ただ一人のあなた:2
大きくあたたかい手が私の手を握っている。マルティナ様の手じゃない。
目を閉じていても、夢現に漂っていても、私にはすぐに分かった。
「……クラール様?」
ぼんやりとする思考の中で目を開けると、暗くなった部屋の中で、白銀の輝きを見つける。
「まだ熱は高いよ。寝てなさい」
甘い声は私を包み込むように響いて、安堵と共に私はまた夢の中へ落ちていく。いや、これが夢なのかもしれない。どちらでも良かった。「クラール様、フィオの看病なら私がやりますから、どうぞ休んでください。明日も公務があるのでしょう?」
「どうせフィオが心配で眠れないよ。こうしている方が落ち着くからいいんだ。君だってあれから寝てないだろう、マルティナ?」
「……分かりましたわ。もう少ししたら意地でも交代していただきますからね」
ふぅ、とため息を零すマルティナ様の声が耳に届く。クラール様、私は大丈夫だから寝て下さい。そう言いたいのに言葉にならない。
「病人に、悪戯はしないでくださいよ?」
茶化すような声に、クラール様が苦笑したのが分かる。大丈夫だよ、少なくとも今はね。そう答えるクラール様に、マルティナ様は「正直ですこと」と笑った。
扉が閉まる音がして、しんと部屋が静まり返る。
「……フィオ」
クラール様の指がそろりと私の頬を撫でる。壊れ物に触れるような仕草だった。
「忘れたくない、忘れたくないよ、僕だって。君のことを、忘れたくない」
それはたぶん、私が聞いてはいけない言葉だったんだろう。クラール様の声は絞り出されるようにか細く、地を這うように低かった。
「忘れたくない……!」
私の手を握る力がわずかに強くなる。大人の人だけど、その大人の人に縋りつかれているような、そんな気持ちになった。
目蓋越しに明るい光を感じて、私は目を覚ました。
ちょうど額のタオルを替えるところだったんだろうか、マルティナ様の緑色の瞳と目が合う。
「あら、お目覚めかしら? 具合はどう?」
「……大丈夫、だと思います」
身体はまだ少しだるいけれど、熱は下がったようだ。マルティナ様は私の額に手をあてて、じっと私の顔を見る。
「うん、熱はないみたいね。でも今日は大人しくしていなさい。病みあがりなんだから」
「はい、分かっています」
「いい子ね。食事は? 食べられそう?」
すっかり病人の扱いだな、と思いながら私は「食べます」と答える。着替えなくちゃ、と思って立ち上がると、思った以上にふらふらしていた。
「部屋まで運ばせましょう。ほら、これを羽織って。肩を冷やしてはいけないわ」
夜着姿に厚手のストールを肩にかけて、私は寝室を出た。ふらついたのはほんの一瞬だったのだが、諸々の手間を考えると部屋で食べる方が楽だ。
「フィオ、もう大丈夫なの?」
繋がっている自分の部屋に出た途端、クラール様が柔らかく微笑んでこちらを振り返った。まさかいるとは思っていない人の姿に、私はまた熱が上がりそうだ。しかもこんな姿のままで。恥ずかしくてストールをかき寄せる。
「顔色もいいね。良かった」
「……クラール様、こんな朝早くから女性の部屋にやってくるのはさすがにマナー違反だと思いますけれど?」
マルティナ様にとっても予想外のお客さんだったのだろう。呆れたような、怒っているような声でマルティナ様が指摘すると、クラール様は何食わぬ顔で笑う。
「フィオの顔を見てからじゃないと一日が始まった気がしないんだ」
「今日くらいは我慢してください」
「フィオが心配で仕事なんて手につかなくなるよ」
あまりにきっぱりと言い切るので、マルティナ様も言い返すことに疲れたようだ。侍女に長いカーディガンを持って来させて、私に着せた。その上からストールを羽織れば先程よりはマシになる。クラール様はこんなところだけ紳士的で、私のことを見ないように背を向けていた。
運ばれてきた食事は、私のものだけはいつもより量が少なく、消化にいいものばかりだ。病みあがりということが考慮されているんだろう。
マルティナ様も一緒に、三人で食事するというのは初めてだ。クラール様もマルティナ様もまるで競い合うように私の世話を焼こうとするので、そんな二人の姿を見ているとおかしくて笑ってしまった。
食事もそろそろ食べ終わるという頃だった。コンコン、というより扉を叩くような激しいノックのあとで、こちらの返事も聞かずに扉が開けられた。
「失礼する。クラール様、やはりこちらにいらっしゃったのですか!」
乱暴に部屋に入ってきたのはフランク様だった。クラール様がため息を吐き出し、マルティナ様は眉をひそめる。
「ちょっと、女性の部屋に入ってくるのに今のは失礼にもほどがあるわ! 私の夫はいつからそんな恥知らずになったのかしら」
「おまえの小言を聞いている場合ではない」
つかつかとフランク様はクラール様に歩み寄る。一瞬だけ私をじろりと睨んで、私は思わず身を縮めた。
「ご自分の立場を考えて行動していただきたい。クラール様、たかが小娘一人に執心しすぎです。逆鱗と笑われるまでならばまだ良い。最近ではあなたの愛人なのではという声まで臣下の間ではあがっています」
「人の足を引っ張るしか能のない貴族に何を言われようがかまわないよ。そもそもそれはここで言わなければならないことなのかな」
自分のことを話に出されて、私は戸惑った。クラール様の逆鱗と呼ばれていることには気づいていたけれど、まさか愛人だなんて噂があるなんて。
ちらりとクラール様を見ると、誰の目から見ても分かるくらいに怒っていた。纏う空気が冷たくて鋭い。
「僕の行動に不満があるなら、僕にだけ言えばいい」
「私はクラール様にだけでなく、その娘にも言ったつもりなので」
「なお悪い」
吐き捨てるようにクラール様が言う。私は居場所がなくてどうすればいいのか分からなかった。マルティナ様がそっと隣に寄りそって、私の手を握ってくれる。私は悪くないんだよ、と言ってくれるかのように。
「これからは行動に気をつけるよ。それでいいだろう? フィオを巻き込むのはやめてくれ」
「その娘を帰せば済むことでは?」
フランク様の目が私を見る。底冷えするような冷たい目だった。同じ目を私は知っている。まともな食事も与えられずに働かされていた時の、旦那様や奥様の目と同じだ。今ならその目が込める意味も分かる。見下しているのだ。
「フィオが帰るなら僕も帰るよ。忘れないで欲しいな。僕がここに残っているのは君たちのためじゃないし、君たちに説得されたからでもない」
行くよ、とクラール様が一言呟き、フランク様はその後ろに続いた。
「私、あなたと結婚したことを心の底から後悔しているわ」
低く呟いたマルティナ様を一度だけ振り返って、フランク様は何も言わずにこの部屋を出ていった。
「……不快な思いをさせてごめんなさい。私、少し部屋に戻っているわね。あなたはちゃんと休むのよ?」
マルティナ様は淡く微笑むと、私の頭を撫でた。私よりもマルティナ様の方がずっと傷ついているように見える。
「大丈夫ですか?」
心配になってそう問うと、マルティナ様はおかしそうに笑う。
「それはこちらのセリフよ、あなたは人の心配をしてないで、体調を整えなさい」
しゃんと立つマルティナ様は、一見すれば普通通りだ。しかしどこか悲しげであることに、私は気づいていた。
けれどこれ以上の追究をマルティナ様が求めていないように思えて、黙って部屋を出ていく背中を見送る。
私は大人しく寝室に戻り、嫌な気持ちを隠すように布団の中に潜り込んだ。
浅い眠りについていた頃、フィオ様、お嬢様、と呼ぶ声に起こされた。
「…………ん?」
目をこすり潜っていた布団から顔を出すと、侍女がにっこりと微笑む。
「ジルベルト様が、クラール王子からだと贈り物を持ってきてくださいました」
そう言いながら小瓶と、小さな手紙を差し出してくる。小瓶の中身は菫の砂糖漬けだ。ありがとう、と寝ぼけながら受け取る。
「ジルベルト様は?」
「寝ているのなら、とお戻りになられました」
侍女が失礼しました、と綺麗なお辞儀をして寝室から出ていく。どうせならジルベルト様が来て下さった時に起こしてくれればいいのに、と思いながら手紙の封を切った。中の文字は見慣れたクラール様のものだ。
「……今日は部屋に行けないけれど、いい子で安静にしているんだよ……か」
今朝のこともあるので、クラール様も気を使ったのかもしれない。もしかしたら本当に忙しいのかもしれないけれど、私には確かめる術がなかった。
寝ていただけなのに少し小腹がすいていた。さっそく瓶を開けて、砂糖漬けを口に放り込む。口の中で溶けるように広がる甘い味に、不安定な心が落ち着いた。
するとじわりじわりと眠気がやってくる。もう随分と寝ているのにな、と思いながら私はまた横になった。
しっとりと静かに訪れる眠りは、その時だけは急速に私を夢の中に連れていく。あっという間に、私は泥のように眠りに就いた。
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