執着(2)

「着いたよ」

彼女は僕の耳元に優しく声をかけた。その声で目が覚めた僕はあくびをしながら隣に座っていた彼女と立ち上がり、電車を降りた。駅の改札を抜けると、じりじりとした真夏の日差しが僕らを容赦なく照らした。


僕は高校生になった。中学生の自分を抹消し心新たに地元ではなく、隣町の高校へと通っている。それは、中学生の自分を知っている人間と会いたくないという理由からでもあった。中学での悲壮な記憶が時々脳裏をよぎることがある。その度に憎悪の念が僕の心をどろどろと蝕んでいくのがわかる。だが、それは決して苦しいものではない。まるで以前の僕を戒めるかのようにそれは不意に浮かび上がり、現在の僕をより気高くする。そして僕は成長し、自分を創り上げていくのだ。


僕は彼女の白い手を強く握った。彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、その強張りはすぐに溶け、僕を見て柔らかく微笑んだ。僕はそれに応じるかのように彼女を見ながら笑った。この彼女も高校に入学してできた僕の大切な人の一人だ。名前は楠田 茉希。今の僕の支えであり、初めての彼女だ。


校門を二人で通ると、後ろから聞き慣れた声が耳に入った。


「相変わらずアツアツだねえ。吉崎と楠田は。羨ましい限りだよ」

同じクラスの青木だ。青木は高校での初めての友達であり、彼もまた大切な人の一人である。


「お前も早く彼女つくれよ。毎日楽しいぞ」

僕は冗談半分で彼に言った。彼は大きく口を開けて笑い、できたら苦労しねえよ、と言って先に校舎へと入っていった。


教室に入ると、先に来ていたクラスメイトたちがおはよう、と僕らを出迎えるように言った。僕と彼女はそれに応えるようにおはよう、と返して各々の席に着いた。今の僕の周りには多くの人がいる。友達がいる。支えがある。何もかもが充実し、以前とは比にならないほどに僕は明るくなっている。僕は幸せ者なのかもしれないと思った。すると後頭部あたりから妙な違和感が感じられた。まるで今の自分を否定するかのように、幸せを感じる時に限ってそれはいつも現れる。そしてその違和感によって孤独への恐怖心がじんわりと胸の奥へと広がっていく。その度に僕は人を大切にしようと心に決めるのだ。


「お前楠田とどこまでいったんだよ。キスしたか?」

周りを気にするように友達の真島が小声で話しかけてきた。僕は唐突な質問に驚いたが、平静を保つためゆっくり息を吸って答えた。

「なんだよ。中学生かよ。してないしてない」

僕は適当に返して、鼻を指でこすった。キスは既にしていた。一週間前に彼女の家で遊んだ時だった。それは僕にとってのファーストキスでもあり彼女にとってもまた然りであった。僕はその時のことを思い出し少し欲情したがすぐにそれを鎮めた。


その日の放課後、僕と彼女はデートの約束をした。彼女からの提案で、学校の最寄り駅付近で買い物をすることとなった。最寄り駅の改札を出ると大きな時計台があった。そこで待ち合わせをすることとなり、僕は一足早くそこに到着した。駅は大勢の人で溢れ、様々な声が混じり合い、まるで大きな怪物の呻き声のようだった。


時計台の下には人が二人ほど座れるベンチがいくつか並んでおり、僕はその一番右端のベンチに腰を下ろし彼女を待つことにした。背負っていたリュックを膝の上に置き、ファスナーについていたキーホルダーをじっと眺めていた。これは彼女からのプレゼントで、家族以外から貰う初めてのプレゼントでもあった。人型の人形で中には綿が詰められている。大きさは小指ほどしかなく、可愛らしいような憎たらしいようなどちらとも言えない顔をして微笑んでいた。これをもらった時はどれだけ嬉しかったことか。自分と彼女がこの人形から発せられる見えない力によって強く結ばれたような、そんな感覚を抱いた。僕はその時の気持ちを思い出し、少し高揚している自分に気がついたが別にそれを無理して鎮めようとはしなかった。


しばらくするとざわめく騒音の中から僕の耳にだけ滑らかに入ってくるような足音が聞こえた。その音は次第に僕に近づいてきて目の前で止んだ。顔を上げると、正面に立つ彼女が目に入った。彼女は薄いエメラルド色のワンピースを着こなし、白いカーディガンを肩からかけて袖を結んでいた。


「…可愛いね」


僕は自然とその言葉が出た。それは故意的に出そうとしたのではなく、勝手に出たといった方が正解なのかもしれない。彼女は艶のある長髪を微かな風になびかせながら頬を赤らめた。ありがとう、と彼女は僕から目をそらして言った。僕はそれを見てまた可愛いね、と言葉が出そうになったが、二度いうのは変だと感じ、喉まできたその言葉を抑えるようにして飲み込んだ。


目的の店まで歩いている途中、不意に彼女を見ると首元になにか光るものが見えた。僕が以前プレゼントしたネックレスだった。


「ネックレスつけてくれてるんだ」


「当たり前じゃん。これ結構気に入ってるの。ありがとう」


彼女は僕を見て優しく微笑んだ。僕は何かあるごとに彼女にプレゼントを渡した。それは単純に彼女の喜ぶ顔が見たいという理由もあったが、時々襲われる僕の行き場のない不安感を和らげるためでもあった。僕が買ったプレゼントを彼女に渡すことで僕の身体の一部が彼女に行き渡ったような気に何度もなった。僕と彼女はこれだけのモノで結ばれてるから離れる心配はない。そういって孤独への恐怖を和らげていた。


目的の店に着き、彼女とともに洋服を見ていた。服を選ぶ彼女は無邪気な子供のようで、また違う可愛らしさがあった。


「これにする。可愛いでしょこれ?」


そういって彼女は僕に純白でシースルー調のインナーとハイウエストパンツを差し出してきた。


「すごい可愛いじゃん。いいよ僕が出してあげるよ」


「え?そんな、いつも悪いよ。たまには私が出すから」


「いやいいんだ。出させてくれ」


彼女は僕の頑なな態度に一瞬不思議そうな表情を見せたが、わかった、といって僕に服を渡した。会計を済まし、彼女の新しい服が入った紙袋を持った。その紙袋の重みを右手に感じながらもすーっと体が軽くなっていくような気がした。


僕らは小腹が空いたので近くのファミレスに入ることにした。店員の後ろ姿を見ながら店の一番奥にある席に案内された。彼女は席につくと、はあ、と安堵の息を吐きながら、それありがとうねと言って笑って見せた。僕は大丈夫だよと返してこめかみ辺りを指で掻いた。


僕らは食事を終え、飲み物を飲みながら話していた。すると途中で彼女は徐ろに席を立った。


「ちょっとお手洗い行ってくるね」


そういって彼女はトイレのある方へと歩いていった。僕は前に座っていた家族連れの言動をしばらく眺めていた。男の子の子供が二人に母親と父親。なんとも幸せそうな家族だった。騒ぎながら出された料理を食べる長男、兄を横目で見ながら真似するように食べる次男、それを見ながら微笑む両親。それは孤独からは程遠い光景に思えた。僕は知らぬ内に溜息を吐いていた。子供にまで羨望の眼差しを送るとは僕はどれだけ小さく醜い人間なのだろう。僕は自分に落胆しながら、不意に目をテーブルの上にやった。そこには、淡い茶色のテーブルに、表現し難い違和感で塗装されたような黒い彼女のスマートフォンが置かれていた。それを見た途端僕の肩がずしりと重くなった。彼女が浮気をしていたらどうしよう。そんな疑念が僕を襲った。気づいた時には彼女のスマートフォンを手に持っていた。動悸が徐々に激しくなっていく。遠くで店員が料理を床に落としたようで店内はざわついていたが、僕の頭には彼女のスマートフォンを見るか見ないかの選択肢しかなかった。この胸の奥にある重たい鉛のような不安を取り除くには彼女のスマートフォンを見るしかなかった。僕は強い背徳感に襲われながらも僕は指に力を入れ、彼女のスマートフォンの電源をつけた。頼むから何もないでくれ。そう心で唱えながら目を細めて画面を見た。そこには二件の通知が入っていた。


[この前はありがとう!おかげで楽しかった!]


[次はいつ空いてるんだ?]


僕の顔から血の気が引いていくのがわかった。呼吸が荒くなっていく。その通知はどちらも青木からだった。僕は青木の笑顔が脳裏に浮かびその笑顔を脳内で殴った。ゆっくりと彼女のスマートフォンの電源を切り、元のあった場所に戻した。僕はトイレのある方向を睨みつけた。そして、机にうつぶせながら彼女を待った。


「どうしたの?具合でも悪いの?」


彼女の声だ。いつもならその声を聞くだけで幸せに感じていたはずなのに、今では忌々しく感じる。僕はゆっくり顔を上げ不思議そうな顔をしている彼女を睨んだ。彼女はそれを見て一瞬身体が強ばった。そして机の上に自分のスマートフォンが置いてあることに気づいた彼女は大きく目を見開いた。


「まさか…これ…」


彼女はそういってスマートフォンを手に持ち電源をつけた。その画面に映し出された文を目で追い、彼女は深いため息を吐きながら椅子に座った。


「どういうこと?青木と二人で遊んだの?」


いつもは決して発さない低い口調で言った。


「いや、違うの」


「何が?」


「何がって…それは…」


そう口にした途端、彼女は下を向きじっとしていた。彼女は明らかに焦っていた。膨大に膨れ上がった不安はじんわりと、そして正確に僕を侵食していく。すると、彼女が唐突に肩を上下に揺らし始めた。そして、鼻をすする音が聞こえ、僕は彼女が泣いていることに気がついた。その光景に一瞬臆したが、僕はもう一度あの通知の文を思い出し怒りを蘇らせた。


「泣いても無駄だからな」


僕は目を細めて彼女を見つめた。不意に自分の掌を見ると爪の跡が深く残っていた。気づかないうちに拳を握っていたらしい。こんな奴と一緒にいたって幸せにはなれない。僕の頭にそんな考えが芽生えた。しかし、それと同時に彼女を今失ったら僕は孤独に一歩近づくのではないのだろうかという考えも浮かんだ。ましてや、こんな形で彼女と絶縁すると自然と青木とも縁を切ることになる。それは僕にとってひどく恐ろしいことだった。自分が一番恐れている孤独がまた身近になるのだ。僕は考えただけで震えが止まらなかった。


「…私…別れたくない…」


彼女は赤く腫れた目をこちらに向けて訴えてきた。自分の中で既に彼女と青木への怒りよりも孤独への恐怖心が勝っていた。そんな中僕は唇を震わせながら言葉を発した。


「…別れないよ。もうしないでね…」


すっかり威厳を失った僕は見えない鎖にがんじがらめにされた気分だった。自分の本心を周りにぶつけられない。強くぶつけようとすればするほど過去の情景が蘇る。独りになりたくない。荒れる呼吸を懸命に整えながら僕らはしばらく俯いていた。


動く度に鈍い音を出して軋むベッドの上で僕はただただ天井を見ていた。あれから互いに口を開けずにデートは終わったしまった。僕の部屋にあるこのベッドは僕のすべてを受け入れてくれる。僕の醜い部分、情けない部分、弱い部分。高校に入り友達が多くできたがそういう部分を友達に決して見せたことはなかった。いや到底見せれなかったのかもしれない。見せたら嫌われる。嫌われて僕はまた独りになる。それが恐ろしかった。僕はこのまま生きていくのだろうか。孤独への恐怖に縛られながら、窮屈な毎日を送るのだろうか。考えれば考えるほど答えは遠ざかるような気がした。僕は一旦考えるのをやめた。そして、ゆっくりと寝返りをうちそのまま目を瞑った。


「君は弱い」


そのひどく耳障りな男の声は僕の聴覚を牛耳った。目覚めると真っ白な空間の中で知らない男と対面しながら座っていた。僕はそれが夢だとすぐにわかった。男の言葉に腹が立ち、僕は眉間にしわを寄せた。


「うるさい。知っているさそんなこと」


「ああ、自分が弱いことなんて自分が百も承知だろう。だが、君はそれを改善しようとはしない。それは何故か。今の自分が好きだからさ」


「そんなことない。僕は情けなくて、醜くて、愚かだ。そんな自分が嫌だ。…だけど、それはしょうがないんだ。僕は孤独が怖い。お前の言う今の自分が好きなんじゃなくて、今の自分しか周りは僕を受け入れてくれないからだ。僕が本心をさらけ出したらきっとみんな僕を軽蔑する。人間なんてみんなそうさ。自分に利益があれば誰でも容易く裏切る」


僕は男を罵った。自分の最大限の声を出して怒鳴った。


「それは自分の思い込みなんじゃないか?」


「違う。現に僕は二回も大きな裏切りにあった」


「松岡藤次郎と、楠田茉希か。じゃあお前は今の窮屈な日々で満足なんだな?孤独が怖くて、表向きだけ塗装された友達関係でいいんだな?」


「…いいわけないだろう」


「情けなくて、醜くて、愚かな弱い人間はお前だけじゃない。この世界に存在する人間全員がそうだ。それを近くにいるお前が指摘しなくてどうする。お前の周りには愚かな人間が集まるだけだ」


「…僕も愚かじゃないか」


「お前の愚かさは孤独への恐怖に束縛されて自由に生きれないことだ。人間を信じてみろ。大きな裏切りを二回受けててそう簡単に信じるのも容易じゃないが、そうしないとお前の弱さは消えない」


男はそういうと眩い光とともに姿を消した。僕の瞼の裏に薄暗い光が差し込む。僕は目が痛くなり、我慢出来ずに目を開けた。朝だった。枕元の時計を見ると針はいつも家を出る時間を指しており、僕は急いで支度をした。


登校中、僕は独りで歩いていた。体が重く、頭に鈍い痛みが残っている。不意に男の言葉が頭の中に浮かんでは消えていった。すると、後ろから僕の名前を呼ぶ聞き慣れた声が耳に入った。彼女だ。彼女は昨日のことがまるで嘘だったかのように平然と僕の横に並んだ。気づくと体の重さは消え、頭痛もすっかりなくなっていた。彼女は右手に持ったスマートフォンをいじっていた。横目でその画面を覗いてみたが、光が反射してうまく見ることができなかった。彼女が僕に話しかけてきたが、そんなことは上の空で僕は彼女のスマートフォンを見ていた。


「ねぇ、聞いてる?」


彼女が眉をひそめてこちらを向いた。僕は慌てて正面を向き、聞いてる聞いてる、と応えた。


「そういえば、昨日はごめんね。もうしないから私」


彼女は笑顔で謝った。あまりにも急なことだったため僕は曖昧な返事をしてしまった。すると、彼女は満足そうな顔をして、前を向いて歩みを進めた。僕はぼんやりとしたまま彼女の白い手を見た。そして、その手に向けて僕の手を近づけ、握った。彼女もそれに応じるように握り返してきた。すると、向かい側からスーツを着た男が歩いてきた。それはどことなく夢に出てきた男に似ていた。僕は気づくとその男から目を逸らしていた。そして、深く呼吸をして、彼女を見つめた。空に昇る太陽が僕ら二人を嘲笑するかのようにぎらぎらと照らし続けた。

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世界の欠片 松下 靄 @tomoya0816

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