あした

mikio@暗黒青春ミステリー書く人

today

 留年が決まったことが理由ではない。


 それを人に伝えなくてはいけないことが面倒で、馬鹿らしくて、久住万葉くずみかずははライターを買うことに決めた。


 コンビニエンスストアのレジで、一緒にマイルドセブンも買おうかどうか迷ったけれど、やめた。まだバッグの中に四本残っている。それ以上は必要ない、多分。


 店を出ると、昼下がりの太陽が北風とともに万葉を襲った。世間一般には温暖な土地柄として知られている静岡だが、それは数字だけのことだと万葉は思う。禍々しい日差しと吹きすさぶ風でできている郷里の春に温かみを感じたことは一度もなかった。


 ――あんなにも弱々しい太陽が、どうしてだろう。ボクにはとても暖かいものに感じられるんだ。


 いけない、東都の春のことを考えてしまう。万葉はかぶりを振って、脳裏に浮かびかけた光景を消し去ると、ライターとともに受け取ったレシートをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。



 家に帰ると、母がいた。


「ただいま」


 それだけ言って、自分の部屋に戻ろうとした万葉の背後から、母が言った。


「おかえり。さっき、朝永ともながさんから電話があったよ」


 高校の同級生だ。校則で携帯電話の持ち込みを禁止されていたせいか、連絡をとるときは今でも家の電話にかかってくる。


「ありがとう。子機、借りるね」


 居間からコードレスの電話機を持ち出して、二階の自室に戻る。万葉が進学して東都で独り暮らしを始めてからは半分物置のようになっている部屋だ。


「はい、朝永です~」


 電話を掛けるとすぐに相手が出た。バームクーヘンのように甘ったるい旧友の声。


「久住だけど」


「あれ、万葉ちゃん? 外出中って聞いたけど」


「うん、今戻った」


「もしかしてデートだった?」


「まさか。ちょっとその辺を散歩してただけだよ」


「なーんだ、つまんないの」


 別に朝永を面白がらせようと思って生きているわけじゃないよ、と心の中でだけ呟くことにする。


「それで要件は何?」


「そうそう。万葉ちゃん、もうすぐ東都に戻っちゃうんでしょ? その前に仲の良いみんなで集まろうって話になったんだよ」


 いつのまにかそういう話になっていたらしい。


桧山ひやまクンなんか、すっごく会いたがってたんだよ? 人気ものだねえ、万葉ちゃんは」


「はいはい」


 朝永のくだらない台詞に相槌を打ちながら、万葉は桧山の頭の悪そうな日焼け顔を思い出す。悪いけど、あの手の男に対してクラスメートとして以上の感情を持つことはありえない。


「明後日の夜だけど、来れそう?」


「朝永には悪いけど、ちょっといけそうにないな」


 少しは悩む素振りができただろうか。万葉は我知らず空いた方の手でブラウスの襟を握りしめながら続けた。


「単位がヤバくって。明日には東都に戻って補習を受けなきゃならないんだ」


「えー、そうなの?」


 なんとなくほっとしたようなニュアンスが感じられた。つまりはそういうことだろう。


「桧山には朝永からよろしく言っておいて」


 それから朝永と少しだけ話をした。話した直後に記憶から消えていくようなとるにたらない世間話だ。


「でも、万葉ちゃんでも勉強で苦労するなんてこと、あるんだね」


 電話を切る直前に、朝永はそんなことを言った。


「それは朝永が私のことを買いかぶりすぎているだけだよ」


「えー、そんなことないと思うけどなぁ」


「確かに、医者になるということは、私が昔考えていたよりもずっと大変なことだったみたいだけれど」



 学ぶことは嫌いではなかった。今でも、そうだ。


 けれど学び続けることでどうしても増えてしまう荷物というものがある。医学部に進学したいと言ったときの、期待と困惑に満ちた両親の表情だとか。女だてらに医者を目指すだなんて立派だねえなどと失礼極まりない称賛を浴びせかける親戚だとか。『万葉ちゃんはうちのクラスの誇りだね』と無垢な笑みを浮かべる旧友だとか。


 だから万葉はくたびれてはいけなかった。増え続ける荷物のことなどまるでなかったような顔で、変わらずに万葉らしくあり続けること――それが、彼女が自分に強いた戦いだった。


 しかし万葉は戦いにやぶれたのだ。


 自分の中で何かがぷつりと切れるような感じがして、万葉は耐え切れずにコードレス電話を掴んだ。


「はい」


 何度目かのコールの後に、いつものようにくたびれた、古市若菜ふるいちわかなの声がした。


「万葉だけど」


「どうしたの?」


 用件を聞くというよりは、声の調子を気遣っている風だった。万葉の演技は、もう破綻していた。


「留年が決定した」


「……そう」


 若菜はそう言って苦笑いを浮かべたようだった。彼女も不器用な人間だった。


「東都で待ってるよ」


 若菜はそれだけ言った。


「ありがとう」


 万葉はそう言って、電話を切った。


 電話を切ってしばらく、万葉は微塵も動かなかった。


 机の上にはさっき買ったライターと東都で買ったナイフが転がっている。そうだった、これではいけない。万葉は計画の齟齬を修正するために、もう一度若菜に電話した。


「はい」


「若菜? 大学を卒業したら、一緒に暮らそう」


「何を言ってるの」


 若菜の口調は微かに怒気を帯びていた。彼女は冗談が、笑うことの次に嫌いなのだ。


「本気だよ」


「……そうだね。確かに本気だ」


 若菜はしばらく考え込んだ後で、口を開いた。


「いいよ。ただし、あなたがそれまで――」


 台詞とは裏腹に、妙に寂しげな口調だった。


「それまで?」


「約束を忘れていなかったら」


 とってつけたような響き。若菜には何もかも見透かされているような気がした。


「忘れるわけ、ないじゃない」


 万葉はそう言って笑った。今度こそ、笑って電話を切ることができた。



 夜がやってきた。


 万葉は母に、散歩に行くとだけ言って、外に出た。


 彼女の実家の周辺はまだまだ田舎であった。外灯は薄暗く、道は田畑の狭間に、うっすらと通っているばかり。家々の屋根は低く、星ばかりが遠かった。


「おーい、万葉ちゃんじゃないか」


 狭い道を歩いていくと、急に脇の方から声があがった。びくりとして彼女は振り向いた。外灯の下に隣家の中年が立っていた。


「どうしたんだい、こんな夜に」


 中年は親しげに彼女の方に近寄ってきた。微かに酒のにおいがした。


「散歩ですよ」


「恋人と待ち合わせかと思ったよ」


「はは、まさか」


 万葉は笑いながら畦の土を蹴った。水の張っていない田圃に、土は音もなく転がっていった。


「万葉ちゃん、この間は悪かったね。おじさん、飲み過ぎちゃってさ」


 先週末に町内会の暑気払いで飲み過ぎたこの中年は、万葉の父に肩を借りて何とか久住家までたどり着いた。そこで酔い覚ましの麦茶を持ってきた万葉に向かって、近頃の医者がいかに傲慢であるかについて熱弁を振ったあとで、医師たる者の心構えについて一席ぶったのだ。


「まぁ、おじさんも万葉ちゃんのためを思ってさ。ハッパをかけたつもりだったんだけど、後から思えばずいぶんと偉そうなことを言っちゃったもんだなってさ」


「気にしないでください。私にとっては有意義な忠告でしたよ。また遊びに来てくださいね」


「嬉しいことを言ってくれるねえ。大学でも頑張ってくれよ。おじさんもがんばるから」


 もはや自分は、この田舎の無知な中年の求めにも応えることはできないのだ。そう思うと万葉には何も言うことができなかった。無言でうなずいたのが、彼女にできる精一杯の行為だった。


「それじゃあ、おじさんは帰るけど、万葉ちゃんもあんまりふらふらしてないで、すぐに帰るんだよ。親御さんが心配するから」


 万葉の表情を都合良く解釈した中年は、もう一度満足そうに笑ってから、帰っていった。



 中年が去ると、万葉は近所を流れる河の土手に向かった。


 河の流れは静かだった。夜空に浮いた月明かりが映し出す無作為の美。ひととき、万葉は若菜のくたびれた表情を思い浮かべてしまう。


 財布を取り出す。中には昨日おろしたばかりの紙幣が数枚入っている。ポケットからライターを取り出して、紙幣に火を近づける。紙幣はまたたくまに灰となって、夜空に舞う。


 万葉は空になった財布を足下に投げ捨てると、ポケットからナイフを取り出して、右手に握り込んだ。ナイフは一昔前に流行したバタフライナイフという種類のものだった。彼女はそれを東都の骨董品屋で購入した。すでにその骨董品屋は潰れていて、足がつく心配もない。


 ひやりとした柄の感覚を実感しながら、万葉はナイフを回転させて刃を起こした。


 もう一度河を見つめる。浅い河だが、それでも真ん中の方は底が見えない程度には深く、流れも急だ。ここからナイフを投げれば、ずっと下流の水底に沈むだろう。


 発見されない凶器と、空になった財布。


 警察は久住万葉の死を他殺と断定するだろう。


 それが、彼女が自分に出した結論だった。



 自殺するわけには行かなかった。


 久住万葉が留年を苦に、自殺?


 軽蔑されるのはまっぴらだった。


 羞恥心に身を焼かれるのもごめんだった。


 彼女は久住万葉が久住万葉のままでいられるための唯一の方法を考えた。

 そうして久住万葉が何者かに殺され、不本意に一生を終えるという真実フィクションを創りあげることにしたのだ。


 ナイフを、久住万葉の首に当てる。


 あとは、ナイフを数センチだけ引いて、それから河に投げ捨てればよい。


 そうすれば、久住万葉はもう、悩まない。


 そうすれば、久住万葉は自分に強いた戦いを永遠に放棄することができるのだ。


 しかし彼女はためらった。


 ナイフは、震える掌の中で、踊った。


 気づくと、久住万葉の頸部にはいくつものかすり傷ができていた。


 ――ためらい傷。


 誰が見ても一目瞭然の傷痕。彼女は、計画の失敗を悟った。久住万葉はそんな浅はかなやり方で自殺をするような人間ではない。彼女はおぼつかない足取りで土手を離れた。


 実家の部屋に戻ると、見計らったかのようなタイミングで、携帯電話の着信音が鳴り響いた。


「万葉? ボクだよ。若菜」


「うん、わかる」


「おかえりなさい」


「ああ――うん。ただいま」


 やっぱり見透かされていた。万葉は苦笑して、もう一度「ただいま」と言った。


「明日になれば、もう何も考える必要が無くて、もう何も信じる必要が無くて、水がそうであるように、消えて無くなれるのなら、一番良いのにね」


 若菜も、万葉と同じに、寂しげな笑みを浮かべたようだった。



「おはよう」


 目が覚めると、くたびれた夕焼け空。


 若菜は、微笑むでもなく、万葉の側にいた。


「学校は?」


「自主休校」


「何をしていたの」


「オムレツを作った。二人分ある」


「もらうね」


 そうして、今日もまた続く。

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