第8話 ボクだけを残して……

 光君と紫苑ちゃんのデートを目撃したその日。

 ボクは家に帰るなり、夕食もとらず、お風呂にも入らないまま、ベッドに潜り込んだ。

 寝てしまおう。明日にはすべてが終わっている。

 そう信じていた。

 男の子になるのか、女の子になるのか、そんなのはどっちだっていい。

 ただ変態さえ出来ればいい。

 そしてこれからも光君と紫苑ちゃんと仲良くしていければ、それだけで十分だと自分に言い聞かせて、懸命に押し寄せてくる感情を堪えて目を閉じた。


 なのに、何故かボクは変態しなかった。


 翌朝、目覚めても何の変化もなく、すごく動揺した。

 お母さんに話をしたら顔を青ざめて、朝ご飯も取らずに、ボクを連れて学校へ向かう。

 いつもよりずっと早い時間だったので、T字路にふたりはいなかった。

 学校で同じことを話したら、先生もびっくりしていた。

 ちなみに先生には定期的に報告をしていたんだ。

 うんうんと頷きながらボクの話を聞いてくれて、アドバイスをくれたり、相談にも乗ってくれた先生。「辛くない? 大丈夫?」と心のケアもしてくれていた。

 で、ボクもそうだし、先生もそうだったけれど、三学期の初めの報告で「そろそろ」だと思っていた。

 ボクが変態できないのは、ふたりとの人間関係。その問題のクリアはもうすぐそこ。

 覚悟はしているけれど、やっぱりふたりが結ばれるのはきっとショックで。

 でも、そのショックがボクを変態させるはずだと思っていた。

 けど、結果は……。

 もしかしたら原因は他にあるのかな? どうしよう、もう時間がないって言うのに……。

「もう一度確認するけど、上月さんはふたりがデートをしているのを見たんだね?」

「う、うん」

「それで本当に吹っ切れた?」

 ……と思うと、ボクはこくんと頷いた。

 やっぱりショックだった。

 つい涙が出た。

 だけど心の底からふたりにおめでとうって思ったのもホントだ。これでボクたちはずっと仲のいい友達でいられるって思ったのもウソじゃない。

「おかしいな。だったら変態しているはずなのに」

 ボクの話を聞いて先生が深刻そうに頭を捻る。

「……先生、もしかして他に原因があるんじゃ」

 お母さんが不安そうに言いよどむ。

「うーん、それは考えにくいと思いますが……」

 とにかく自分の方でも調べてみますと先生はお母さんを落ち着かせると、ボクには心当たりを思いついたら、どんなことでも、いつでもいいから話しに来てって言ってくれた。


 それからは毎日が慌しくなった。

 先生が呼んでくれた専門家のおじさんのカウンセリングを受けたり。

 お母さんに連れられて、都会の大きな病院で何日も検査を受けたり。

 受験どころじゃなくなって、ボクはあっちへこっちへと連れまわされた。

 おかげでなかなかふたりには会えない。

 最初こそ目撃したことと変態できなかったことのダブルショックでそれもいいかなと思ったけれど、数日もすればとても会いたくなった。

 正直、ふたりが今までと同じように接してくれるかどうか不安もあったけれど。

 でも、きっとふたりなら、と信じていた。

 恥ずかしそうに付き合い始めたことを話してくれて。

 ボクは驚きながらも、ふたりを祝福して。

 それでもこれまでと同じ、ボクが望む、仲良し三人組の関係が続くものだと信じていた。

 ……だけど、それはあまりにも幼い幻想だったんだ。


「おおっ! あゆむ、久しぶりだなぁ。もう大丈夫なのか!?」

「あゆむ、無理しちゃダメよ」

 ようやく時間が取れたある日、いつものT字路にちょっとだけ早く着いて待っていると、仲良く一緒に歩いてきたふたりがボクの姿を見て駆け寄ってきた。

「う、うん。ごめんね、心配かけちゃって」

 ふたりにはボクがインフルエンザにかかっていたことにしている。

「ホントよ。受験は体力勝負なんだから。健康管理はちゃんとしないと!」

 両手を腰に当てて、怒ってみせる紫苑ちゃん。ほんの半年前まで紫苑ちゃんの口から「体力勝負」って言葉が出てくるなんて想像も出来なかった。

「そうだね。ボクも朝のトレーニングに付き合ったほうがよかったかなぁ?」

 さりげなく会話の中に「付き合う」って言葉を入れてみた。

「くそう、やはり無理矢理にでもあゆむも付き合わせるべきだったか……」

「あゆむも一緒だったら、もっと楽しかったのにね」

 悔しがる光君と「今からでも一緒にやる?」と誘ってくれる紫苑ちゃんに、なんだか拍子抜けなボク。

 それからボクが休んでいる間にこんなことがあったとか、この問題が試験に出そうなんて話をしながら学校へと向かった。 

 だけどなかなかふたりが付き合い始めたって話が出てこない……。

「と、ところでさ、何かふたりに変わった事は、ない?」

 我慢しきれなくなって訊いてみた。

「おお、よくぞ聞いてくれた!」

 光君が嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

「最近、フォークの落ちが鋭くなったような気がするんだ」

「へ、へぇ」

 ……ごめん、それは今、どうでもいい。

「何つまんないこと言ってんのよ、それよりももっと大切なことがあるでしょ」

 紫苑ちゃんがとても真面目な顔で、ボクを見つめてきた。

「あのね、あゆむ。驚かないで欲しいんだけど、私と光ね……」

「う、うん」

 心の準備は出来ているつもりだけど、思わずツバを飲み込んだ。

「年末の模試で五教科の点数が同じだったのよ!」

「……そ、それは凄いね」

 普段だったら「えーっ!」って驚いていたと思う。

 でも、聞きたいのはそんな話じゃなくて……。

「でしょー!? ホント、わたしもアホの光と同じ点数だなんて、マジでショックだわ」

 薄い反応を浮かべるボクとは対照的に、紫苑ちゃんは大袈裟に右手で顔面を押さえて嘆くマネをしつつも、とても嬉しそうだ。

「おい、どさくさに紛れてアホって呼ぶのはやめろよ」

「だって、あんたアホじゃない。そのアホなあんたをここまで育てるのにどれだけわたしたちが苦労したか」

「くっ。そ、それは感謝してるけど、でも、アホアホと言わなくてもいいだろ!?」

「あほ~あほ~、光のあほ~」

「し、紫苑! てめぇ、いい加減にしやがれ!」

「うわぁ、アホの光が怒った!」

 怒った光君から、紫苑ちゃんがいつものように走って逃げ出す。

 今まではそれを光君は苦笑しながら見つめるだけだった。

 でも。

「痛い痛い! ちょっと光、やめてぇ~」

「あははは。やめて欲しければアホを訂正しろー!」

「分かった、分かったから、もうやめてー」

 光君はダッシュで追いかけて紫苑ちゃんを捕まえると、ヘッドロックして頭にぐりぐりと握りこぶしを押し当てていた。

 そしてヘッドロックを解いた光君に、涙目の紫苑ちゃんが何か文句を言う。

 でも全然取り合ってもらえなくて、そんな態度に紫苑ちゃんは怒った振りをしてぽかぽかと光君の胸元を叩いた。

 バカップルだ。

 どう見てもふたりはバカップルになっていた。

 だけどふたりはそんなことを全然言ってくれなくて。

 おまけにボクのことを忘れたかのように、笑いながらふたりして歩いていく。

 ふたりの世界。

 ふたりだけの世界。

 ボクが入り込めない世界が、そこにあった。

「あ、ごめん、あゆむ。こいつがまたアホなこと……」

「アホな光にアホって言われたくは……」

 しばらく歩いてようやくボクが立ち止まっていることに気付いたふたりが振り返って……顔を強張らせた。

「……うん、どうしたの?」

 ボクは頑張って無理矢理笑顔を作る。

「どうしたのって、あゆむ、お前……」

「なんで泣いてるの?」

 泣いてる?

 何を言っているんだろう。ボクは笑っているはずだ。

 笑えているはず……なんだ。

「あ、あゆむ!?」

 突然学校とは反対方向に走り出したボクの背中に、ふたりの驚いた声が届いた。

 だけどボクは振り向かなかった。

 振り向くのが怖かった。

 

 正直にふたりが付き合いはじめたことを言ってくれなかったのが辛かった。

 ふたりとは別の世界にいる自分が悲しかった。

 変態できず、ずっと幼生のままのボクは、どんどん男の子になっていく光君や、日に日に女の子になっていく紫苑ちゃんに、置いていかれるような気持ちを覚えることがあった。

 それでもふたりがいつも一緒にいてくれたから。

 左を見ればいつだって光君が。

 右を見ればいつだって紫苑ちゃんが。

 ボクの左右にふたりがいてくれたから、ボクはいつも笑顔でいれたんだ。

 だけど、さっき、ボクを置いていくふたりの背中を見て感じたんだ。

 今度こそボクはふたりに置いていかれたんだなぁ、って。

 もうどうしようもないんだなぁって。

 それでも笑顔でいなきゃって、思ったんだけど……。


 この時、ボクはようやく本当の自分の本性を知った。

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