第一章 茶屋と少女
少女の物語
時は江戸時代。
よく知られる有名な時代、聞き覚えある人物などいない全く違う別の世界の物語。
地より暫く低い段差に周囲を石壁で囲まれ穏やかに流れる川に魚の影がゆったりと揺れ、垂れ下がる柳の木は今夜も不気味な噂を勝手に作り出されて恐れられる。
強固に整備された弧を描く立派な大橋から駕籠かきを担ぎ手拭いを頭に被った男二人組みが渡り町に客を無事届ける。
商家が立ち並ぶこの町、活気の良い声で客を呼び寄せ新鮮な商品を売り込む。垂れ下がった暖簾を潜り抜けた親子連れは輝く瞳で目的の商品を抱き締め満足げに微笑む我が子を見て日頃の仕事の疲れなど何処へやら心穏やかになる。
その賑やかな商家が立ち並ぶ町の川側の一番奥の一角、暖簾の奥から明るく元気な声が響いた。
「いらっしゃいませ」
半襟は橙色で足元まで黒無地の着物、袖丈は1尺7寸で袂は邪魔にならないよう赤い紐で脇から肩に交差して縛り、ただの長方形の白布を腰と胸の境で赤い帯留めで結ぶ薄茶色の髪が肩に少しかかる見た目がふんわりした印象のお茶屋の娘だった。
十六になる歳の娘の手にはお盆が握られその上には先程声をかけた人数分のお茶が用意されていた。
「お茶に合う菓子を2つお願いね」
お茶屋の前川辺の長椅子に腰の曲がった老夫婦が優しい笑みを浮かべ娘に注文をする。
手持ちのお茶を老夫婦の側に置くと注文の物を復唱し、娘は「少々お待ち下さい」と告げると奥の厨房らしい場所から出来立てで甘じょっぱい匂いを漂わせたみたらし団子の皿をお盆に載せ長屋出入り口の暖簾を潜る。
「お待たせしました。お茶に合う菓子、自慢のみたらし団子でございます!」
当店の自慢だと娘は何とも嬉しそうに告げ皿を手渡した。
昔なじみのお客である老夫婦は食べづらいだろうと串には刺さずにそのまま並べた自慢の団子を見て「相変わらず美味しそうだ」と菓子箸を持ち上げた。
ここは小さな町唯一の茶屋である。
唯一なのだから名など必要ない、とこの茶屋の主人である
この娘には記憶も名前もない。
まだ十四だった娘は激しい豪雨で濁流した川に呑まれそうな所を利玄によって助けられたのだ。間一髪で持ち上げた身体は平均とは言えないほどの軽さで行く宛のないと座り込んでしまった娘を茶屋の主人が拾う形となった。
娘は弥凪という名を貰い、跡取りが無い茶屋の主人はその子を立派に看板娘として育て上げた。
弥凪の微かに残る記憶は赤い旋律、刃は楕円を描き振り何かに下ろされ刀を握る男の表情は逆光で暗く見えなかったが、頬に落ちる生暖かい滴は男の涙だった。
―――――――――――
――――――
「弥凪よ、どうかしたか?」
背後から聞こえた自分を心配する声に振り返る。
服装は弥凪と同じで黒無地の着物に白布を腰部分で赤紐で結び、髪は周辺の町人と同じ銀杏潰しでまだ黒々とした色の歳は今年で四十七になる利玄が明日の仕込みをしている手を休め弥凪に優しい眼差しを向けていた。
店内の片付けが終わり、台所でいつも素早く洗い終えた皿を拭く弥凪の手が止まっているのを不思議に思い利玄は声を掛けた。
聞くと弥凪は小窓から覗くを見上げ呆けていたそうだ。
ふぅと溜息を一つ、利玄は戸棚から余り物の羊羹を取り出すと少し大きめのサイズに切り分けるとその1つをポカンと口が開いた弥凪に素早い速さで突っ込んだ。
驚き間の抜けた言葉を洩らし目を点にした弥凪だが口内に広がる羊羹の甘さに思わず頬を緩めた。
「毎度のことながらお手伝いは関心するけど、呆けていたら怪我をするぞ」
手に持つ皿を奪い取り台所に重ね羊羹を食べ終えた弥凪の頭を小突き薄く笑う。
奪った皿の変わりに残りの羊羹を載せた皿を持たせ台所から続く和室を指差した。
「これでも食べて少し休憩してなさい」
残りの皿を拭きながら利玄は告げる。
優しさに甘えて、少し休憩を取ろうと台所を後にした弥凪は先程小突かれた頭を照れ臭そうに撫でながら畳の上に腰を下ろした。
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