだ。

 

 いつの間にかカオルコちゃんは厨房に戻って洗い物をしており、その厨房の奥から、料理を皿に盛りつける小気味の良い音が聞こえた。

 さあ、待望の味とご対面だ。



「お客様、こちらがおふくろの味、オムライスとコンソメスープです」

 そう、この香りだ。

「出来立てで熱いので、やけどに気をつけてくださいね」

 オムライスをスプーンですくって、一口。

「どうですか、お客様。お気に召しましたか」

 あまりの美味しさに流れた一条の涙を、スープを飲んで隠そうとする。

 いかにも、スープがあまりに熱くて涙が出てしまったよ、という風を装いたくて、笑顔でユーコさんの方に向き直ったが、涙は一向に止まる気配はなかった。

 後になって思えば、さぞかし気色の悪い客だったろうな、と、自分でも思うのに、カオルコちゃんはそっとティッシュ箱を用意してくれて、ユーコさんは食後にコーヒーを一杯淹れてくれた。


 そのコーヒーはとても薫り高く、私を包んでくれるようだった。



 田舎から、仕事を求めてこの都市にやってきてから、嬉しくても悔しくても涙を流したことなんてなかった。

 いままでほかの店を回ったときには、目まぐるしく移ろう季節と相まって、ジェットコースターに乗ったときのような気分を味わい、それを努めて忘れようとしていた。

 そんな私は、この都市と職場とで強く生きるために、月に一度、この店に来ることを決めたのだ。


*** 


 私は手早く会計を済ませると、赤く目を腫らしたままでベルのついた扉を引き開けた。

 そうだ、ご馳走様でも言ってから出よう、と思い、振り向くと、カウンターのユーコさんから話しかけられた。


「お客さん、傘は忘れないでね」

 

 一瞬、ユーコさんが何を言ってるか分からなかった。

 そうだ、傘を持ってきたんだった、と思うと同時に、疑問が私の中に沸き上がる。

 外は雨が降っていた。

 ――もちろんだ、傘を差してきた。

 さらに、この喫茶店は四方をコンクリートの壁で覆われるように立っていた。

 ――路地を通るときにここの立地を見てきている。

 この喫茶店の中に厨房の蛍光灯を除いて照明と呼べるものはなく、あるのは吹き抜けの窓からの自然光だけ。

 ――自然光?

 しかも、私がこの喫茶店に入ったのは、一体何時ごろのことであったか。

 ――夕方



 私は急に傘を持つ手に力が入らなくなり、こわばった顔をして後じさった。

 扉を出た後、

 「ご馳走様でした」

 と、叫びながら逃げ帰る。

 大通りを走っている間、空を見上げると、やはり目の前にあるのは曇った夜空。


 私は、走りながら目に涙を溜め、今日のことを忘れるか否か、苦悶していた。


***


 ハニーミルクとコーヒーの香りが混じり合う閉店後。

「ユーコさん、今日のはいじわる」

「あれくらいが良いのよ、じゃないとまた来ちゃうじゃない。」

「それでもいじわる」

「はいはい、意地悪くてすいませんね。……でも、彼が今後も来るようであれば、何とかしてあげないとね。そのときは、カオルコも手伝って頂戴ね」

「やったぁ」


――そうして、「喫茶メズラシ」の夜は更けていく。


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