海と大地
少年はきらきらと目の前に広がる海を見つめました。
沖に魚を捕りに行く小船が水平線の彼方へまた一隻消えていく。
何処までも青く壮大な海の上を滑るあの小船に乗りたい。
陸から見える水平線の彼方の景色をこの目で見てみたい。
波打つ海岸の海が一番に見渡せる高い岩場の上に立つ少年の手には刀がしっかりと握られていた。
―――小さな侍は海に憧れた。
軽い音が響き、草鞋が土を蹴る。
空はもう茜色で、鴉が高々に鳴く。
約束の北橋まであと少し。
弥凪の足に力が籠る。
「うぉぉぉ! 俺の腕がなるぜぇぇ!」
耳に入るよく知った声の主は鞘から刀を抜き、よれついた黒無地の着物で川辺近くの大木に片足を掛けていた。足に力を入れ大木を蹴ると艶のなくなった葉の一枚が大木から舞い落ちる。
先程の砕けた顔が一変し冷たく目を光らせ真剣な表情になり、ゆら付くその木葉が自らを生みだした大木に当たり跳ね返り滝川は刀を構え目を閉じる。
暗闇の中、気配だけを感じ地に落ちる葉に向かい刃を振り下ろした。
空気を切り刃は曲線を描き無駄のない動きで腰の鞘に刀を納め、落ちてきた葉は軽い音をたて綺麗に二つに裂け地面に舞い降りた。
それを見ていた滝川を囲む人々は歓声を上げ、凛々しいその姿に弥凪は息が止まるのを忘れ見入ってしまった。
「どうも どうも」
砕けた表情に戻り頭を下げ観客に向け笑う滝川の周囲を前方で目を輝かせ見詰めていた子ども達が群がった。
「おじちゃん、かっけー!」
「なんで? なんでそんなコトできるの?」
溢れる好奇心と憧れの目で見られた滝川は照れ臭そうに子どもの頭を撫でた。
「それはなーおじちゃんが強いからだ!」
楽しそうに滝川の足元に引っ付く子ども達。
それを見て微笑む大人達の姿は、辻斬りに怯える前のいつもの光景だった。
滝川は此方の視線に気付いたようで弥凪に向かい大きく手を振った。
そのお陰で足元が留守になり、悪戯な子ども達が着物を引いたのも気付かず滝川はそのまま顔面を地面に叩きつけられた。
「おじちゃん、かっこわるー!」
その犯人の少年は邪気のない笑みを浮かべ指をさす。滝川はその少年が犯人だと気付きやがてにんまり笑ってみせた。
「やったな坊主!」
滝川は素早く立ち上がると少年を追い駆けた。
その楽しそうな光景に釣られ何人かの子どももそれを追い駆けた。
「まるで大きな子どもね」とぐるぐると砂利の上を走り回り子どもの様にはじゃぐ滝川を見て弥凪は心の中で呟きやんわりとその様子を見ていた。
―――――
――
「遅くなってごめんなさい。なかなか抜け出す隙が見付らなくて」
「いやいいよ寧ろよく外に出られたよね。オヤジさんに話したのかい?」
頭に乗っていた木葉を払いながら、問いかけた。
「利玄様の旧人が町に来て茶屋でお互い話に夢中になってるみたい。だからこっそりと抜け出してきたわ。すぐ帰れば平気よ。」
弥凪の答えに滝川は苦笑いした。
「そう言えば滝川さんって温厚なのね。子ども相手でも短気な人は普通頭きて拳骨の一つは食らわせていたわよ」
そう弥凪が呟くと滝川は先程の情景を思い出し吹き出し楽しげに声を上げた。
「かっこ悪いとこ見せたのは俺だしな。いやね、あの坊主の気持ち分かる気がしてさ。何せ自分よりカッコイイ男が出たらさ!」
そう言うと、先程の大木近くの子どもの背丈ぐらいある岩を指差した。
「あそこに隠れていた少女に恋してるとみた!」
にしし、と白い歯を見せ滝川はいう。
確かにそこには少女が岩場の影でじっと滝川を見詰めていた。
それを面白くなさそうな顔で少女を眺める少年の姿も。
「恋っていいよねー甘酸っぱーい! 俺と嫁さんの出会いを思い出すな」
顎を撫でながら恍惚の表情で話し出す滝川に今度は弥凪が苦笑いをする。
「町の人が笑うのを久々に見たわ。今日は珍しく外に出てるのね」
「それはそうだ。俺が呼び込んだんだ!」
そう自慢げに滝川は離し腰にぶら下げた刀が納まった鞘を抜いた。
「ほら、最近辻斬りで皆出てこないだろ。だから俺がここら歩きながら宣伝したんだよ。それに昨日の不届きな侍も増えてるご時世、刀は人を殺すだけじゃないってのを教えたかったのさ」
静かに話しながら鞘からゆっくりと刀を途中まで引き抜く。その隙間で刃は夕焼けに反射して光を帯びた。
「料理に必要な包丁も刃物だろ?
人を傷付ける道具かもしれねぇが、時に人を笑顔にすることも出来るんだ
さっき見たいな芸の1つにしたって、旨い飯を食うのだってな」
甲高い音と共に鞘に刀を納めながら滝川は弥凪を見た。
「そう思うだろ! 弥凪ちゃん!」
この人は町の皆に伝えようとした。
辻斬り影響で必要以上に刀に恐怖し侍を恐れ、城下町のように侍を一目置く存在としてご機嫌取りに手を擦り合わせる。遠く離れたこの町でそれをやる必要はないのだと。きっとその場で思いついたのだろう。待ち時間刀をブル下げる侍を長屋の隅や窓から見る町の人々の視線を感じそれであの芸を見せたんだ。
「ほんと、滝川さんは強い人だね!」
橋に寄り掛かるようにしていた腰を上げ歩み出す。
橋を抜け町外に続く大橋の手前長屋立ち並ぶ裏側にある整備途中である木々の間、短い石段を上る滝川の背中を追って弥凪は歩き出した。
先より日が落ちはじめ鈴虫のリンとした鳴き声がもうじき来る夜を知らせる。
「早いとこ終わらせて、帰らないとな!」
細い川に掛かる橋を越え、人気のない小道をひたすら歩いた。
風が冷たく弥凪の頬を撫でぶるりと身体を震わせた。
「オヤジさんの所に帰す前に風邪でも引かれちゃいけねぇしな」
その様子を見て滝川は溜息を付き弥凪は苦笑いをした。
また風邪を患うと今度は完全に外出禁止命が出るだろう。それだけは回避したい。
木々が立ち並び乱雑に作られた小道を暫く歩くと、大きな樹木の隣に見えてきたのは古い家だ。長屋から小川を挟み小道を抜けかなり距離を開け作られた古屋は壁の一部が腐っており、いつ崩れ落ちても可笑しくない状態だ。
「昔、人嫌いの男が立てた家だそうだ。 まぁそいつも今は雲の上だがな」
無人の古屋から時々光が漏れていると長屋の住民に話を聞いたという。
滝川は自慢げな顔をし雑草が伸び放題の窓側に身体を伏せた。着物が汚れないように気を付けながら同じように伏せ息を潜めた。
窓まで伸びた雑草の隙間から中を伺おうとしたが、板で塞がれていてよく見えない。隙間から淡い光が漏れていて中に誰かいるのが分かった。
「こっちの隙間の方がまだ見えるぞ」
耳元で囁く滝川は自分の目の前の隙間に指差した。
音を立てないように移動し、そこを見ると縦に指二本分の隙間が空いていた。
「あ…」
その隙間に見えた光景に弥凪は息を飲んだ。
「シンだ」
小声で弥凪は呟くと滝川に視線を移し、頷いたのを確認すると再び隙間を覗いた。
床に胡坐を掻く仲間より2つ頭が高い位置、室内の奥にシンを見付ける。シンの側に火が風で揺れその淡い光のせいで薄暗くこちらが眺める隙間のせいで正確に情報を読み取れない。
何かに深く腰掛けるシンは欠けた長茶碗を揺らし仲間に何かを注がれていた。酒であろうか覗く隙間からは土と古い木の板が腐り独特の香りが邪魔をする。
会話を正確に聞き取れず、覗く隙間付近に座る男の野太い声が耳に響く。
「臣さん! 今回もいつもの様に、さっさと殺っちゃいましょう!」
男の口から物騒な言葉が飛び出した。着物に袴を着た男は興奮気味で息を荒げ上から激しく床を殴る音にこちらの肩がビク付いた。
「臣のためなら、アタシだって参戦するんだから!」
変わって凛とした声が突然聞こえシン後ろからひょこっと顔を出したのは弥凪より少し年下であろうか少女の姿だった。
頭全体に布を巻き、薄暗く髪色は確認出来ないがボサボサで毛先が不揃いでボブとショートカットの間くらいの長さだ。
服装は着物ではなく薄手のシャツに生地が堅そうな暗めのベスト腰には太いベルトをし下半身はここからでは見えない。初めて見る服装だ。国外の者なのだろうか。でも言語はこちらと大差がない。
「…ありゃ海賊じゃねぇか!」
弥凪の後ろから覗いていた滝川の呟きに振り向いた。
「カイゾク?」
聞きなれない言葉に首を傾ける弥凪に滝川は説明した。
「いいか、海賊ってのは海をでっけぇ船で渡る奴らのことだ!
息を呑み感動で口元を緩ます滝川を見つめた。
少女は親しげに擦り寄りシンと対話をする。
(海賊…そんな奴らとシンが絡んでる。また誰か殺されるの?)
先程の男の物騒な言葉を思い出し片腕を握る手に力が入る。
未だ茫然と海賊を眺める滝川の後ろからこそりと正面を見た。
仲間らが意見をぶつけ声が飛び交う。強くなる声にこれなら会話の単語が聞き取れると内心喜ぶ弥凪は再度中央奥にいるシンに目をやる。
鋭い視線が弥凪とぶつかる。同じ隙間を見る滝川は臣の隣にいる少女を見ていて視線に気付いていないようだった。
「やばい 見付った」
滝川の耳を引っ張り小声で弥凪は呟きそっと隙間から身体を離した。
遅れて反応した滝川も身を顰めそれに続く。
古い家から離れ速足でその場を去り背後を確認し先頭に変わり走る滝川の後を追う。
(追って来ない…気付かれてなかった?)
内心呟きながら弥凪と滝川は古屋を離れた。
小道を抜け細い川の橋まで一気に走り石段の付近まで来た2人は荒げた息を整えた。
「ははは、やべぇ! まさか見つかるとは!」
あの場から少しでも離れるべく人通りのある長屋まで小走りで土を蹴る滝川は汗を流し口元を緩め溜まらず吹き出した。その後を少し遅れて追い付いた弥凪はその様子を見て唖然とした。
「笑いごとじゃないよ! 奇跡的に追っては来てないみたいだけど」
ちらっと後ろを眺めるも暗闇の中に人の姿はない。ただ気付かれていないだけのか慈悲で見逃されたのか。視線が合いはしたものの仲間に報告していないようだ。
だがまだ安心できない息を殺し背後に潜みこちらの様子を窺っているのかも知れない。
背後を睨み付ける弥凪に首を傾ける滝川は足を止めずかずかと来た道を戻り数か所建物の影にひょっこり顔を覗かせる。余りにも軽率な行動に何秒か遅れて反応し悪戯気な表情でこちらに戻る滝川に口をぽかんと開けてしまう。
「残念! 追って来ないか」
「こら」
少し残念そうに呟いた滝川の背中を慌てて数回叩く。確かに腕の立つ滝川ならもし追手がいたら返り討ちにするだろう。だがあの建物にいた仲間は数多い。流石にあの人数を相手にするのは無理がある。滝川が行った行為は軽率で危険なものだ。
「トラブル起こしに来たんじゃないの。とにかく、これで本拠地をお役所に届ければもう安全だ!」
危険な行為だったが十分な成果を上げられたと小さくガッツポーズをした弥凪を横目に滝川は頬を掻きながら苦々しい顔付きで呟いた。
「あー…残念だが、気付かれたからには移動する、かな」
「え…移動って」
あの古屋は本拠地ではない。滝川は室内の私物の少なさに仮説を立て困惑する弥凪に話し付けた。胸元に上げていた腕を戻し肩を落とす弥凪を口を閉じ未だ頬を掻く滝川は眺めた。
「そ、そんな…それじゃ何のために」
「まぁ収穫は上々だろ? ただ軽はずみに突っ突いていい相手じゃないけどな」
肺にある空気を全部吐き出す勢いで滝川は、深く溜息を付く。
重々しいその溜息に便乗し弥凪も息を吐く。
「海賊も仲間に付けているなんてね…」
北橋を抜け左手に川沿いに曲がり長屋を右手に歩く。
冷たい風が頬を撫で、川辺特有の清々しい空気を吸い込んだ。
近場にいるはずの虫の鳴き声が遠くに聞こえる。
脳内で上手く整理出来ない情報に弥凪は眉を寄せる。
「侍と海賊なんか生きてる場所がちげぇのにな。見た所あの小娘以外にも賊風格輩がいたな。カナリの強敵になりそうだ」口元を緩め面白くなってきた、と滝川は呟く。
(不安だな…)
遥か遠くに星が散る空を眺め、弥凪は今までより深く溜息をついた。
―――――
―――
「ただいま…」
裏口からひょこっと顔を覗かせて忍び足で台所に向った。
台所から店内を見ると利玄が店先で旧人を見送り深く頭を下げていた。
(今、帰った所だったか)
これはとても幸運である。
随分と長く会話していたのだろう、空の皿が数枚重なり置いてある。
店先の暖簾を片付け台所から顔を覗かせる弥凪の視線に気付いた利玄は微笑み空の皿を持つ。
「たまたま旅先で会いに来てくれたんだよ。初孫が出来たと嬉しそうに話していてね懐かしくお互い随分と長話をしてしまった」
「お会い出来て良かったですね利玄様」
楽しげに笑う利玄は空の皿を台所の水を張る桶に入れ濯ぎ洗う。
その柔らかな表情に胸を撫で下ろし片付けをするため店内の掛かる箒を握る。
水の音とと共に弥凪に問い掛けるため少々声が大きい利玄の言葉が耳に入る。
「そういえば途中姿を見なかったが、何処かに行っていたのかい?」
その問い掛けに思わず箒を動かす手が止まり、息を呑んだ。
汗が滲む手を箒の持ち手に吸わせ不自然のないように再度箒を動かした。
「あ、前に子どもから花の種を貰ってねそれを植えていたの。いつもは忙しくて余裕がないからと諦めていたけど今日なら他にお客さんいないから…」
思いついた単語を適当に繋げ、冷汗が背中を伝い目を泳がすが台所からはその様子が確認出来ないため気付かれないだろう。箒を壁に立て掛けると台所から手拭きの布で拭い終えた利玄が台所から現れ後ろ姿の弥凪を眺めているようだ。視線が背中に刺さる。壁を見たまま動けずにいる弥凪に利玄は近付く。
「成程。だからそんな泥だらけなんだね」
楽しげに笑う利玄の言葉で弥凪は振り返り自らの格好を確認するため視線を下げた。
仕事着の裾は泥と枯れ葉にまみれ店内の床を薄ら汚していた。
掃き作業に意識を持たず終わらせ箒を立て掛けたが、改めてあたりを確認するとまだ至る所に汚れが擦り付いている。
古屋から覗く隙間の際に屈み植物に付く泥か、小道を走る際に跳ね上げた泥なのかとても不潔な今の恰好を確認し弥凪はぎょっと目を丸め羞恥に頬を染めた。
「その恰好でいくら掃除をしても終らぬの。残りはワシがやるから先に湯屋で泥を落としてきなさい」
立て掛けた箒を手渡し弥凪は短く落ち込んだ声を上げる。
店内がこの有様なら裏口も泥で汚れているであろう。もしかしたら台所にいた利玄が先に片付けていたらもう申し訳なさで顔向けが出来ない。手早く着替え近場の湯屋に
行く前に処理しようと弥凪は慌ただしく和室に走り出した。
――――――――
―――――
寂しくポツリと佇む古屋を見付けたのは数週間前の事。
数人の仲間が嬉々と新しく来た地で長屋の裏から小川を眺めている臣に話し出した。その情報を運んできた男らはそれと引き換えに「仲間に入れて欲しい」と懇願してきた。握る程度の知人を引き連れ面白そうな話に跳び付き気が付けば随分と賑やかな場所になったもんだ。隙間風が厳しく老朽化が激しい室内だが不思議と居心地が良く溜まり場としていたが軋む音が耳に痛い。そろそろ潮時だろうか。
奥の端に並ぶ水瓶の上に座り意見し合う仲間を退屈そうに眺めていた臣は視線を感じ板を乱雑に長べ打ち付けた窓を眺めた。その光が漏れる隙間からいつかの女の顔が見て取れた。視界が歪む雨の日、笠を被るこちらの鋭い視線に気付き息を飲み睨み付ける女の顔。
「臣どうしたの? 黙り込んじゃって」
お酌をする少女は仲間に視線を戻す臣に問いかけた。
薄ら笑みを浮かべ楽しげに鼻で笑い「何でもない」と答えた。
注がれた酒を不思議と上機嫌に飲む臣を見て少女は眉を顰めた。
臣が眺めていた壁に視線を移す。長屋の住民が古屋の灯りに気付き様子を見に隙間から顔を覗かせたのは数日前。壁付近に身体を預け聞き耳をたてた仲間が気付きあの時厳しく睨みを利かせ短い悲鳴と共に追い返し暫くは近寄らないであろうと今日は壁付近に人は置いていない。野生動物も多いが獣の強く視線はよく分かる。
「…ふーん」
少女は眉を潜めその壁に視線を向けたまま静かに呟いた。
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