5:Please,forget me not.
ただ一人のあなた:1
僕は、自分のことが嫌いだ。
呪いは、僕にとって都合のいい逃避だった。王族としてのしがらみを疎んだ僕は、呪いを理由にこの王宮を去ることができて、ほっとしている。
正直呪いが解けなくてもいいと思っていた。多少の不便はあるけれど、得た自由と比べれば瑣末なものだった。
けれど今、僕の胸にすがりつくようにして泣くこの子は、忘れないでと僕に願う。
たった一年で記憶を失う僕に、忘れないでと。それはこの呪いが解けない限り、叶うはずもない願いだ。
泣いているフィオを見ていると、なんとも言えない想いが胸を支配した。泣かせてしまっていることに対する罪悪感と、僕のために泣いてくれているという充足感。
ほとりほとりと零れる涙は、なんと綺麗なんだろう。
「……フィオ」
艶やかな黒髪を撫でながら、彼女の名前を呟く。僕がつけた、彼女の名前。いつまでも褪せぬ花。
どうしてだろう。記憶なんてなくても生きていけると、思っていたのに。
彼女のことだけは、覚えていたいと願ってしまう。涙も笑顔も何もかも。彼女の一瞬一瞬を、確かにこの目に焼きつけて、忘れたくない。
「フィオ」
確かめるように何度も名前を繰り返して、僕は小さな身体を抱きしめた。強く抱きしめれば折れてしまうのではないかと思うほど細い身体のどこに、その真っ直ぐな強さはあるんだろうか。
ああ、僕だって。
――きみのこと、おぼえていたい。
*
クラール様は、何も言わずに滞在期間を延ばした。
私がお願いしたからですか、と問うと、クラール様はにっこりと笑って「ただの気まぐれだよ」と答えた。けれどそれが嘘だということくらい、私には分かっていた。
「やっぱり上手く進んでないみたいだね、魔法使いの人たちの研究は」
朝食を食べながら、クラール様が何気なく呟いた。
「やっぱりそうなんですか……」
魔女が見つかれば何か打開策が見つかるかもしれない、という話だったが、王宮に魔女がやってきたという噂は聞いていない。まだ見つかっていないのだろう。
「……知らなかったの?」
「はい、最近は王宮の書庫に行っているので」
驚くクラール様に、私はにっこりと笑って出来る限り自然に答えた。
本当は、この間のように誤解されないようにエリクさんを避けているのだ。あの場に私が行ったところで解呪の話が進展するわけでもないし、ちょうどいい。
「ご歓談中失礼いたします。クラール様、昨日お話した件なのですが」
「急ぎじゃないなら後にしてほしいんだけど」
「申し訳ありません」
朝食を食べている途中で、フランク様が部屋に入ってきた。クラール様が困ったようにため息を零す。
「譲歩してくれないからなぁ、フランクは。まぁちょうど食べ終わったし、行くよ」
クラール様はフォークを静かに置いて立ち上がる。
私を見て「行ってくるね」と微笑んだ。少し前はこういうことがあると少し不機嫌になったものだけど、最近のクラール様は意欲的に仕事をしているようにも見えた。
クラール様の後ろをついて行こうとしたフランク様は、ふと立ち止まって私を見た。クラール様は気づかずにそのまま部屋から出ていく。
「……君という子には、本当に悩まされるな」
眼鏡の奥の目がひんやりと私を一瞥して、小さく呟いた。
「え……」
「君のおかげで、クラール様の呪いを解く手掛かりは見つかった。けれど、クラール様は君に依存しすぎているように見える。あの方は王族だ。心を傾ける相手はただ一人ではなく、国民すべてであるべきなのだ」
正論だった。私には返す言葉が見つからない。見つかるはずもなかった。
「呪いが解ければ、クラール様も王子としての働きを期待されるはずだ。呪いにかからなければ、今もあの方は王位継承者だったのだから」
フランク様はそれだけ言うと、踵を返して部屋から出ていった。
今のはたぶん、私に釘を刺したのだろう。クラール様は王子なのだと。
本来ならば、私が気安く接することのできる人ではないのだと。そう――私は理解しているようでしていなかった。クラール様の呪いが解けたら、あのお屋敷で変わらずに過ごすのだろうと、なんの疑いもなく信じていた。そんなことあるわけがないのに。
目の前のデザートが、砂の塊のように感じる。さっきまでは甘かったのに、味気がなくて美味しくなかった。
埃っぽい書庫を嫌うマルティナ様のために、めぼしい本を何冊か部屋まで持ち帰ることにした。
ここ数日は部屋で勉強することの方が多い。マルティナ様がいれば教えてもらうこともできるから、ちょうど良かった。
「暇ね、本当ならそろそろ帰っている頃だし」
休憩の合間に紅茶を飲みながらマルティナ様が呟く。
意気込んでクラール様の呪いの解呪に首を突っ込んだけれど、実際に解くまでの研究となると私は専門外だ。特に魔法使いのやり方ならばなおさら。
「そうですね……クラール様は前より忙しいみたいですし」
「最近随分と頑張っていらっしゃるわね。国民としては田舎に引っ込まれているよりはマシだわ」
あんな呪いにかかっていたら仕方ないのだけど、とマルティナ様は付け足す。
「やっぱり、皆そう思っているんでしょうか」
マルティナ様の言葉が胸の奥に引っかかって、私はぽつりと零す。見下ろしたティーカップの中の紅茶はゆらゆらと揺れていた。
「皆っていうのはどこまでを指すのかしら?」
「皆です。この国に暮らす皆」
マルティナはため息を吐き出して、ソファにもたれる。淑女としてはあまり褒められた態度ではない。
「クラール様が呪いにかかった時、まだ十五歳だったこともあって、国民からの反応のほとんどが同情だったわ。十五歳といってもクラール様は公務をきちんとこなしていたし、人気があったのよ。今だって憐れな王子様って思っている人がほとんどだわ」
「人気があったんですか」
「まさに王子様らしい王子様だったからね。国民の目からすれば。直接クラール様と関わる人にはそれが嫌だったんだろうけど」
よく分からなくて首を傾げると、マルティナ様は苦笑した。
「優秀で、民には優しい。妥協する人ではなかったわ。だから貴族の人間にしてみれば扱いにくい子どもだったんでしょうね。父親ほど年の離れている人でも間違っていると思えば、かまわず指摘していたわ」
マルティナ様は窓の向こうを見つめて、まるでかつての日々を思い出すようにとつとつと語った。
「隙のない人だった。けれどたぶん、それはクラール様が人に隙を見せようとしなかったからね。あの年で、そうしなければならないと思っていたんでしょうね。けれど、ヴィンカにだけは違った」
「ヴィンカ?」
聞いたことのない名前だ。マルティナ様は、無意識にその名前を口にしたのだろう。自分でも驚いて手で口を覆っている。その仕草でなんとなく悟った。
ヴィンカ。それはクラール様を呪った魔女の名前だと。
「……私は、何も聞いていませんよ?」
にっこりと笑ってそう言うと、マルティナ様は苦笑して「ありがとう」と小さく答えた。
「彼女とクラール様は、仲が良かったわ。クラール様も彼女の前では年相応の子どもになっていた。そう、まるで姉と弟のようだったわ」
もう遠い過去を懐かしむその顔は、どこか寂しげだった。マルティナ様はティーカップをそっと下ろすと、そろそろ再開しましょうか、と声をかける。私はただ頷いて、また本を開き勉強を始めた。
いくら文字を目で追っても、言葉は頭に入ってこない。
民に慕われる王子様。クラール様の呪いが解ければ、国中の人が喜ぶのだろう。
私だって、クラール様の呪いが解ければ嬉しい。けれどどうしてだろう、今の私は、ほんの少しだけクラール様がこのままでいてくれたら、とも願っていた。
記憶が戻っても、クラール様は私を大事にしてくれるだろう。あの優しく甘やかな声で私の名前を呼んでくれるだろう。だけど今までのように暮らすことはできないのではないだろうか。
だって、クラール様は王子様なんだから。
クラール様の呪いが解けても、当たり前のようにあのお屋敷に帰るものだと思っていた。なんて愚かな私。クラール様が本来いるべき場所はこの王宮なのに。
「……フィオ? あなた、少し顔色悪くない?」
お互い静かに本を読んでいたけれど、ふと顔をあげたマルティナ様が私の顔を覗き込むようにして問いかけてくる。
「へいき、ですよ?」
答えた自分の声が、思った以上にふわふわと頼りない。マルティナ様が何も言わずに私の額に触れる。
「熱があるじゃないの!」
「ねつ?」
マルティナ様の行動は早かった。侍女に命じてお医者様を呼び、水を用意させて、ぼんやりとした私の服を脱がせてベッドの中に押し込む。意見する暇もなく私は寝かしつけられていた。
「慣れない環境で少し疲れが出たのでしょう。ゆっくり休んでいればすぐに熱は下がりますよ」
「ありがとうございます……」
お医者様は軽く診察して部屋から出ていく。マルティナ様が心配そうに私を見て、額に乗せたタオルを替えてくれた。
「気づかなくてごめんなさい。先生失格ね」
「私でも気づいてなかったんですから、当たり前ですよ。心配かけてごめんなさい、マルティナ様」
マルティナ様は微笑んで、もう寝なさい、と私の髪を撫でた。
厳しい先生からは想像できないほどに優しい声に、私はなんだかくすぐったくて笑った。目を閉じるとすぅっと眠りの中へ沈んでいく。
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