衝動

北橋を渡り川通りに弥凪を背負い歩く昴の横を慌ただしく走る人々の多さに首を傾ける。火消屋敷の者が東区の未整備の森に慌てて走っていった、長屋の奥様方の話声が耳に入る。みると東区の先、先程までいた方角から黒い煙が立ち上る。同じくそれを眺めた弥凪は短い言葉を洩らし昴の背中の着物を握り締めた。


これは後から聞いた話だが、幸い発見がはやく昼間で被害に遭った者はいないそうだ。これが深夜にでも起これば東区の一番近場である長屋で死者も出ただろう。風向きも幸運にも町外の方角で手前の町を囲む川のお陰で火が回る範囲が狭い。全焼は無人の古屋だけ周囲の草木を焦がし焼け野原、開拓予定地で手間が省けたと笑い飛ばす者もいる。火災の原因は不明で放火か古屋の生活名残が崩れ火種になるものが生まれた可能性もある。城下町では「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれ野次馬が多いと聞く。黒焦げ思い出と共に消えゆく果てを眺め歓喜する意味が分からないと内心で毒づき十分な情報で胸膨らせた野次馬に笑顔で聞く昴は周囲と同じように立ち会えなくて悔しいと眉を顰め見せる。




あれから帰りの遅い弥凪を心配し茶屋の店先で待つ利玄に昴に背負われた姿を見て絶句し、覚束無い足取りでそろりと近寄り利玄に事情を話す昴の言葉を全て聞き入れる前に「心配ばかりかけるんじゃない」と二人に向かい怒鳴り声を上げ店内にいる客は馴染みの光景で笑い声が上がる。「お転婆娘は今日も元気そうだね」と店内の男は愉快に声を上げ、声に驚き背中に顔をうめる弥凪に利玄は強めに頭を殴る。


「不良侍に睨まれ恐怖で腰を抜かした弥凪にたまたま町に戻ってきた俺が助けに入った」

改めて事情を聞く利玄と背負われる弥凪は互いに蒼白し1人昴はへらっとした笑みを浮かべていた。その後弥凪を和室に運ばせた昴に礼の言葉と饅頭の入る袋を持たせ帰らせた。店内の馴染みの客に少々離れると言い伝え、正座で縮こまる弥凪に説教を垂れその後三日程外出禁止の文字を強く投げ付けられたのであった。



―――――

――


「やぁ、弥凪ちゃわん! ご機嫌はいかがですか?」


外出禁止の命が解かれ暫く日数が経つ頃に、軽い足取りで昴が現れた。

随分久しい顔にこの数日は町を離れたツケで仕事が山積みになりそれを淡々と片付け終えて来たそうだ。店先で何度掃いてもキリがない枯葉を血眼で片付ける弥凪に聞かせた昴は大きく手を振り川側の長椅子に腰を掛ける。


「団子を三十買ってくれたら答えてあげる」

悪戯気に笑う弥凪に「冗談キツイよ」と昴は苦々しい顔をした。


「いつもそれくらいペロリと召し上がる貴方なら別に何ともない数じゃないの?」

「…召し上がるよりも銭的にキツイ。昨日ちょっと使い過ぎて懐が寒くて風邪引きそうだ…お薬で弥凪の笑顔を貰いに来た」


満面の笑みで広げられた両手を軽い音を立て弥凪は叩く。軽い冗談と言い叩かれた箇所を撫でる昴を横目に弥凪は思う。


「…風邪か」

昴のその一言が頭の中を掻き乱す。ここ最近、滝川源の姿を見ていないのだ。

あの一件、共に古屋を覗き見た夜から茶屋に足を運んでいない。古屋が燃え落ち情報は灰になり飛ばされた。昴を行かせ情報を読み取ろうとしたがそこはもう空で撤去後だと聞く。

旅をしていると言うがもう町を離れてしまったのか。


(私に黙って?)


内心呟き切ない気持ちになる。少しの間だが目的を同じに古屋に忍び込んだ仲と言うのに何も言わずに去ってしまったのか。それとも極秘で一人行動しているのではないだろうか。あの様子から海賊に深く興味を持ち始めたのは明らかだ。興味深く臣の隣を陣取る海賊の少女を眺めていた目を思い出す。その目は好奇心と言うより何か縋るような目付きだ。

そう言えば今日こんにちまで辻斬りの噂もぱたりと消えた。移動したのかただ単に息を顰めて町をうろついているのか。


「おーい、どうした?」

箒の手を止め枯葉を眺め考え更ける弥凪を見兼ねて昴が声をかける。顔を上げると心配そう眉を顰め眺める昴に「何でもない」と頭を横に振る。


「…ねぇ昴。滝川源って人知らない? この月に来た旅人なんだけど」


人相や風格など事細かに情報を話す弥凪に昴は頭を傾け考え込むように口元に手置く。


「知らないな、そいつがなに?」

「…最近知り合った人で…昴が戻ってくる前は毎日会いに来てくれたのに、今日も来てくれないんだ」


寂しげ唇を結び滝川を思い出し溜息を付く。その様子を怪訝の表情で見つめ顔に影がかかる昴は「そいつ男?」といつもより声質を低く呟いた。

顔を上げる真剣な表情を向ける昴にその意味が分からずも素直に弥凪はこくりと首を縦に振る。暫しの沈黙の後、昴は絞り出すようなか細い声で洩らす。


「…浮気だな」

「…はい?」


その言葉に弥凪の頭は真っ白になった。

”浮気”とは恋仲になった二人のうち片方がその相手以外に思いを寄せる事。

勿論弥凪と昴は恋仲ではない。反論の言葉を洩らす弥凪に合せて叫ぶ昴は身体を震わせる。


「俺がいない間に他の男と仲良くなるとか浮気だろ?! もう俺には飽きたっていうの! きー酷いわ!!」


何処からか布を取り出し噛み締め叫ぶ。その大声が店中に響き渡り台所にいた利玄が様子を見に来るまでだ。


「俺とは遊びだったのね! 信じてたのにぃ!」


甲高い声を上げ地団太を踏み長椅子を揺らす昴に何事かと通行人が顔を覗かせる。

その瞬間昴の顔面に箒で殴りつけられた。後から駆けつけられた利玄に頭を一発強く殴られ悲鳴を上げる昴から押付けた箒を退ける。


「落着きなさい」

「…営業妨害は止めるんだな小僧」


間抜け面の昴に飽きれ顔の利玄とゴミ虫を見るような目で見る弥凪は呟いた。

不貞腐れる昴を室内に引き摺り机と対にある手前の長椅子に自身もその隣に座る。


「だってさ弥凪ったらソイツの事凄く心配そうな顔で話すからさ…何、ソイツの事好きなの? 恋してるの?」

阿呆らしい事を洩らす昴に否定の罵倒を浴びせ思わず頬を膨らませる。


「生憎こっちは立派に恋愛出来る程器が育っていないよ。大体あの人は既婚者だし、確かに格好いいけど利玄様程ではないというか…あんなお兄ちゃんいたらいいなーって思っただけよ」


弥凪の中では一番いい男は利玄と当たり前の顔で言いそれを苦笑いし受け流す。色恋沙汰よりも家族を取る弥凪にいつ春が来るのかと昴はため息を漏らす。「何なら俺を候補に」と意気揚々と声を上げる前に対にある机の奥、昴の背後からの声に被される。


「確かにここ最近、あの若者は見ないの」

まったりとした口調でこちらを眺め茶を啜る利玄に二人は目を点にさせる。弥凪自身もその気配に気付いておらず先程の盛大な告白を思い出したのか顔を朱に染め上げ手で顔を覆う。どうやら本人には告げず身に秘めている想いのようだ。あまりにも真顔で告げるものだから当然本人に報告済み或いは面倒な男の掃い言葉で当人から告げられている事かと思っていたが違うようだ。


羞恥に身を縮込ませる弥凪はいつからその場にいるのか利玄に問うとどうやら昴を引き入れた際から、つまり最初からいたと飲み終えた湯呑を置いた。

気配の消し方が実に見事で今度から耳に入れて欲しくない事柄を話す際は茶屋以外にしようと弥凪と昴は目配せをし苦笑いする。


「てっきりあの自由奔放さで町をぶらついているかと思っていたけど」

「宿屋に世話なってるんだろ?室内に籠っているとか?」

「うーん、風邪で床に伏せる程の病弱気質でもあるまいし…」


弥凪と昴は言い合い首を傾ける。陽気な滝川の事だからもし風邪を患い床に伏せているとしても翌日にはケロとし近所の子どもに雑じり走り回っていると予想する。

ただ西区に用事がなく茶屋に顔を出さないだけかもしれないが、あの一件の事で相談したいと弥凪は滝川が現れるのを待ち続けの今である。暫し考えぐるりと店内を見渡す。店先の掃除も一通り終わり皿も全て洗い終え、今は飯時から離れ客はいない。


「…」


謹慎も解けもう外には自由に出掛けられる。宿屋の住所も控えており距離的にまだ日が明るいうち遅くても夕方には帰宅が出来る。縋るような目で恐る恐る利玄に視線を移しそれに溜息を溢す。


「…行っておいで」


条件として一人ではなく昴を連れて向うようにと諦めたように利玄は呟く。言われるまでもなくお供する気満々であった昴は長椅子から腰を上げ凝り固まった身体を上に伸ばす。


「ほれ、この団子を届けてあげなさい」

手土産にとみたらしの甘辛い香りが鼻を擽る団子を数本布袋にまとめ弥凪に手渡す。

くれぐれも気を付けるようにと念押し頼みの綱である昴に目配せをする。無言で頷く昴に大げさだと笑おうとするが弥凪は前歴があることを思い出し沈黙のまま店先の暖簾を潜る。


「折角の縁じゃ、町にいるうちにまた顔を出しなさい、と伝えるのだよ」


「行ってきます」と二人は声を揃え利玄に言うと店を飛び出す。転ばないように大切に団子を抱え直し少し先を歩く昴に追い付くために駆け足で寄り添った。



―――――

――


東区の中央宿屋とその付近商家が立ち並ぶ道で目的の住所の宿屋を探す。西区が敷地が広く公共施設が多い事からこちらの敷地に特に用事はなく東区に立ち入るのはとても久しい。最後に来たのはあの一件で、後にあの古屋が焼け落ちた事を知る。短い石段はそのままに草が燃え落ち土がむき出しになった場所に焦げた木々が積まれていた。ここは新しい長屋を建てる予定であるらしい、今は先に場所を取るあの木々を加工する事から始まりそうだ。燃えた表面を削り取り内側を薪として使うのかそれは大工業が町長に相談し決めること。


東区は北側に町外と繋がる大橋がありそこから城下町へ向かう旅人が訪れ施設を利用する。宿屋二階の窓に身体を預け空を眺める客人がいた。煙管の煙がゆったりと空に上がり弥凪はその様子をぼんやり見詰め視線に気付いた客人はにこやかに此方に手を振る。


(優しそうな人だな)

物腰柔らかに手を振る客人に手を振り返し内心呟く弥凪に隣にいた昴が歓喜の声を上げる。


「あった、弥凪ここだ!」

元気よく腕を振り宿屋を指差し騒ぐ。新鮮な野菜を籠に入れ旅館の裏口の扉を通る仲居がこちらの様子を見て小さく笑い思わず顔が熱くなった。



「恥かしいから騒がないの!」

頭を軽く小突き表側に歩き正面から素朴な小さな宿屋普段は通り抜けるだけの風景を改めて見詰め眺める。


宿屋の文字を再度手元にある紙と照らし合わせ二人顔を見合わせ頷き、1人我が物顔でずかずかと足を進める昴を慌てて追掛ける。宿屋の暖簾を潜るとすぐ手前に一段高い箇所に台があり上には筆と余白を小さく折り畳まれた書き物があり宿泊する客人の名前が並ぶ。無人の受付場に辺りを見回し、その隣の二階に続く階段に向かい昴は「御免下さい」と声を上げた。

その声に反応し慌てた口調でその場で待つように言われ、少ししてから階段を急いで下る音が響く。現れた宿の仲居は手元には水が入った桶に薄汚れた布ぶら下げて二人に近付く。仲居はに向かい短い挨拶をする昴を横目に弥凪を暫く見つめこちらが何か言う前に目を輝かし口元に手を置く。


「あらあら、すーちゃんが女の子連れてきたわ!!」


嬉々とした声を荒げる仲居に反応し宿屋の四方から足音が聞こえあっという間に人が集まった。「すーちゃん」と呼ばれた当人の昴は苦笑いをし瞬時に集まった仲居達に何とも困った表情をした。見ると仲居だけではなく魚片手に持つままの板前まで出てくる騒ぎだ。


その状況に1人困惑し口をパクつかせる弥凪に視線が集まり沈黙し、やがて全員が昴の背中や頭を弾むように叩き出す。


「可愛い子じゃないのよ!! すーちゃんもやるねぇ!!」

「お前には勿体ないくらいのお嬢ちゃんじゃねえか、こりゃ将来美人になるぜ!」

「何泊だい? 安くしとくよ!」

「よし今日はお祝いだ、いい鯛が入ったんだ丁度いいな!」


賑わしい声の中心で未だ魚を持つ逆の手で板前に叩かれ声掛けられる昴は1人震え両腕を高く上げ群れる宿屋の仲居を跳ね除ける。ふざけたような悲鳴で散らばる仲居を話しに置いて行かれた弥凪は眺め昴は声を上げ騒ぐ。


「だーっ皆勘違いすんな! 今回は泊りに来たんでも女紹介しに来た訳でもねぇ! 人探しだ!」


昴が怒りか羞恥か顔を赤らめ騒ぐ珍しく光景に茫然とする弥凪の横に、一番最初に騒ぎ人を集めた仲居が「でしょうね」と高笑いをした。満足した仲居と板前は次々と持ち場に戻り残された未だに楽しそうに口元を緩める昴の元に向かう仲居に声を張る。


「俺で遊ぶなーーー!!」

鼻歌を歌い髪を乱すように撫でる仲居とそれを鬱陶しい表情で跳ね除ける子ども扱いされる珍しい昴の姿を見て小さく笑う。一通り撫で終え髪を手櫛で整える昴に仲居は片手を添えて詫びの言葉を送る。くるりと振り返り放置していた弥凪の手を掴み握手をし楽しげな口調で上下に振る。


「騒がしくしてごめんね、何せあのすーちゃんが女の子お持ち帰りしてくるなんてさ! 驚くもするわ!」

「…三十越えのオバサンがお持ち帰りって――ぐふっ!!」


小声で呟く昴の頭に仲居の鉄拳が振り下ろされる。鈍い音がする利玄に負けず強烈な拳に思わず後退りする。


「オバサンは肌が弛み始めたらそう呼ばれるのよ! 見なさいこのぷるんと卵肌!」

頬を突き出す仲居に眉を顰め苦い顔をしそれを両手で跳ね除け逃げるように弥凪の後ろへ隠れた。


「昴はよくこの宿屋に?」


先程から二人の馴染みのある行動に和み仲居に向かい言葉を投げかける。

その言葉に深く頷き腰に手を当てる。


「たまにね。最近はご無沙汰だったけど…まぁ持家があるんだからわざわざ泊まらなくてもいいんだけどね」

「外の仕事で都合のいい場所にあるからねこの宿屋は。疲れ果て家に戻る気力ない時に泊るくらいだな」

「なるほど」


足を酷使する伝達業特有の利用の仕方に深く頷く。


「そうなの。初めてすーちゃんが泊まりに来た日にゃ玄関で突然倒れてね! 揺さぶっても水ぶっ掛けても起きないし、困っちゃったわよ」


当時を思い出しているのか目を細め思い更ける仲居に「思い出した」と背後から声が飛び交い噛み付くように前方に回り昴が話し出す。


「あの時、客に対する接客じゃなかったよね? あれで俺風邪患って暫く身動き出来なかったんだからな!」

「だから悪いと思って手厚く看病したじゃない。宿代も格安に医者まで連れてきてさ、なぁに忘れたの?」

「俺の記憶だとアツアツのお粥を無理やり喉に流し込まれて葱で首絞められて死にかけた覚えしかないんだけど!!」


昔話にお互いの意見をぶつけ合いする二人を暫く眺め気が緩み身体を揺らすと仲居と歓迎の握手をした逆の手に持つ布袋に目をやりこの宿に来た目的を思いだし声をかける。


「あ、あの! ここに宿泊している滝川源さんに会いに来たのですが…」

手元にある団子を握り締める弥凪を眺め昴も言葉を続ける。


「そうそう何月も前からここに泊ってるって聞いたからさ」

二人の言葉に眉を顰め思い出そうとする仲居に外見の情報を渡すと短く声を上げた。


「滝川さんね。あの人なら今朝方早くに出掛けたよ! 荷物がまだ部屋に置いてあるから宿に帰ってくると思うけど?」

「そう…ですか」


無事な様子にほっと胸を撫で下ろし、仲居の勧めで玄関付近の長椅子に腰を降ろし暫く帰りを待っていたが日が暮れ始め手持ちの団子を預け二人は宿屋を後にする。帰り際先程の仲居に「またおいで」と後ろから楽しげな口調で見送られ短い返答をし後ろでにひらひら手を揺らした。


「あーあ! その色男見たかったのにな残念」

「今朝方動いていたんだし、またひょっこり茶屋に顔出しにくるかもね」


茜色に染まる夕焼けを眺めつつ悔しそうに顔を歪めた昴に投げかけすっかり秋空になり風が肌寒く身震いをする。


「その滝川ってやつ旅人で町に来たんだろ? 先の城下町に行く予定だったのか?」

「違う。南の山に奥さんが待っていてそれの帰省途中らしいよ」


愛妻家ではやく会いたいと嘆いていたと笑いながらに告げると昴は眉を顰め怪訝した表情を浮かべた。


「それならこの町にいないでさっさと山登って奥さんに慰めて貰えばいいんじゃねえか? この町で何月も足踏みしてる意味はなんだ?」


昴の言葉にそう言えばと口元に手をやり考える。

何か理由があってこの町に執着し居続ける意味があるのか。陽気な性格の滝川だもしかしたら愛する妻のために土産品に頭を抱える日々なのではないか。この町に目当てな品がないなら隣町に、そこにもなければそれこそ城下町へと足を運んでいるのではないだろうか。早朝から宿を出て未だ戻らない滝川の自由奔放さを思い出しあり得る

と頷く。


そう告げると怪訝さを無くし大橋の前で暫くその先を眺めていた昴はゆったりとした口調で話し出す。


「あの山の頂上から遠く山の間から海が見えるらしくて景色がいいみたいだな。山の間で太陽の光を帯びた海はキラキラ光ってさ」


町外に出た事がないが南の方角遠くに海があると聞く。海を見たことがない弥凪に驚きその様子を昴は声を弾み話し出す。

空色とまた違う青がどこまでも続く水平線でたまに沖で魚が跳ねるようだ。それを狙い鳥が水面にぶつかり器用に魚を捕まえ海はとても賑やかな音で溢れていると言う。塩の香りが風に乗り髪を軋ませ砂を擦る波の音が心地いい。波は小豆をで流し出た音に似ているそうだ。砂浜には海に沈む海藻類も打ち上げられ異国の地からの贈り物ではないが見たこともないものも流れ着くという。

そして最後に「海の水は塩っ辛い」と真剣な表情で告げる昴に思わず笑い流石にその知識だけはあると軽く小突く。


「山百合が綺麗って聞くし行ってみたいな」


山百合が咲く日はとうに去ってしまい今年はもう見ることは出来ないと内心残念がり目を伏せる。


山から覗く青い海微かに風に乗る塩の香り。

辺り一面には綺麗な山百合。

来年見る予定であるこれらを想像し呆ける。その時は昴と利玄と共に団子を用意し山を登ろうとにこやかに話す弥凪に「そうだな」と頭上を飛ぶ鴉を眺め昴は呟く。



――――――――

――――


西区の茶屋前に着いた頃にはすっかり辺りは薄暗くなり虫達が騒ぎ出す。

秋口は様々な虫特有の鳴き声を聞くと心休まる。


「じゃあ俺帰るわ! 明日また来るわ」

「今日は付き合ってくれて有難うね」


肩をぐるんと回し疲労を見せるも何も言わず茶屋を後にする昴に弥凪は声をかけ宿屋でやって見せた振り向かず手をふらつかせる背中を見届け茶屋の室内へと入る。


「あの若者はいたかの?」


茶屋の後片付けをし始めていた利玄が皆に問い掛けそれに首を横に振る。

そうかと呟き「また来るだろう」と慰めるように優しく頭を撫でた。

利玄はそのまま台所に重なる皿を片付けに向いそれを手伝うと意気込む弥凪に先に店先の長椅子の片付けを頼む。暖簾を机の上に置き店先の長椅子の1つを持ち上げる。暗くなる空の下で後片付けをする周囲の商家のお陰で夜ながらも足元を確認出来有り難い。長屋に帰宅途中の人々がまだ行き交い賑わう中、その声は強く夜道に響き渡る。


「辻斬りが出たぞ――――――!!」


長椅子を室内へ入れ終えた弥凪は顔を上げると、茶屋前の大通りに出る。南橋付近から上るその声で周りの通行人も困惑しざわつく。辻斬り、まだ夜の入り際でその名を聞くのは初めてであり尚且つ辻斬りの目撃情報は今まで一切上がってはいない。夜更けに人気のない場で切り捨てられ翌朝に発見される。なので「辻斬りが出た」という言葉に疑問を持つが町で人が切り捨てられていた若しくは斬り捨てられる現場を見た、この町で結びつく言葉が「辻斬り」なのである。


利玄は水音と皿を重ねる高い音で今の声を聞きそびれたようで特に至って反応を見せていない。南橋付近は公共施設が立ち並び前を田畑があり視界が広い。そう頭で考えた瞬間弥凪は橋を目指し走り出していた。


(嫌な感じがする)


激しい鼓動がし額を汗が流れた。昴が帰宅した方向、南橋を目指し走り抜ける。暫くするとその方向から辻斬りの単語を恐れ逃げてきた人々とぶつかり川辺の雑草が生い茂る隅を逆走して前に進む。何故今更また辻斬りが出たのだろう。滝川が場を和ませ暫く平和だったこの町に溢れていた楽しげな声はまた悲鳴に変わりつつある。


辻斬りは東区に出現したらしく西区に逃げ出し渡る人々で前に進めない。橋の隅に馴染みの顔を見付け足の速さを緩め声を荒げる。


「昴!」

「え、あ…弥凪?」


声をかけられ間の抜けた声を上げた昴は湯屋の帰りらしい。よく見ると髪から水を滴りさせ急いで着たと思われる乱れた着物、先程の声で飛び出てきたと悟る。


「…無事で良かった」

「何が良かっただ、馬鹿野郎!」


昴が帰宅した方角で辻斬り出現の声、巻き込まれていなくて良かったと脱力し肩を落とした。逆に昴に酷く焦り強く叱られすぐ戻るように言われた。様子は昴自身が確認し翌日にでも茶屋で情報を伝えると背を押され逃げ惑う人の群れに紛れる。背後次から押され立ち止まる事は許されない。困惑しざわめく声と重なり長屋からは激しく戸が閉める音がし何事かと好奇心旺盛に顔を覗かせる子どもを室内へ押し込む親の姿。静まり返りつつある住宅地に反して逃げ出す人々の雑音が夜に響く。


道の中心左右前後を人に囲まれ流れに反って歩く中、川辺に垂れる柳の木を横目に茶屋に残した利玄を思う。ここまでの騒動になっては茶屋台所で片付けをする利玄の耳にも嫌でも入るであろう。店先で長椅子を片付けているはずの弥凪の姿を見失い帰宅したら頭上に拳の一発二発を覚悟しようと意気込み息を吐く。


――ちゃぽん

これだけ雑音が上がる中で不思議とその小さな水音が耳に付く。川魚が跳ねたのか、地上がこれだけ雑音に塗れていても水中は静かにいつもの暮らしを送っているのだろう。人混みの隙間から川を眺めるが暗闇で水面が暗く町の光に反射し確認出来ない。

地より暫く低い段差に周囲を石壁で囲まれ流れる川はとても静かでいつもなら虫の声と心地よい水の音が交ざり場を和ませているであろう、水音がまた1つ響く。歩きながら中心から川側へと背を押されつつも移動し一列右にある場まで辿り着き隙間から人の影を川底で見付け覗き込む。

掘られた川より1つ高い位置石壁を背負込んだ人影は東区側に立つ。近くに宿屋立ち並び客が夜道を迷わぬようぶら下げ風に靡かぬよう底に重りの入る提灯の淡い光が揺れ影に隠れた人は姿を現す。


その人の着物は暗闇に紛れ僅かに白い肌が映え、オールバックにした髪を揺らし細見の男、弥凪が探し求めるその人滝川源である。滝川は川底を眺め眉間に皺寄せどこか深い影を落とす。呆気とし遅れた思考で右最後の列を横切り川辺に辿り着く。柵から顔を覗かせ先程見た場に目を遣るが既に滝川の姿はない。


(滝川さん…?)


出没した辻斬りがいると思われる方角に探し求める見知った友の姿、速まる鼓動を押さえ付ける様に胸に手を当てすぐ後ろで逃げる人々の雑音が遠く耳に聞こえた。

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