忘却の王子とはじまりの魔女:3
それからどのくらいの時間が経ったのか分からない。静かに階段を上る音に、私は顔をあげた。
「フィオ」
低いジルベルト様の声を確認して、私は扉に駆け寄る。窓から顔を出すと、ジルベルト様とエリクさんと目が合った。
「魔法薬は?」
エリクさんに問われて、私は小瓶を掲げてみせた。
「出来ました」
二人は頷いて、にっと笑う。その笑顔に、ほんの少しだけ自信が湧いてくる。
「あとはやってきた奴らから鍵を奪って、脱出ですね」
「はい、お願いします」
二人は扉から少し離れて、身を潜めることになった。階段を上がる途中で気づかれては困る。私はベッドに横になって少しだけ眠ることにした。
疲れていたのだろうか、ベッドに入ると急激に睡魔がやってくる。
一人でいる時は緊張して眠れそうになかったけれど、すぐ近くにジルベルト様やエリクさんがいると思うと自然に眠りについた。
ぐぁ、という鈍い声で目を覚ました。
窓から差し込む光が明るくなっている。青空が見えることから、早朝ではないと分かった。
がちゃり、と鍵が開いて、ジルベルト様が顔を出す。足元には気を失った男女が一組。エリクさんはトレイを持ち上げて笑っている。
「ゆっくり朝食、という暇はないですね」
その口ぶりから、やはり朝食が運ばれてきたのが遅い時間なのだと分かる。はい、とパンを渡される。
「あと上着です。そのままじゃ寒いですからね」
どこに持っていたのだろう、と思いながらもエリクさんから上着を受け取って羽織る。
「行くぞ。あまり時間がない」
しっかりと頷いて、私はジルベルト様に続いて階段を下りはじめた。
*
城の広場で、魔法使いたちが魔方陣を描いていく。幾何学的な模様は、ただ観賞するだけなら美しいものだな、と思った。
「クラール様、まだ準備の途中ですが」
広場の隅で魔法使いたちの様子を眺めている僕に気づいたフランクが、つかつかと歩み寄ってきた。
「分かっているよ。でも自分のことなのだから、経過を見ていたいと思うのは当然だと思わないか?」
「しかし」
「潔斎だのなんだのとってつけたような理由も、もういいだろう? ずっと部屋に籠っていたんだ、退屈で死にそうだよ」
きっぱりと言い切ると、フランクが苦い顔をして黙りこむ。ここで否定しなければ、潔斎がなんの理由もなくただ僕を閉じ込めておくための方便だったと認めているようなものだ。
「君こそ、こんなことしていていいのかな。マルティナを屋敷に帰したんだって? せっかく二人でいられる時間だっていうのに。仕事ばかりしていると嫌われるよ」
「もとより好き合っての結婚ではありませんので」
フランクは眼鏡をあげ、僕から目線を逸らす。
「あれは、もともとあなたの婚約者だった」
「知っているよ」
知っているだけだけどね、と呟きながらだからなんだと思う。
今は君の奥さんでしょ、と言ってしまいたい。言ったところでこの朴念仁には通じないだろうけれど。
広場の真正面には大きなバルコニーがある。祭典なんかの時にあそこから国王や妃が手を振るのだ。そのバルコニーに大仰な椅子が置かれているのを見て、ため息を吐く。
「随分と大がかりだね。陛下も見に来るの?」
「……その予定です」
「それだけの自信があるということかな」
「それは……私は魔法使いではないので分かりかねます」
上手い逃げ方だね、と笑って僕は柱に背を預けた。
春はまだ遠いのか、風が冷たく体温を奪っていく。王都ではあまり雪が降らない。これほど寒いのだから降ってくれればいいのに。
「呪われた八年間は、長いものだったのかもしれません。しかし、呪いが解ければすべては元通りになるでしょう」
その言葉はまるで、僕に王位を継いでほしいと言っているようだった。
元通りになるということはそういうことだ。僕が一番望んでいない筋書き。
「元通りにはならないよ。八年で変わったものもある。フランク、君が何を望んでいるかは知らないけれど、僕は君の理想通りの人間にはなれないよ」
記憶を取り戻した時、呪われた日々の記憶はどうなるのだろう。残らず綺麗に僕の中にあるといいな、と願った。フィオとの出会いを、記憶を取り戻すことで無くしてしまったら本末転倒だ。
「私はずっと、あなたが国王となり、私が宰相となるのだと信じていました」
フランクがどこか遠いところを見つめて呟いた。ふぅん、と僕は自分でも味気ないと思う相槌を打った。
「君はこのまま宰相になるだろうね。でも僕は王にはならない」
「クラールハイト様」
かつての名前に、僕は苦笑した。呪われて、この王宮を去った時に捨てた名前だ。フランクがどれだけ僕に理想を抱いていたとしても、僕は覚えていない。けれど想像することは簡単だった。王子らしくあろうとした僕が、本来あるべき僕なのだと、フランクは思うのだろう。
「準備が整いました」
壮年の魔法使いがフランクに報告しにやってきた。広場に目を向ければ、そこには大きすぎるほどの魔方陣が完成していた。
太陽は一番高いところにあり、冬特有の穏やかな光を地に注いでいる。
周囲の目が僕に集まった。無言で移動するようにと急かしている。そんな風に見なくても逃げたりしないよ、と笑うしかない。
ゆっくりと歩を進め、魔方陣の中央に立つ。妙にふわふわとした頼りない感覚だった。魔方陣を囲むように、数人の魔法使いが立ち並ぶ。逃げ続けるのも無理か、と半ば諦観したその時だった。
「クラール様っ!」
少女の声が広場に響いた。
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