第5話 ふたりの時間
「えっ、自転車は『bicycle』だから、『bike』はオートバイだろ!」
「なに言ってんの? オートバイは『motorcycle』よ。オートバイは和製英語」
「マジかよ!?」
「んー……じゃあ光君、さっきの模試の英語長文、どんな話だと思ったの?」
「えっと、バイクをかっとばして秋葉原に買い物に行ったら、いつの間にか暴走族に入っていた話?」
「オタクな少年が自転車競技の魅力にハマっていくスポコン話を、どうやったらそんなヤンキーものに訳せるのよ、あんたは?」
模試では必ず三人集まって答えあわせをしたり。
「ノルウェーの海岸などに見られる氷河によって削られた地形は何と言うでしょう?」
「えっと、たしかフィヨルドだっけ?」
「ですが、よく似た日本の東北地方に見られる、河川の侵食によって出来たギザギザの地形は?」
「リアス式海岸、だったよな?」
「ですが、さて問題です。東経10度のノルウェーの首都オセロと、東経135度の日本の首都東京との時差はおよそ何時間でしょう? 端数は切り捨てでよし」
「へ? 時差?」
「簡単だよ、光君。経度が15度ごとに一時間の時差があるから、東京からオセロの経度を引いて15で割ればいいんだ」
「ナイス、あゆむ。ってことは120を15で割るんだから8時間だ!」
「……ぐっ、正解だけど、光は小学生から算数をやりなおすべきね」
「はぁ!? なんだよそれ、正解されたのが悔しくて難癖つけるのかよ?」
「あんたねぇ、135-10がどうして120なのよっ!」
「あ? ああああああああっ!!」
休み時間や通学中も、こうして三人で問題を出しあってみたり。
「……この雨量、それに弾丸ライナーで飛び込むホームランのような軌跡を描くグラフ……うーん、どっかで見たことがあるぞ」
「あはは、さすが光君っ、野球に絡めると記憶しやすいんだね」
「てか、こいつ、数学の『秒速一センチで移動する点P』だとダメだけど『時速160キロの剛速球』って言い直したら正解率がぐんと跳ね上がるのよね。完全な野球バカじゃん」
と言いながら、光君に教えるには野球に絡めるのが一番だと分かって、ボクたちはほっと胸を撫で下ろしてみたり。
こんなふうにいつも三人が一緒で、しかも揃って難関の高校へ進学しようと力合わせて勉強をする日々の中、ボクたちはかつての恋愛感情なんて知らず、ただひたすら仲が良かった頃へと少しずつ戻っていく。
……とは言え、相変わらずボクたちの間にはあの問題が残っていた。
「あーゆーむー。これ、あげる!」
ある日、光君が席を離れた隙を見て、紫苑ちゃんがボクに手鏡を渡してきた。
「えっと、なにこれ?」
「あのね、あゆむ」
紫苑ちゃんがちょっと頬を赤らませ、ボクに耳打ちしてくる。
「あゆむって自分のアソコ、ちゃんと見たことある?」
「ええっ!? ないよ、そんなのっ!」
思わず大声になってしまった。
でもしょうがないよね。一体なにを言い出すんだよ、紫苑ちゃん。
「だよねぇ、私もないもん。でもね、聞いちゃったのよ。男の子たちってさ、おちんちんが生えてくる前に自分のアソコを見てムラムラしたんだって。どうやらそのムラムラが男の子にさせるらしいよ?」
だからその手鏡を使って、あゆむもムラムラして男の子になっちゃいなさいって言われた。
そんな無茶苦茶な。
でもって光君も光君で、これまた紫苑ちゃんがいない時に
「あゆむ、ひとつお願いがあるんだ」
と真面目な顔で迫ってきたと思うと
「俺、将来は自分の野球チームを持つのが夢なんだ」
なんてことを言ってきた。
夢自体は別にいい。光君らしい夢だと思う。でも
「うん。だけどそれをどうしてボクにお願いするの?」
「だから子供は最低九人欲しいんだよ」
「へ?」
「俺、頑張るから、あゆむもお願いだから頑張ってくれ。なっ?」
なっ? じゃないよ! なんて話をしだすんだよ、いきなり。
そんなわけでボクたちはやっぱり相変わらずで。
次はこれをなんとかしなくちゃいけなかった。
「……ねぇ、紫苑ちゃん、こんなこと言っていいのか分からないけど……」
学校が終わり、ボクの家に集まって勉強をしている時のこと。
ボクはあることを紫苑ちゃんに話してみることにした。
「なに? 私とあゆむの間に遠慮なんて不要よ?」
ただし光、あんたはもっと遠慮しなさいと、分からない問題があるたびにヘルプを求めてくる光君を紫苑ちゃんは睨みつけた。
光君はそんなのどこ吹く風とばかりに無視を決め付けているけれど。
「あのね、じゃあ言うけど……紫苑ちゃん、最近ちょっと太った?」
「ぶはっ!?」
紫苑ちゃんが思い切り噎せた。口の中で頬張っていたクッキーが気管に入っちゃって激しく咳き込む紫苑ちゃんをボクはおろおろと、光君はニヤニヤと笑いながら見守った。
「はぁはぁはぁ、び、びっくりした」
「ご、ごめんね。そんなに驚くとは思ってなかったんだ」
「ううっ、謝らないで。なんかもっと惨めになってくるから」
今でさえ十分すぎるほどに落ち込んでいる紫苑ちゃんの姿に、ボクは申し訳ない気持ちになった。
太ったって言っても、ほとんど見た目では分からない。なのにこんなに落ち込むなんて。女の子って大変なんだな……。
「た、たしかにちょっと太っちゃったの。でも今は受モデル業もお休みしてるし、受験が終わってからダイエットしようと思ってたんだけど……」
外見にも影響が出てきているのなら、今すぐにでも始めないと! と紫苑ちゃんがいきり立った。
うん、昔から自分の容姿には人一倍気を使う紫苑ちゃんだもんね。きっとそうくると思ってた。だったら……。
「あ、それなら光君と一緒にランニングしてみるってどうかな?」
「えっ!?」
「ええっ!?」
ボクの提案に、ふたりが驚いた声をあげた。
ちなみに光君は純粋に想定外でびっくりした感じ。対して紫苑ちゃんは「なに言い出すの!?」とちょっと非難めいた驚き声だ。
「光君、朝にランニングしてるよね?」
「ああ。勉強も大切だけど、身体を鈍らせるわけにもいかないしな」
「それに紫苑ちゃんも付き合わせてあげてよ。普段勉強を見てもらっているお礼も兼ねて」
「えー!?」
光君が「マジでか?」とばかりに紫苑ちゃんをマジマジと見つめる。
「ちょ、光、その見下したような目はやめなさい! てか、一体何を言い出すのよ、あゆむ?」
「だってダイエットするんでしょ? 丁度いいかなって」
「よくないわよ。なんで私が光なんかと一緒に……」
それに、と紫苑ちゃんは光君をちらりと見て
「光だって自分のトレーニングの足を引っ張られたくないでしょ? 私、ほら、あんまり体力ないし」
いつもは強気な紫苑ちゃんにしてはしおらしいことを言った。
でも実際、紫苑ちゃんは運動が苦手だ。
子供の時も光君やボクと違ってボールを蹴るのも投げるのも苦手で、走るのも遅かった。
「ああ、ホントにお前、昔から体力ないよなぁ」
弱気な紫苑ちゃんに、光君がはぁと溜息をつく。
「覚えているか? 小学生の頃、遠足で山に登ったけど、お前、すぐに疲れちゃってオレとあゆむが変わりばんこで背負ってやったことがあったろ?」
言われて思い出した。あれは大変だったなぁ。
「な、なによ、そんな昔のことを今さら掘り返さなくてもいいじゃない。それに今はあんたが」
「ああ、今はオレがお荷物だよ。けど、あゆむや紫苑が面倒見てくれているおかげで、ちょっとずつ成績があがってきた。ホント、感謝してる」
光君が深々と頭を下げた。
ボクも思わずつられて頭を下げる。驚いた。光君がこんな素直に感謝言葉を口にするなんて。
実際にほら、紫苑ちゃんなんてあまりのことにポカンと大口開けて呆けているし。
「困っている仲間がいるなら手助けしてやる。仲間ってホントにいいよな。たださ、最近それで思ってたんだ。あの遠足の時、俺たちがやったことは本当に紫苑のためになったのか? って」
「は?」
「本当の仲間なら『ガンバレ!』って応援して、手を繋いだり、肩を貸してやったりして、自分の足で登らせるべきだったよな、って。だから」
光君がいつものようにニカっと笑う。
「今度こそ間違いなく手助けしてやるぞ、紫苑。よし、明日から早速ランニングだ!」
爽やかさ五割、ニヤニヤ五割の「してやったり!」の笑顔だった。
「ええっ!? いいわよ、そんなの!」
「なーに、遠慮するな。いつもお前にはお世話になってるからな。その分みっちりと仕返し、じゃなかったお返ししてやるからな」
「仕返し! 今、仕返しって言ったわ、こいつ!」
「ははは、細かいことは気にするなって。よし、明日は朝の五時に近所の公園に集合。いいな、紫苑!」
「えええっ、ヤダ、絶対行かない! ちょっとあゆむ、笑ってないで助けてよう」
「うーん、ボクはいい機会だと思うよ? 紫苑ちゃんはもっと体力をつけるべきだと思ってたし、丁度光君もいるしね。ふたりとも頑張って」
ボクは両手を肩の辺りでぷらぷらと振って、ふたりにエールを送る。
「えっ、何言ってんだよ、あゆむ。お前も一緒に走ろうぜ」
「そうよ、あゆむだけ抜け駆けしようなんてずるいわよ」
……まぁ、そうくるよね。今までなんだかんだでずっと三人一緒だったもん。
だけど。
「うーん、ごめん。ちょっとね、朝は別にやらなくちゃいけないことがあるんだ」
ボクはきっぱりと断わった。
「なんだよ、やらなくちゃいけないことって?」
「それもみんなでやればいいんじゃないの?」
それでも粘るふたりに、ボクはダメを押す言葉を告げる。
「気持ちは嬉しいけど、これはボクひとりでやらないとダメらしいんだ。意味、分かるよね?」
あっとどちらかともなく言葉が零れ出た。
「だからね、ランニングはふたりで、ね?」
光君には紫苑ちゃんの体力を考えたメニューをお願いして。
紫苑ちゃんにはすぐに諦めないで頑張ってみようよと励まして。
ボクは重い空気を一掃しようと、明るくふたりのランニングを後押しした。
でも、実は払いのけたかったのは空気だけじゃない。
ボク、ウソをついたんだ。
朝にボクひとりでやらなくちゃいけないことなんて何もない。
しかもふたりが何も言い返せないことまで匂わせて……ホント、サイテーだ。
そうするしかなかったとは言え、ふたりへの負い目で心の中に燻り始める黒い煙を必死にボクは追い出そうともがいていた。
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