忘却の王子とはじまりの魔女:4
閉じ込められていた塔を抜けたあと、王宮の中でも随分と外れの方にいるのだと気づかされた。
「解呪は広場でやるとのことでした。ここからはかなり距離があります」
「邪魔をされなければ余裕で間に合うだろう」
抜け出してすぐは妨害をうけることもなくただ走り続けてきたけれど、広場が近づくにつれて行き先を阻む人々が出てきた。
「どうやってあの塔を……!」
知らない人のはずなのに、私の顔を見ただけで顔色を変えた。向こうは私のことを知っているらしい。
すぐにジルベルト様が背後に回りこんで手刀で気絶させてしまう。鮮やかな身のこなしに唖然とするばかりだ。
「さすが、北方の獅子と呼ばれる方だけありますね」
私と同じような顔で、ジルベルト様の動きに見惚れていたエリクさんが拍手を送りながらそう言う。どうやらジルベルト様は私が思っている以上に強い方らしい。
「広場まで、あとどのくらいですか?」
空を見上げると、太陽が徐々に真上に近づいているのが分かる。走り続けているせいで、冬だというのに暑すぎるくらいだ。
「何事もなければあと十分程度ですけど……そうも行きませんよね」
エリクさんの呟きの通りに、目の前にまた人が立ちはだかってくる。歩みを止めた途端に、くるりと周囲を囲まれた。
「……ジルベルト様」
「大丈夫だ」
低い声がしっかりとそう告げた。しかし周囲にはざっと数えただけでも十人近くの人がいる。
「道を作る。おまえたちだけで先に進め」
ジルベルト様が腰の剣を抜いた。今まで一度も抜かずに来たのに、ここで剣を抜くということはそれだけのことなんだろう。
「でも、ジルベルト様は……!」
「あとで追う」
短い言葉の中には、信じろと、そう言われているような気がした。唇を噛み締めて、私は頷く。それを合図にジルベルト様が目の前の男に切りかかった。
「フィオ様!」
エリクさんが差し出す手をとり、私は走った。背後で剣と剣がぶつかり合う音がしても、怯んではいけないと自分に言い聞かせて、ただ懸命に足を動かした。
私に出来ることはこれしかない。この魔法薬をクラール様に届けることしか。
中庭を駆け抜け、もうすぐ広場です、とエリクさんが告げた時だ。数人の男が私たちのあとを追って来ていた。息も切れそうな私たちに追いつくのは時間の問題だろう。
「エ、リクさん……!」
どうしよう。頭は焦れば焦るほど判断力を失わせた。エリクさんはそんな私を励ますようににっこりと笑う。
繋いでいた手がほどけた。
「え……」
「そのまま走って!」
エリクさんがそう叫んだ瞬間に、何かを投げた。白い煙が広がって、追ってのスピードが落ちる。
「行ってください、広場はすぐそこです!」
エリクさんは何度も向こうへ煙玉を投げつけて、追手を阻む。けれどそれが尽きたら。
不安で立ち止まろうとする私をエリクさんは睨んだ。
「希望の薬なんでしょう!? 早く行ってください!」
その叫びに、私は疲れた足を無理やり動かした。
走れ、走れ、走れ。私にはこれしか出来ない。
泣くな。泣くのはまだ早い。一人では怖くて仕方なかった。あと少し、あと少しが千里にも感じる。
クラール様。
何度も何度も名前を繰り返す。クラール様、クラール様、クラール様。
人の姿が見える。何人も並ぶ黒衣の魔法使い、隅の方で見守るフランツ様、そして中央に立つのは――
「クラール様っ!」
私はその人の名前を叫んだ。声がかれてもいいと思うほどに、高く大きく。紫色の瞳が、はっとしたように私に向けられる。
気づいた、気づいてくれた、と私はまた大きく名を呼ぶ。いとしい人の名前を。
「クラール様!」
私に気づいたフランク様が叫んだ。早く魔法を、と。
「誰かその娘を捕まえろ!」
人々が私に迫ってくる中、私はそれをすり抜けて走った。
魔法が始まる前に、クラール様のもとへ。そう願うのに、足は遅い。いくら早く走っても、遅い。
魔法使いが解呪を始めようと杖を掲げる。説得して飲んでもらっている暇はない。私はポケットから小瓶を取り出して、歯で咥えるとコルクの蓋を開けた。そのまま薬を口に流し込み、魔方陣の中へと飛び込む。
その瞬間、広場には光が溢れていた。
「フィオ――」
私を呼ぶ人の胸へ飛び込む。眩しさで前が見えなくても、抱きとめてくれたぬくもりで誰か分かった。手探りでクラール様の頬に触れて、口づける。
ごくり、と嚥下する音が聞こえた。
広場を包んでいた眩しい光が、失せていく。
時間にしたら本当に一瞬だったのだろう。その一瞬が魔法使いたちの行動を止め、私にチャンスをくれた。
私は押し倒すようにクラール様の上に乗っていて、クラール様は驚いて目を丸くしたまま私を見上げている。フランク様も、魔法使いたちも、いつの間にかにやってきていたジルベルト様やエリクさんも、魔方陣の真ん中にいる私たちを見ていた。
「……フィオ?」
どこか呆けた声で、クラール様が私の名前を呼ぶ。その声を聞いた途端に自分のしでかしたことを意識してしまって、私は顔を真っ赤にして慌ててクラール様の上からどいた。
「ご、ごめんなさい!」
あの眩しい光の中で、誰かに見られたということはなさそうだけど――そういう問題じゃない。薬を飲ませることにばかり気を取られていたけれど、あれは、間違いなく、キスをしてしまった――ということになる。
「だ、誰か、あの小娘を捕えろ! すぐに解呪の再開を――」
すぐに正気に戻ったフランク様が近くにいた衛兵に指示を出す。何人もの衛兵が私に歩み寄ってきて、私は思わず一歩後退った。
後悔はしていないけど、騒ぎを起こしたという自覚はある。しかし、私の背があたたかい何かにぶつかった。
「フィオを捕まえる? 誰の許しを得て? 僕の逆鱗に触れたらどうなるか……分かっているんだろうね?」
いつもは甘やかなはずの声が、ひやりと冷たい。私の肩を大きな手がそっと引き寄せた。
衛兵が明らかに戸惑った表情で歩みを止める。どうすればいいのか、と言いたげにフランク様を見ていた。
「これ以上愚かな真似はおやめなさいな、見苦しい」
高く凛とした声は、よく知っているものだった。深紅のドレスが色鮮やかな女性は、今この王宮にはいないはずのマルティナ様だった。
「おまえ、なぜここにいる。夫の言うことが聞けないのであれば――」
「あなたとはもう夫婦ではありませんわ。屋敷に離縁状を置いてきましたので、どうぞあとでサインでも書いておいてくださいな。こんないたいけな女の子をいじめて、己のためにこんな騒動を起こすような男にはもう付き合っていられないわ」
啖呵を切ってフランク様を睨みつけるマルティナ様は、実に堂々としていた。フランク様も呆然としている。
「煙玉だけでなく閃光玉まで用意していたのか」
「いざって時に使えるかと思いまして。実際役に立ちましたね」
間抜けた会話が聞こえて、中庭に面している方を見れば、少し薄汚れたジルベルト様とエリクさんがにっこりと笑う。
あの一瞬の眩しい光はエリクさんの仕業だったらしい。
「……どうしてフィオがこんな姿でいるのか、こんなに必死になって僕のもとへ駆けつけてきたのか――聞きたいことは山ほどあるけど、後にしよう」
クラール様がふと上を見上げるので、私もつられるようにして顔をあげる。真正面にあるバルコニーに、立派な服を着たおじさんが立っていた。
「……国王陛下。無事に魔女の呪いは解けました。その上で、お話しなければならないことがあります」
クラール様の発言で、他の人々は一様に慌てて膝をついた。国王陛下、と理解した時には頭が真っ白になる。私も跪いた方がいいんじゃないだろうか、と思ったけれど、クラール様が私をしっかりと抱きよせているので、そうもいかない。
「申してみよ」
低く重厚なその声は、どこか優しさが含まれていて、ああクラール様のお父様なんだ、と私は実感する。
「私は、魔女に呪われたのではありません。魔女に命を救われたのです」
クラール様は穏やかな微笑みを浮かべたまま、その場を揺るがす言葉を吐き出した。
「愚かな私は、王子としての責務から逃れたいと願っていました。理想の王子として生きることが苦しくて仕方なかったのです。だから私は魔女に頼みました。どうか、私が死ねるような毒を作ってくれ、と」
幼い頃より毒に慣らされた身体では、普通の毒程度では死ねない。だから国一番の魔女に強力な毒を作ってくれと懇願した。
クラール様は悲しく恐ろしい過去を昔話でもするかのように、とつとつと語った。
「彼女は毒だと言って薬を私に渡しました。けれど、それが忘却の呪いの薬だった。彼女は何もかも忘れさせることで、私の命を救ったのです」
ごめんなさい。許してくれなくていい。私はあなたを呪います。あなたを苦しみから救うために、私はあなたを呪います。お願い、どうか私を忘れないで。
――ヴィンカ・フロックスが手記の最後に記した言葉の意味をそこで初めて知る。
彼女は殺して欲しいと願ったクラール様を、生かしたのだ。記憶を奪うという方法で。
そして真実を伝えぬまま、クラール様のことを守るために自ら死を選んだ。王子を呪った魔女という汚名までも被って。
それはなんと尊い愛だろうか。どれほどの決意で、彼女はクラール様を呪ったのだろう。
「――このように、私は愚かな人間です」
懺悔のような言葉が、ただクラール様から国王陛下へ捧げられた。その場にいる人々は皆、驚きで言葉を失っている。
「愚かな私ですが、陛下にお願いがあります」
「……何を望む」
「私は、とうの昔に王族としての己を捨てた身です。私は、私を救ってくれたこの少女と共にあることがしあわせにございます。臣下としての身分を頂き、これから国のために働けたらと」
「呪いは解けたというのに、王子に戻るつもりはないと?」
「王子に戻る価値のある人間ではございません。また、不要の混乱を避けるためにもそのようにしたいと存じます」
そうか、と国王陛下は小さく呟いた。
「……ならばそのようにするが良かろう。素質のないものを王にするほど余も愚かではない。これまでのように、北方にて国防に務めるが良い」
「ありがとうございます……父上」
クラール様の声を聞いたのか聞かなかったのか。国王陛下はさっと踵を返して王宮の中へと消えていった。
「……いいんですか? クラール様」
見上げて私が問うと、クラール様はどこかさっぱりとした顔で「なにが?」と問い返してくる。
「王子様に戻らなくて」
「フィオは、王子様の僕の方がいい?」
「王子様でも、王子様じゃなくても、クラール様ならそれでいいです」
即答してから思わず恥ずかしくなって、私は頬を赤く染めた。クラール様は嬉しそうに笑って私の身体を抱きしめる。
「僕は、フィオがいてくれるならなんでもいいよ」
でも、どうせだったらたくさん一緒にいられる方がいいよね。
そう耳元で囁くクラール様に、もしかして王子様が嫌なのは忙しいからかしら、なんて思ってしまった。
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