あれから働かない思考のまま人の波に押され茶屋の前に出される。店先には予想通り騒ぎを聞き顔を拳を強く握る利玄は弥凪の表情を確認し青褪め駆け寄る。無言のまま和室に薄汚れた仕事着のまま倒れ込み後片付けを続ける利玄に申し訳ない気持ちがあるが今は1人静かに目を閉じ深く眠る。



翌朝利玄より先に起きた弥凪は昨夜入りそびれた湯屋に向かうと置手紙をし茶屋の裏口から出て行く。湯屋の表側で開店を待つ予定であったが湯屋は昨夜の辻斬りの一件で入りそびれた人々で賑わい店主が堪らず開店時間をだいぶ早めたそうだ。湯屋の帰りその近場南橋に立ち寄るとそこは一時通行止めと張り紙がある。それを眺める弥凪の肩を背後から昴が叩く。朝方まで情報を集め走り回っていたのか乱れた髪に強い汗の香りがし目に黒い隈が見て取れる。


「また湯屋に行かなきゃね」と苦笑いし瞼を擦る昴に一人現実から逃げ眠ってしまった自分を恥じ眉を顰め押し黙る弥凪の頭に優しく手を乗せた。


「今朝方まで走り回ったけど辻斬りの正体は分からなかった」

ごめん、と謝る昴に顔を上げられず地面を眺め続ける弥凪に残りの言葉を告げる。結局殺されたのは見知らぬ女だった。まだ若く歳が二十くらいの女は胸を赤い血に染め心の臓を一突きで東区長屋の裏で息絶えていたと言う。最初に声を上げた者はその長屋に住む仕事を終え帰宅する途中の男。女の悲鳴で何事かと顔を覗かせるとそこには後姿で地に濡れた刀をぶら下げ息絶えた女の前に立つ人斬りで、目撃した男の短い悲鳴に気付き自分も殺されると目を瞑ったそうだ。だが男を見逃し横を擦り抜け逃げ出した人斬りは夜の闇に消え、残され拍子抜けた男は飛び起きこの町で話に上がる「辻斬り」にその人きり結び付け声を上げたという。


その後無事情報を伝え終えた昴は湯屋に足を進め、弥凪は茶屋に戻る。裏口に入ると台所でいつもより早い時間先に仕込みをしていた利玄に驚きつつも、まずは朝の挨拶をしその後弥凪は急いで仕事着に着替えるために和室に駆け込んだ。



―――――

―――


「よっ! 今日も変わらずぼーっとしてるね」

店内の掃き掃除を終え、1人長椅子に座り夜風に当たり今の心境と同じような暗い空を見上げる弥凪の肩を気配なく隣に座っていた昴が叩く。それに驚き肩をビクつかせ一度昴と目が合うが暫くの沈黙後軽い返事をしまた何も無い空を眺めていた。あれから数日経過しているが弥凪は何処か上の空のままだ。


弥凪を心配し毎日茶屋に足を運ぶ昴は実際の所お手上げ状態。反応の薄い弥凪を茶化す気にも再度辻斬りを恐れ静かになりつつある町で出来ず、上の空のまま少し窶れ《やつ》た様子に見える。茶屋で仕事のミスをする弥凪を眺めるのも苦しく最近は夜片付けの最中に訪問する。

声掛けた1度の反応以外また静かに座り込む弥凪に手持無沙汰の昴は手遊びをし同じように楽しげのない変わらぬ夜の空を共に仰ぐ。ゆったりとした時間が流れ暫くすると弥凪が口を開く。


「今日常連さんに美味しそうな大福貰ったよ。なんか元気ないね、ってさ」

食欲がないと、呟き眺める先を昴は見詰めそこには表面が乾き硬くなる大福が小皿に乗り長机の隅に置いてある。眉を顰め変わり行く弥凪に昴は唇を震わせ何とかいつもの笑みを作りだし力強く背中をバシバシと叩いた。


「そ、りゃ何日もぼーっとしてりゃ心配もされるってもんよ。ほらほらいつもの弥凪さんは何処へ行ったかな? んん?」


昴は人差し指で目頭に当て引き上げ目を鋭くさせた。「いつもの弥凪」といいその鬼のような鋭い目を作りからかうもやはり最近と同じで無反応。反撃がない。


身体に力が入らない。無気力に襲われる弥凪は顔の影を濃くする。

弥凪本人も気が付く心の変化に戸惑う、いつもみたいな明るい笑顔が作れずきっとそれは張り付いている。その様子に利玄も眉を寄せるが特に何も言わず見守っている様子だ。励まし無言で利玄は頭を撫でるがいつものような幸福で温かな気持ちになれず内心で弥凪は困惑した。町に再び辻斬りが出現したあの日の事を利玄は聞くことは無かった。利玄はあの時「辻斬りが南橋方面で出現した」と言う情報で南橋から戻る弥凪を見て現場を目撃し内心的に傷付いたと察したのだろう。事件を思い出さないように何も言わず優しく見守っていた。その優しさに弥凪も気付いているものの力の入らない手のひらをただ呆けて眺めているだけだ。


「…」

「はぁー…ったく」


頭を無造作に掻き毟り夜も更け湯屋から戻る利玄と入れ替わりに昴はそのまま弥凪を置いて帰宅する。


利玄の帰宅に長椅子から飛び起き、店先で深く頭を下げ再度謝罪する。

弥凪の不注意で片付け最中に冷めた茶と茶葉を引っ繰り返しそれが利玄に降り注ぎ顔を青褪め半泣きで平謝りをする弥凪を落ち着かせ先に湯屋に向い1人で茶屋の台所から掃き掃除まで終えたのだ。


次は気を付けるように言い聞かされ、弥凪も湯屋に行く準備をし裏口から表へと出る。あれからまた辻斬りは出現していない。息を顰める今の状況、前例のない手口と被害者が女性との事で町人は恐怖し役所で巡回を増やすよう強く願う。今ではそれが叶い昼間も見回り、夜は出歩く事は自主的に避けるが仕事終わりでどうしても夜湯屋に行く事になる商人のために湯屋付近だけ巡回する。日付が経ち通行止めとなっていた南橋は人が行き交う。


あの日、場に滝川の姿を確認したのは弥凪1人だけだったのだ。南橋から辻斬りの情報を集め走り回る昴さえその姿を見ていない。滝川がその場に居たことを口にしたのは昨日の事。自分の信頼していた人物の怪しい行動、まさかと悪い予感が頭を駆け巡り首を横に振る毎日、ただ偶然に辻斬りが出現した方面に居ただけで襲われずに無事な姿を確認出来たのに胸騒ぎが止まらない。引き続き滝川が茶屋に顔を出すことはなかった。


心情を察し「声で話してくれて有難う」と眉を顰めつつも安心させるように柔らかく微笑む昴の優しさで胸が痛くなる。



―――――

―――


「滝川源があの宿屋から消えた」


相変わらずな面持ちの弥凪に向かい昨夜より早い時間に訪問した昴が重く口を開いた。滝川の単語に一度肩をビクつかせたが暫し硬直後振り返る。当人は茶屋まで走ったようで頬に伝う汗を乱暴に袖で拭い息を整える昴の言葉を待つ。


「奴が宿屋に幾日ぶりに戻ったって仲居から連絡貰ってな、急いで駆け付けたけど物抜けの殻。室内から返り血を浴びた黒い着物と血を拭った布が押入れの奥に隠すように置かれていたのを見付けた。宿代より多い額を机に置いて消えたんだと」


言葉を聞き終え小さく乾いた笑い声を上げた弥凪に昴は勢いをつけて顔を上げた。

弥凪の表情は月が雲に隠れ暗く読み取れない。距離が近い事で身体の震えが見て取れた。言葉を無くし押し黙る昴に弥凪はゆったりと言葉を吐く。


「臣が辻斬りじゃなかったね。言われて見ればあの人凄く強いし、この町に来た日と初めて辻斬りが出現した日はズレているけどこんな田舎町に、城下町に向かう最中の休憩で来る旅人と違って今日まで長期滞在、奇妙だもね」


暫く押し黙り続けていた弥凪はこれまでを取り戻すかのように酷く口元が強張り喋りにくいが無視し昴に向かい語る。


「不思議と驚かないものね。やっぱり心のどこかで疑っていたんだろうね。斬るためにこの町に来たのに利玄様や子どもに、私に焦がれ好かれ内心笑っていたんでしょうに。あの芸だって町人や子ども達を安心させた行為は結局はそこからまた更なるどん底に突き落とすための下拵したごしらえだったんでしょう」


流暢りゅうちょうに言葉を洩らす弥凪は内心に溜まり続けた思いを全て吐き出しているようだった。心身冷えても瞼は焼けるように熱い。流暢に語る弥凪の名を呟く昴を流し、唇を震わせ言葉を続ける。


「でもね…やっぱり心の中のどっかで嘘だと嘆いている私がいるのも事実なの。だってただの下拵えの行為でも、あの時確かに皆に笑顔が戻った。場が和みその恐怖を受け止め前に歩き出す勇気を貰った」


静かに揺れる雲が動き月を覗かせ、その淡い月光が暗闇をゆっくり照らし出す。

腰紐と共に巻き付けた白布を強く握り締め震え瞳のこれまでの黒く濁った曇りが涙と共に零れ落ち頬を撫でる。大粒の涙を零す弥凪を昴は沈黙のまま眺めた。涙は黒無地の着物に吸われる。


「あんな優しく人を思いやれる人が辻斬りの筈がない」


言い切り未だに真剣な表情を向け押し黙る昴と目を合わせやがて瞼を閉じる。瞼の裏に焼け付く姿は川辺で顔に影を落とし押し黙る姿ではなく、人々と触れ待つ妻を想い顔を砕かせ微笑む滝川だ。


「…弥凪がそう思うんならそうなんじゃない?」


暫く沈黙していた昴から出た軽い口調に弥凪は拍子抜けした声を上げそれを見て吹き出し笑い肩を震わせる。鼻水と涙で酷い顔をしていると昴から手拭いを差し出され羞恥に染める顔をそれで隠し拭う。涙で濡れた箇所が秋風が染みるだろうと着ていた羽織りを弥凪の背中に掛け店先前の長椅子に座らせた。

すっかり雲の無くなった空に登る月に向かい大きく背伸びをした昴は大きく袴の上から太腿を叩き意気込み声を上げた。


「なーんだ。弥凪が完全に滝川が辻斬りと決めつけたと限り」

長椅子に座る弥凪の前をくるりと一回転をし何処か楽しげな口調で言葉を続ける。


「調べてみた所、いろいろ矛盾点が出てくる。まず滝川が何故臣を怪しいと言ったか」

「それは滝川自身が辻斬りとばれないように擦り付けようとした、と思ってた…」

「滝川は本当に辻斬りを臣だと思っていたんじゃないか? それに辻斬り被害の前に違う場所で滝川の姿を見たって情報を手に入れた。場所はこの西区の公共施設、南橋に近い位置だけど辻斬りの声が上がった際滝川はそこの従業人と話し込んでいたのをその人が証言した」


新たなる情報を突き付け話し出す昴に拍子抜け口をあけた弥凪の鼻を人差し指で押し当て微笑む。


「つまりまだアレコレ決めつけるにゃ早いってことよ!!」


伝達屋を舐めるなよ、と威張り腰に手を当てる昴のペースにいつの間にか乗せられあっという間の場の和みに思わず小さく笑う。


「伝達屋って探偵業務も入っているのね」


情報を集め人に伝えることは変わらないと、白い歯を見せ付け頭をぐりぐりと乱暴に撫で回し騒がしい。満足したのか最後に大きく息を吐き手が遠退く。


「だーかーら! 弥凪もあの愛しの利玄様にも滝川の事を言うんだぞ」

「えっ?」


利玄の名を聞き弾けるように顔を上げた弥凪と目が合い昴は店内に目を向ける。店先で語る二人の話をきっと気配を殺し利玄は聞き耳を立てているだろう。利玄は弥凪の事を本当に大切にし心から心配をしている。


「心配かけすぎるといつか倒れちゃうぜ? ちゃんと腹括って話な、今回の件もこの先の事も」


店内を変わらず眺める昴に首を傾け同じく視線を移すと店先の影からばつの悪そうな表情を浮かべる利玄が現れた。思わず利玄の名を呼ぶと弥凪に苦く笑い掛け頬を掻く。


「いいか約束だからな! そんで明日からまた頑張ろうぜー!!」


二人を置き1人茶屋を後にする昴は腕を頭の後ろで交差する。足取りが軽くそのまま長屋の方面夜の闇に消えた。背後から利玄が弥凪の名を呼ぶ声に肩をビクつかせ振り返る。何処まで話の内容を聞き耳されていたのだろう、内心焦りつつも先程言う昴の言葉を思い出し正面で向かい合う利玄は表情硬く沈黙し静かに弥凪の言葉を待つ姿に胸に置いた拳を握る強さを増す。


「利玄様、お話があります」

「そうだなワシも話がある」


お互いに表情を変えず利玄和室に来るように命じられ店先の暖簾を外し戸をゆっくりと閉め目当ての場に向い足を進める。



―――――

―――


数度襖を軽く叩くと中から利玄の声がし閉じた襖を開ける。

六畳の空間奥に深く座布団に腰を掛ける利玄は胡坐を掻く。その前に置かれた同じ柄の座布団の上に弥凪は正座し両手を太腿に乗せた。


和室はこの茶屋内唯一の隔離部屋二人の私生活を送る空間、普段着替える際に使う隅の間仕切りはまとめる事なく今朝のままにしてある。黄色く変色した畳の上、低い木の机の上には利玄が愛読する書籍が数冊重なり共有する大き目の古木の箪笥は隅にある。家具をあまり置かずスッキリとした空間だが奥に座る利玄から威圧感が強い。互いに暫く沈黙し唾を飲み弥凪がやがてゆっくりと口を開く。


「利玄様、お話があります」


先程と同じ言葉を投げかける。互いに眉を寄せるも利玄の目には微かに肩を震わす弥凪を見て取れ1つ大きく溜息を洩らす。


「…そんなに緊張しなくてもよい」


口元を緩め場を和ませようとする利玄に一度笑い掛け肩の力を抜く。この状況でまだ弥凪を優先し砕き話しやすい空間にさせる利玄に頭が上がらない、心から深く尊敬するこの人に己の覚悟を示さなければならない。いつまでも隠れ行動しそのために偽りの言葉を信じ眉を潜ませ心配する利玄を見るのはもう嫌だ。膝の前に四本指を揃え肘を曲げ身体はそのままに頭だけ深く下げる。


「利玄様、まず貴方様の申し付けを破り今日まで過ごしていた日々をお詫び申します」


重ね重ね事件に巻き込まれ鉄砲玉のように飛び出しいつか客に切り捨てられそうになった姿を見て以前に利玄は弥凪に命じていた。「危険な事に自ら進まない事」その命を破ったのは最後あの夜東区で辻斬りが現れた時、それ以前に極秘に滝川や昴と行動し敵地に乗り込み情報を集め偵察する姿はただの好奇心とは言い訳が付かない。誰が見てもそれはただの茶屋の町娘の姿ではない。


全て告げ終えると強く目を瞑り眉間の皺を伸ばすように指を置く利玄の顔を見ることなく下げた頭を上げず続けて言葉を洩らす。


「罰を受ける覚悟は出来ています。それでも私は今までの行動を後悔はしておりません」


伏せた頭を上げると険しい表情をした利玄と目が合う。見つめている瞳は獣の如く光り呆れとも怒りとも言えぬその顔付きに怖気づく事ない弥凪の様子に微かに不愉快と片眉を動かし弥凪は淡々と意志を告げる。


「それでも如何しても私は事実が知りたいのです。大好きなこの町が脅かされている今の現況を、それに疑いは今あの滝川さんにも掛けられていると聞き耳を立てていた利玄様は把握済みのこと」


聞き耳という単語にまた片眉を動かしより一層険しい表情になる。強い威圧感に弥凪の表情は崩さないにしても背中に緊張で汗が伝い続けている。


「では、それで自分が死んでもいい、そう申すか!」


暫く沈黙しそれを聞いていた利玄は声を荒げ立ち上がり部屋の隅に立掛けている紅の紐を鍔に結んだ太刀を手に取る。引き抜かれた刃は横に弧を描き弥凪の首元刃が納まる黒い鞘部分を当てがい睨み付けるように見下す。利玄の豹変した行動に動揺を見せず正座を崩さず真っ直ぐに利玄の目を見詰めた。弥凪の冷静な面持ちに苦虫を噛み潰したような表情で噛み付くように荒く叫ぶ。


「確かに知り合いに疑いが掛けられ早急に真相を解明したい気持ちは分かる。だが弥凪お前はただの茶屋の、この利玄の娘だ。娘を危険と分かる道に進ませる事は出来ぬ!」


利玄は眉を八の字に下げ酷く切なげに叫び言葉最後は呟くように小さくか細い。

自分を実子のように可愛がり愛し心配をする義父のその姿に酷く胸が痛む。

もし鞘の部分ではなく刃が首元に押し当てられていたとしても弥凪は今と変わらぬ表情を利玄に向けていただろう。


「自分の身は自分で守ります」

「駄目だ!」


強情に利玄も引くことなく鞘部分を強く首に押し当て思わず弥凪は眉を顰める。


「今回の件だけでなくこれからまた違う件で危険な道を走り続けることでしょう。私は利玄様に幼い頃に命を救われた身、自分の命を粗末に考えておりません。必ず生き延び将来父の役に立つ娘になります」


弥凪から直に口にした「父」という言葉に利玄は動揺で当てた鞘を揺らしその隙に当てられた鞘を払い除け掴む。強く握られた鞘は利玄が引くもびくともしない。


「刺されると言うのなら身体に板を縛り付けましょう、軽率な行動は決して致しません。娘を信じ待つことは出来ないでしょうか」


最後まで意志を告げた弥凪はゆるりと鞘を持つ手を抜き、座布団から一歩後ろに下がり四本指を揃え深く土下座をする。


「お願い致します」


暫しの沈黙が残り、やがてどさっと側の畳に腰を下ろした音に遅れ座る衝撃に手から零れ落ちた鞘が転がる。その後に聞こえる乾いた笑い声に顔を上げ様子を窺う、利玄は片手で顔を覆い身を震わせている。心配し思わず利玄の名を呼び駆け寄ろうとする弥凪に手の平を見せ静止させ満足したように1つ溜息を洩らし覆っていた手を退ける。


「…ワシももう歳かの」


見せた笑顔は目元を下げいつもと変わらず温かいもので小さく笑う利玄に酷く困惑した。そんな弥凪の手に転げ落ちた刀を手渡しそのまま頭を撫でる。状況を理解出来ない弥凪は更に困惑し表情を強張らせたが変わらぬ微笑みでそれが解れる。


「怒鳴ったりて悪かったね…」

「いいえ。我儘を云う私がいけないのです」


利玄の言葉に勢いよく首を横に振る。とても素直で愛らしい娘の頭から名残惜しそうに手を離しゆったりとした口調で話す。


「首に鞘を押し当てられ怖くなかったかい」

「怖くありません。それにこれ以上の恐怖は既にこの身に感じ受け止め済みです」

「そうか…」


零れ出た言葉に思わず口元を隠し気まずそうにこちらに目を遣る弥凪に点にした目を戻し小さく息を吐く。


「ならばこの刀を護身用とし持ちなさい。女の力では振り回すのにつらいだろうから違うものをと考えていたが…」

大切そうにその刀を握り締める弥凪に後半の言葉を小声にし、ゆっくりと立ち上がる。重く閉じる和室の襖を開け背伸びをする。


「過度な心配は年寄りの定め。結局の所ワシは弥凪を信じていなかったんだな」

当人には聞こえないようなか細く小さな声で呟き、それ気付いていない弥凪は「あっ」と言葉を洩らす。


「そう言えば利玄様からの話とは何だったんでしょうか?」

弥凪の言葉に思い出したように利玄は振り返り駆け寄り胸元から折り畳まれた紙を差し出す。その紙には人の名前・性別・歳など細かいその人の情報が記載されておりその名前に聞き覚えがある。


「よく多忙の際に茶屋を手伝い来てくれた者がいたろ、あいつを正式に雇用する事になった。以前の二人で床に伏せ店を休んだ事があったろ、それが今後また有るかも知れぬ。それに弥凪がいつ抜け出してもこれで仕事効率が悪くなる事はないだろう」


利玄の言葉に身を小さくする、思えば何度か鉄砲玉のように突き進み茶屋の応対から台所業務まで全て利玄1人で回していた日もある。抜け出す際は客足が途絶えた時を見計らいするが、その後の事は分からない。弱々しい声で謝る先程の凛とした面持ちと大きくかけ離れた弥凪に利玄は笑い掛ける。



―――――

―――


弥凪を助けた日の事を思い出す。

利玄が若い頃、仕事人間で家庭を顧みない性格で新婚である妻と甘い時間を過ごしたのは数えるくらい、付き合いを優先し毎回冷えた味噌汁を再度温め直す妻にいつもの詫びの言葉を投げかけ朝食をし済ませ仕事場に向かう。子宝には恵まれず夫婦二人で暮らすには十分過ぎる程の稼ぎをしていた。職場の同期に夫婦二人妻を大切にしなさいと言われたのは数えきれない、そんな時妻が重い病で倒れた。看病のために仕事を辞め結婚し初めて長く妻と共に時間を過ごした。「茶屋を開こう」そう申し出たのは利玄だ。上司の付き合いで茶道に顔を覗かせその場に先生としていた妻に一目で惚れ娶ったのだ。その申し出に嬉々し小さく声を洩らし骨と皮になる口元を緩ませた妻が息を生きとったのはすぐ後だった。


葬儀の後すぐに茶屋開業のための勉強を始め数年後やっとの思いで町の商家を借りることが出来、引っ越しのために荷物を取りに出身の村に戻ったのが二年前。


その日は幸先悪く荒れ模様、前例のない巨大な台風の接近で長引く雨で遠くで山崩れが起きたと聞く、川が氾濫し先の2つの村を繋ぐ橋が流されたらしく今いる村に避難指示が出た。


強くなる風の音に乗り男の「助けてくれ」という声が耳に入り辺りを見回します。その流された橋の側の木が倒れ下敷きになった男を村に残る数人の者で男はすぐに助けられ肋骨を何本か折れましたが命は助かりました。その男を安全な所へ運び人に預け自分は荷物を取りに戻ります。少しでもはやく町に戻り店を始めたい。村の東側にも先程流されたという川からそれよりは細く分かれた川がありその古い木製の橋は近々新しく建て替えると言う話を聞きます。そこも水嵩が増し隣の橋のように流されるのは時間の問題だと、内心でぼやいていると何かが動く気配がした。山から流された木や泥が橋を汚し、長い草が散乱する中を黒い塊が動いたのです。よく目を凝らすと泥に汚れているも白い人間の肌が見えたのです。


(子どもだ…!子どもがおる!)


ぼんやりと下を眺める子どもの元へ急いで走ると二人分と泥の重みで古い木造の橋が悲鳴を上げました。利玄の足元がバキッと音を立て割れるもそれをなんとか交わし子どもの元へと駆け寄ります。やがてその子どもの足元の板が二つに割れ、子どもの身体が大きく揺れました。


「…大丈夫か?」


利玄は子どもの手首をしっかりと掴みました。か細く平均以上に軽い身体を引き上げ抱えて橋を離れました。陸地に戻ると数秒後橋は音を立てて崩れ土砂に紛れて流されていきました。寒さで震える子どもを自分の身体に寄せるとカチっと金属が擦れる音がした。見るとその子どもは大人用の太刀を握り締めており、危ないからとそれを取ろうと力を入れてもビクともしません。やがて子どもがゆっくりと顔を上げました。


長過ぎる前髪は片目を覆い、右目だけが利玄を無言のまま見つめやがて子どもはふっと力が抜け意識を失った。子どもを抱え避難場所の宿屋に入り事なきを得た。

利玄は「弥凪」という名を少女に与え、顔を覆う程の重々しい長い髪をバッサリと切り揃えた。記憶のない少女に男は名と居場所を与えた。



―――――

―――


久しぶりの二人湯屋の帰り道、隣に寄り添い歩く弥凪は二年の歳月に明るく元気な娘に育った。


「あの時と同じ目をしているな」

意志のある強い魂を持つ瞳、利玄が小さく笑うと弥凪はそれを不思議そうに首を傾げた。今朝まで光の無い深く絶望し空の青ささえ濁って見えない死んだ魚のような目はすっかり消え失せていた。

店先で珍しく弥凪の荒げた声を聞き隣に昴が立っていた。あの昴が慰めの言葉を送ったのだろう、今まで心配しよく顔を覗かせは変わり果てる弥凪を見て顔を歪ませていたがお互い元通りになり良かった。


「…よいか弥凪。志は消して曲げてはいけないよ。必ず無事で帰ってくる事」

「はい」

利玄の言葉にしっかり頷き茶屋までゆったりと歩く、1人で突っ走る傾向がある弥凪を心配するも恐らく昴が支えてくれるだろうと顔を前に向けたまま一息つく。


「明日一枚羽織りを一緒に見に行こうか。今のままだと刀が酷く目立つ」


利玄のその言葉に嬉々とし頬を緩める弥凪に和みまた頭を撫でてやる。その手に擦り寄るように頭を近付け暫く幸せに更けていると弥凪が慌てて声を上げた。


「そう言えば昴に貸して貰った羽織りまだ店内に置きっぱなしだ、皺になるから早く掛けなくちゃ」


羽織りの言葉を思い出した弥凪は利玄に先に行くと告げ1人走り去る。いつもなら何よりも優先し利玄の側を離れなかった娘の早い成長に寂しく残され1人小さく笑う。

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