缶詰

茶屋の入り口には「本日休店」の看板が掛けられていた。

濡れた着物から水が滴り落ち、台所の石床を濡らした。

床に伏せた茶屋の主と看板娘を見て、客である昴は苦笑いをした。




――――――

――――


雨に打たれて風邪を患い一人残された部屋というものは寂しいものだ、と弥凪は内心で思ったのは昨日の事。二日前、あれから雨に濡れ身体が火照りふらふらとした足取りで茶屋に戻ると店先にいた昴が和傘を差し出した。

頭痛と気だるさが身体を襲い、昴から手渡された布で垂れない程度に水分を拭き取り覚束無い足取りで利玄の眠る和室に向かう。


弥凪が帰宅したと昴から言われたのだろう、身をお越し今朝より顔色が良くなった利玄がそこにいた。


「ら…ららいまー…」



赤い顔で呂律が回らぬ口で小さく呟くと利玄の腹部分まで上げられた厚みのある布団の上に、そのまま切れた和人形の如く倒れ込んだ。


その後、一応客である昴が二人の面倒を見てブツブツと主に弥凪について文句を言っていたが、熱で浮かされた頭の弥凪には聞き取ることは出来なかった。



―――――――

―――


「みぃーなちゃん!! 遊びにきたぞ!」

満面の笑みで襖を開けたのは、毎日のように茶屋に来る昴だった。



「…ねぇ、本当に暇なの? それとも失業でもしたのかしら? お可哀想に人を雇う余裕はないから他をあたって頂戴」

「うん、いつもの小生意気な弥凪に戻ったね! 嬉しいやら悲しいやら」



どっこらせ、とまだ若者のくせにそんな事を言い胡坐をかき座り込んだ。

片手には見舞い品と言いお煎餅の袋を手渡した。



「…今日も同じこと言うのは嫌なんだけど、風邪の時は普通消化がいいものを持ってこない?」

「嫌がらせだからこれでいいんよ!」



にぃっと意地悪そうな笑いの昴に昨日の見舞い品のかりんとうの袋を投げ付けた。頭痛は幾分か治りかけているがまだ硬いかりんとうや煎餅を歯で砕く衝撃が頭に響くのは勘弁したい。



「と言うか失業してないし対して暇じゃないんだぞ! 一応仕事片付けて此処に来てるんだから!」

「私をからかいに?」

「からかいにっ!」



笑顔の昴に弥凪は深く溜息を付いた。

その様子に心底楽しそうに笑い投げ付けられた見舞い品のかりんとうの袋を開け噛み砕く。甘さが口内に広がり幸せそうにもう一粒口に投げ込んだ。



「でもあれは驚いたよ。雨に打たれただけで風邪とは…疲れが溜まってたんじゃない?」



ここ最近は主に昴との対話に疲れているんだけどと弥凪は心の中で毒を吐く。

あの日の夜に、利玄はすっかり回復し次の日から茶屋を一人で切り盛りした。

対する弥凪は高熱が続き朝方やっと熱が下がり今に至る。

明日には仕事に復帰出来そうだ。


熱が下がったので本日からまた仕事を開始しようと、今朝方仕事着を準備している所を利玄に見つかり最後に今日1日だけ安静にと言われ、部屋に押し戻されてしまった弥凪は特にやることもなくぼんやりと天井を見ていた。



「…仕方がないから私の話し相手として今日は此処にいていいわよ」

「弥凪もしかしてお暇なのかい? 俺を求めてるんだねそうなんだね!」



嬉しそうに目を輝かす昴を横目に前半部分に図星を突かれ悔しいので暫し黙っておく。無視をしていると突込みを求めて嘘泣きをする昴を煩いと軽く頭を叩く。

一応昴は自分らを看病してくれた恩人だ。出会って日も浅いのに好感度が日に日に上がっている。もう嫌悪感はない。良き友人だ。余り甘やかすと調子に乗るので褒め言葉は程々にしてやる。


実際部屋から缶詰状態の弥凪は今日はとても暇なのである。



「危なそうな男がいたって?」


何粒目かのかりんとうを歯で噛み砕き、畳に胡坐を掻いていた足の片方を立てて前に体重をかけた昴が問い掛けた。弥凪は黙って首を縦に振り言葉を続けた。



「私が買い物に行ったあの日のことよ! 近所のご夫婦が切り裂き魔が出没しているって…だからあの男かなって…」



真っ直ぐの瞳が昴を見つめ、考え込む仕草をした。

まだ顎鬚の生えていない顎を人差し指と親指で挟むように添えた。



「切り裂き魔…というより、”辻斬り”だね。顔は見た事がないけど風の噂で。俺がこの町に来る前に確かに辻斬りはいたね。でもそいつは捕らえられたはずだけど…」

「逃げ出したんじゃないの? 何か見るからに危険だったもん…」



弥凪の発言に納得がいかない昴は深く項垂れていた。

辻斬りとは腕試しや金銭目的、刀の斬れ味を試すために無差別に斬り回る。

罪無き人を殺すとは、とても罪が重いことなのだ。



「あ…そう言えば、その男を向かえに来た若い男が”シン”って呼んでたよ」

「シン…シンね…」



暫くブツブツと呟いていた昴は突然立ち上がった。

ちらっと見えた昴の表情はいつものへらへらしたものではなく、酷く冷静な表情。キラついた目は今は黒に淀んでいる。いつもと違う様子に思わず息をのむ。

暫く遠くを見て考えに更けていた昴は、二回目に呼ばれた自分の名にやっと弥凪の方を向いた。


「あ…ごめん! 何か言った?」

へらっとした顔に戻り、弥凪は溜息を付いた。



「もう、なんなのよ! 似合わない表情になってさ! 驚いたじゃない」



弥凪は昴が手荷物袋に入ったかりんとうを摘み上げ口に放り込んだ。

しっかりと味が染みていて美味しい。思ったより頭に響かなくて安心した。

砕けた表情の弥凪に口元を緩ませ和み、やがて昴は静かに言った。



「弥凪…俺、この町を離れる!」


真剣な顔付ではないが、何か決意をした瞳を向けられた。

「…」


互いに沈黙が続く中「別に行けばいいんじゃないの?」と弥凪は口を開いた。

この時程、昴の本気でがっかりした顔を見たことがない。

弥凪の一言で真っ直ぐだった瞳が揺らいだ気がした。


「…っ! そんな…あっさり言われるとは…!!」

がくりと足の力が抜けた気がして、昴は両手と両膝を畳に付けて首を下に向けた。俺たちの友情はこんなもんだったのか、と騒ぐ昴に弥凪は思わず溜息を付いた。


「だって帰ってくるんでしょ?」

「…えっ?」


ぐずぐずと鼻を啜りながら振り向くと、弥凪は首をこてんと傾けて不思議そうな顔をしていた。



「今回の件調べるために、つまりは人助けで江戸を出るんでしょ? それを止める権利は私にないじゃない」



いつも昴がやっているにや付いた笑顔で、昴の頭に手を置いた。

「それで皆の不安を取り除けるなら、私は昴を蹴り出してでも行かせるもの!」



わしゃわしゃと頭を撫でてやる。それはこの親子がよくやる仕種。温かいその撫でる手に昴は何だかこそばゆい気持ちになった。


「風のように素早く進め! そうでしょ? 伝達屋さん!」



眩しくそれでいて温かい弥凪の笑顔に昴は顔を上げず畳に視線を向けたまま”おう”と短く返事をした。腰を上げ少しくしゃくしゃになった髪を揺らし襖を開けた。


「二、三日で帰ってくるよ! そん時にはいい情報持ってくるからな!」

「はいはい。期待してますよー」



ぴょんと段差を飛び越え、客で賑わう茶屋の中を通った。臨時で手伝いにきていたご近所さんに軽く会釈をしてすたすたと店先を目指して歩き出した。



「おおボウズもう帰るのかい? 弥凪ともう少し話していればどうだい?」



台所から声が聞こえ、そっと中を覗き込むとそこには二人分の湯のみと大福がお盆に乗せた利玄が立っていた。


「ちょっと用事を見つけましてね、この町を離れることになりました!」



昴の言葉に目を丸くし、手に持っていたお盆を台の上に置いた。



「そりゃ急な話だね! 弥凪には話したのかい?」

「はい! 話したら蹴り出して行かせますって言われちゃいましたよ!」



その言葉に利玄は高々に笑い、昴に湯のみを渡した。

中のお茶は温かく何となく心がほっとした。



「弥凪の同い年くらいの子で仲が良いのはボウズくらいしか居ないからな、無茶するんじゃねえぞ。弥凪も内心ではかなり心配しておるぞ!」

「本当に心配していますかねー?」

「しておるしておる! だから早く帰ってまた団子食いにこい!」




利玄が勧めた大福を頬張り、温かい茶が喉を通ると、腹の中にゆったりと染み渡る。


「また食べにきます!」



利玄に深く頭を下げ、茶と大福のお礼を言う。

茶屋を出て、人がまだ賑わう大通りを歩き出した。



(ここは温かいな。皆笑顔が溢れている…)



弥凪の言った言葉が頭を巡った。

「不安を取り除くための人助けね…」




上を見上げるとまだ太陽が高かった。

雲が少なくやや強い陽射しに目を細めた。

自分の心を裏腹に広く輝かしい空は広がっていた。



「…俺はそんな綺麗なもんじゃないんだけどな」

ぼそりと呟いた昴の言葉は賑わう人々の声に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る