最後の魔女:4
手記のほとんどは、薬草に関するものばかりだった。
この草は切り傷に効くけれど、これと混ぜてはいけない。この花の実には胃腸の働きを活発にさせる作用がある。この花は乾燥させてから使うと効果が増す。
それは本に書いてあることよりも詳しく、細やかだった。途中から「王子」という言葉がちらほらと見え始める。
――王子への毒の投与を任されることになった。可哀想に、まだ子どもなのに、どうしてこんなことをしなければならないの?
最初は憐れむような言葉ばかり。けれど徐々に王子への言葉が増えていく。
嫌だ、やりたくない。この人に毒を与えるなんて耐えられない。苦しい。辛い。いとしい。
美しく綴られていた文字は歪になっていく。それは魔女の吐き出した葛藤だった。自分の仕事と、いとしい男への想いがぶつかり合っている。
――嫌だ嫌だ嫌だ。もうこんなことはしたくない。どうして私なの。どうして彼なの。どうしてこんなことをしなければならないの。嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう嫌だ。
もはや解読できないような文字が並んだページのあと、ぷつりと途切れる。ページが破られている部分だった。
そして残っているページをめくる。美しい文字が戻っている。
――ごめんなさい。許してくれなくていい。私はあなたを呪います。あなたを苦しみから救うために、私はあなたを呪います。お願い、どうか私を忘れないで。
最後に書かれていたのは、それだけだった。
目をつむり、静かに手記を閉じた。
ふぅ、と重いため息を吐き出す。言葉らしい言葉は何も浮かばなかった。ただ、胸が締め付けられるように苦しい。
一人で向きあいたかったので、眠る前に読んだのだけど失敗だったのかもしれない。手記から溢れだす壮絶さに、眠気はすっかりどこかへ逃げてしまった。
「…………」
しばし逡巡したあと、私はもう一度手記を開いた。前半の薬草についての情報だけでも写そうと思ったのだ。クラール様の呪いに関わるものかどうかは別として、重要そうなものだけでも手元に残しておきたい。
ペンを走らせる音だけが部屋の中に響き、夜は静けさを増していきながら更けていった。
妙に頭が冴えていて、もしクラール様の呪いを解くなら、と薬草の組み合わせまで考えていた。
素人の私が考えたものだから効果があるとは思えないけれど、ノートの隅に書き残しておく。
気がつけば私は夢中になっていて、窓の外が明るくなってきたことに気づいてから慌ててベッドにもぐりこんだ。
眠っていたのはほんの二、三時間ほどで、案の定朝食の時にクラール様と顔を合わせた途端に、クラール様が顔をしかめた。
「……フィオ、無理はしない約束だったよね?」
夜更かししたということが一目で分かるほどに、私の顔はひどいらしい。これでも朝起きてから侍女が集まって少しでもまともな顔にしてくれたはずなんだけど。
「無理はしてないです。その、気づいたら空が明るくなっていただけで」
「それを無理というんだよ。顔色が悪い」
するりとクラール様の指が私の頬を撫でる。綺麗な顔がすぐ目の前にあって、心臓がどくんと跳ねた。
朝食を食べている間はクラール様があれやこれやと甲斐甲斐しくて、まるでクラール様のお屋敷に来たばかりの頃のようだ、と笑ってしまった。
「今日はもう無理しちゃダメだよ。午前中は部屋で大人しくしてなさい。いいね?」
「……はい。えっと、でも午後になったら、魔女の手記を返して来ますね。重要なものみたいだから、あんまり長い間借りているわけにもいかないですし」
約束を破ってしまった手前、午前中は素直に大人しくしているしかなさそうだ。すぐに返しに行こうかと思ったけど、午後になるくらいはいいだろう。
「それは、あのエリクとかいう男のところ?」
クラール様の目が、ひんやりと細められた。
「え? ええ……たぶん、エリクさんもいるんじゃないでしょうか」
魔法使いが研究に没頭している部屋は広く、他にもたくさんの魔法使いがいる。王宮勤めの彼らは今、その大半がクラール様の呪いを解くための研究をしているのだから、エリクさんにも会う可能性はあるだろう。
「……マルティナにでも届けさせればいいんじゃないかな」
「大丈夫ですってば。返しに行くだけですから」
過保護ですね、と笑ってクラール様を見たけれど、クラール様は笑っていなかった。
「……そんなにその男に会いたい?」
「え?」
小さく漏れたその言葉を、私は上手く聞き取れなかった。聞き返すけれど、クラール様は柔らかく微笑んで言葉を隠してしまう。
「君には、少し過保護すぎるくらいの方がちょうどいいんだよ。放っておくと無理するからね」
何を言ったんだろうと思ったけれど、聞きかえせるような雰囲気ではなくて、私は運ばれてきたデザートを食べる。甘い香りが口の中に広がった。
午前中は言われたとおりに休んでいた。というよりも、長椅子にもたれたまま眠ってしまっていた。明け方に寝たせいで睡眠時間が足りていなかったらしい。
「まったく、随分無防備なお姫様ね。狼に襲われても知らないわよ?」
夢現の中でそんな声が聞こえたと思うと、耳元にふぅっと息を吹きかけられた。
「きゃあっ?」
びっくりして飛び起きると、にんまりと笑ったマルティナ様と目が合う。
「お目覚めかしら? お姫様」
「マルティナ様! もう、悪戯はやめてください、びっくりしたじゃないですか」
息を吹きかけられた右耳を手で押さえながら私が抗議しても、マルティナ様はおかしそうに笑うばかりだ。
「危機感というものを覚えなさい、と先生からのアドバイスよ。また魔法使いのところへ行くんでしょう? いつまでねんねしているつもり?」
「もう少し普通に起こしてくれてもいいじゃないですか……」
少し乱れたドレスの裾を直しながら、私は布で綺麗に包んでおいた手記を持ち上げる。
魔法使いたちがいる部屋まではそう遠くないが、私もお城の中では見た目を常に気にしている。女は外見が武器なのよ、というのは私の先生の口癖だ。
「こんにちは」
ノックをして部屋に入ってみると、いつもより空気がぴりぴりしている。魔法使いたちはしかめっ面で何やらぼそぼそと言い合っていた。
「ああ、フィオ様。こんにちは」
私のあいさつに気づいたエリクさんが振り返って笑った。
「手記、返しに来ました。ありがとうございます、ちょっとは参考になりました」
「いえいえ、どういたしまして。もう少し持っていても大丈夫だったんですけど……まぁ、けっこう強烈ですからねぇ。これ」
強烈、と的を射た言葉に私は苦笑する。そう、いろいろな意味で強烈だった。
「それにしても、今日は随分と雰囲気が違いますね?」
部屋の中を支配しているのは、緊張と苛立ちだ。いつもはお互いが意見交換をして激しい論争を繰り広げたりもする、もっと熱い場所なのだけど。
「それがねぇ……どうも、我々の手だけでは呪いを解くことが難しいようなんです。魔法使いと魔女は、分野が違う。まぁ育てている畑が違うようなもんですからね。今はいっそ隠れている魔女を見つけ出して協力してもらえばいいんじゃないかって話をしているところです」
やっぱり、という感想は飲み込むことにする。なんとなくは分かっていたはずだ。
もう何年も魔法使いだけではクラール様の呪いを解くことができなかったのだから。
「フィオ様の意見を取り入れてからはわりと上手く進んでいたんですが、なんというか……決め手がないんです」
「その決め手を魔女に聞いてみようと?」
「ええ、ただ難しい話ですね。王子は滞在期間を延長しないと断言していますし、残りわずかな日数で魔女を見つけ出せるとは思えない」
目撃情報がさっぱりありませんからね、とエリクさんは苦笑した。
魔女が人々から隠れるようになって、この国で魔女らしい姿を見た人はいない。かつては良き隣人として、村や街に一人はいたというのに。
「クラール様がいなければダメなんですか?」
「そりゃあ、重要な情報源でもありますから。それに、我々のやる気にもかかわってきますよ。王子が公務をこなしている姿を見れば、意地でも呪いを解こうと躍起になるけど、地方の屋敷でのんびりすごしている人の呪いを頑張って解こうとは思わないでしょ?」
俺なんて今回の滞在で初めて王子の顔を見ましたしね、とエリクさんは呟いた。
見たこともない王子様のために身を削って研究しろ、なんて言われても無理がある。けれど今目の前で頑張っている人達は、寝る間も惜しんでいるのが痛いほどに伝わった。
「王子もけっこう頑張っているみたいですからね、ちらほらと噂は聞いていますよ」
だから俺たちも頑張ります、と笑うエリクさんに、私は嬉しくなった。こうしてクラール様のために頑張っている人達がいる。それはとてもしあわせなことじゃないだろうか。
滞在期間が延びればなぁ、という魔法使いたちの呟きに、私は後ろ髪が引かれる思いで部屋を後にした。
部屋に戻ると、クラール様がソファに座りながらまた書類仕事をしていた。
「おかえり」
「ただいま帰りました。お仕事ですか?」
テーブルの上にあるたくさんの書類の束を横目で見ながら、私は腰を下ろす。
「うん。確認してサインしなきゃならないんだ。面倒だよね」
「でも、ちゃんとやっているんですね」
クラール様は面倒だと愚痴を零しながら、きちんとその日のうちにやるべき仕事を終わらせてしまう。
「一応は王族だからね、こうして仕事で国民に返さないと申し訳ない」
「……クラール様、王宮に滞在する期間って、延ばせないんですか?」
ぱらぱらと書類をめくるクラール様を見ながら問う。穏やかな顔が一瞬だけ無表情になった。
「……どうして?」
「呪いを解く方法、なんだか苦戦しているみたいなんです。もう少し時間があればどうにかなりそうだって聞いて……」
私が事情を説明すると、クラール様は「そう」と微笑む。いつもと変わらない優しい笑顔のはずなのに、私のうなじをひんやりと何かが撫でるような気がした。
「クラール、さま?」
かたりとクラール様が立ち上がる。怖い、と思った。どうしてだろう、クラール様が怖い。
クラール様は私の隣に腰を下ろして、耳元の髪をするりと持ち上げる。その毛先に口づけて、まるで獣のような目で私を見た。
「そんなに、あの男と一緒にいたい?」
紫の瞳が、私を動けなくする。間近にあるその美しい顔は、いつもの穏やかさをどこかへ隠してしまっていた。
「なに、言って……」
声が震える。
「そんなにあの男と一緒にいたいの? 僕を理由に王宮に留まりたい?」
「あの男……?」
間近に迫るクラール様の目は、氷のように凍てついていた。寒くもないのに鳥肌が立つ。
怖い。クラール様が怖い。
頬を撫でる指先はひどく優しいのに、その手から逃げ出したくなった。
「エリクという名前の魔法使いのことだよ。彼と一緒にいたいんだろう?」
誰の名前だっただろう。
エリク。魔法使い。
私は働かない頭で考える。愛しい彼。私が愛しいと思うのはクラール様だけなのに? クラール様は何を言っているの。私が、エリクさんのことが好き?
徐々に思考が追いついてくる。
何を何を何を、何を言っているの。どうしてそんなことを思うの。
追いついてきたのは思考だけじゃない。ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
分かっていない。クラール様は全然私のことを分かっていない。
金縛りのとけた身体で、私はクラール様の手を振り払う。悔しくて唇を噛み締め、そのまま手のひらをクラール様の頬へぶつけた。乾いた音が部屋に響く。
「私が」
怒りに震えた私の声は、泣いているようにも聞こえる。いや、泣いている。怒っているけれど、同時に私はぽろぽろと涙を零していた。
私は渾身の力を込めて、クラール様の身体を突き飛ばした。クラール様の身体は私よりもずっと大きいのに、いとも簡単に私の腕に押される。
「私が好きなのは、クラール様です!」
驚きで見開かれた紫の瞳に、私はただ悲しくなった。私の想いは、欠片もこの人に伝わっていないのだ。
私はあなたのために王宮までやってきたというのに。
悔しくて、やり場のない怒りをクラール様にぶつけた。呆然とするクラール様の胸を何度も叩く。
「私はただ、クラール様に忘れられたくないだけなんです。特別な存在だからなんて、そんなことじゃ納得できない。いつだって私のことを覚えていてほしい。記録じゃない、記憶に残りたいの。思い出を共有したいの」
涙で視界が歪んで、クラール様の顔がよく見えない。胸を叩く拳はゆるゆると力を失っていく。私がこうして願っても、クラール様の呪いは解けない。
「お願いです、私のことを忘れないで……!」
私はクラール様の胸にしがみついて泣いた。
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