最後の魔女:2
長い馬車での移動を経て、王都へ辿りついた。到着したのは夜だったので、マルティナ様の屋敷だという家に一泊したあとで、明くる朝、城へと向かった。
馬車の小さな窓から見える王城が近づくほどに、不安が募る。
すんなりと入れるのだろうか、とそわそわしている私をよそに、私とマルティナ様を乗せた馬車はあっさりと門の下をくぐる。ぽかんと口を開けていると、マルティナ様が笑って言った。
「あなたね、私はこれでも名のある貴族の妻なのよ? そして、あなたが普段接しているのは城に入るのなんてわけがないくらいの方ばかりなの」
だいたい、あなたが一緒に暮らしていたのはこの国の王子様なのよ? 分かっているの? 呆れたように話すマルティナ様を見つめて、私は目を丸くする。
「ご結婚されていたんですか」
「ちょっと。驚くところを間違えてない? そりゃそうよ。私だってもう二十四歳ですもの。とっくに結婚しているわ」
苦笑いを浮かべながら、マルティナ様は言う。門をくぐって少しもしないうちに、馬車が止まる。
外から扉が開いて、マルティナ様が先に下りた。
「マルティナ」
「あら、お忙しいあなたが出迎えてくださるとは思いませんでしたわ」
ゆっくりと足元を見ながら馬車を下りていた私の耳に、知らない男の人の声と、嫌味を含んだマルティナ様の声が届く。
なんだろうと顔をあげると、紫色の瞳と目があった。
「フィオ」
とけるように甘い声は変わらず、私を慈しむように名前を呼ぶ。白銀の髪は、ちょうど降り積もっている雪のように綺麗だ。
「……クラール様」
新しい年を迎えたのに、クラール様は変わらない眼差しを私に向けてくれる。それが泣きたいくらいに嬉しい。一瞬だけ、記憶は消えていないんじゃないかって期待してしまう。
「それで、君がマルティナ・アスマンだね。どういうわけでフィオをここへ連れてきたのか、説明してもらってもいいかな」
淡い期待は、雪のように溶けて消える。
クラール様はマルティナ様を見て、にっこりと微笑みながら、どこか拒絶していた。
「それはもちろん、すぐにお話しますわ。けれどクラール様。ここで長話になれば、あなたの可愛いフィオが風邪をひいてしまいますけれど?」
マルティナ様は気にした様子もなく、むしろ喧嘩を売るようにクラール様に微笑み返す。妖艶で美しいその微笑みは、うっとりするほど綺麗なのにどこか冷たい。静かに火花が散っているような気がした。
「王子、向こうに部屋を用意してあります。話はそこで」
マルティナ様の隣にいる男性が、火花を散らす二人の間に割って入る。灰色の髪に眼鏡をかけている、どこか生真面目そうな男の人だった。
「まったく、どうして俺はこんな女と結婚したんだろうな」
「それはこちらのセリフだわ」
一見仲が悪そうだけど、話を聞いているとこの男性はマルティナ様の旦那様らしい。じっと見ていると、マルティナ様が少し気まずそうに紹介してくれた。
「夫のフランクよ。覚えなくてもいいわ」
「はじめまして、フィオといいます」
マルティナ様に習っているとおり、ドレスを少し持ち上げて腰を折る。優雅にとはいかないけれど、それなりに見えるはずだ。
「フランク・アスマンです。以後お見知りおきを」
フランク様はきっちりとお辞儀をした。なんだか性格が現れていて分かりやすい。フランク様は私の手をするりと持ち上げて、指先に軽く口づける。
「……っ!」
これがあいさつの一種だとは分かっているけれど、こんなことをされるのは初めてなのでつい赤くなってしまった。マルティナ様がまだまだね、と言いたげに笑っている。
「フィオ、おいで」
ずっと黙っていたクラール様が手招きをして私を呼ぶ。
久しぶりに会うクラール様に、私はどきどきしながらも傍へと駆け寄った。歩きにくいでしょ、と言いながらクラール様が手を差し出すので、私は少しだけ迷いながらも素直にクラール様の手をとる。まるでお姫様にでもなったようだ。
マルティナ様は慣れた様子でフランク様と少し後ろをついてきた。
案内された部屋にはジルベルト様が待っていて、私と目が合うとジルベルト様はわずかに眦を下げた。その懐かしい笑顔に王宮にやって来た、という緊張がほんの少し和らぐ。
「お久しぶりです、ジルベルト様」
「ああ、よく来たな」
テーブルの上には既に甘いお菓子が並んでいて、ふわりと香る紅茶は今さっき注いだばかりのようだった。
ぱっと目を輝かせると、クラール様が微笑む。
「フィオは本当に甘いものが好きだね。用意させておいて良かった」
クラール様が椅子を引いてくれて、私は素直に腰を下ろした。マルティナ様の椅子はフランク様がまるで機械か何かのように無表情で引く。
「それで、急にどうしたんだ」
会話はジルベルト様が切り出した。私はどう答えたら良いものかとマルティナ様を見る。
マルティナ様は紅茶を飲みながら、注がれる視線をさらりと受け流していた。
「フィオが言い出したことじゃないんだろう? どういう理由があって、わざわざ王都までやって来たのかな」
怒られるだろうということは覚悟していたけれど、どうやらお叱りの対象は私ではなくマルティナ様のようだ。クラール様もジルベルト様も、マルティナ様に説明を求めている。
「お知らせしなければならないことがある、と先だって連絡したはずですけれど? 単刀直入に申し上げましょう。もしかすると、クラール様の呪いを解くことができるかもしれません」
「……どういうことか、分かるように言って欲しいな」
クラール様の紫色の瞳が鋭く細められる。私には向けられたことのないような眼差しに、背筋が凍った。
「言ったままの意味です。この子がずっと独学で魔法薬や呪いの勉強をしているとは聞いていましたが、先日、とても興味深い仮説を聞きました。フィオ、話してくれるかしら?」
緊張した空気の中で話をふられて、私は戸惑った。クラール様とジルベルト様の視線が私に向けられる。
「えっと……そんな、大それたことではないんです。クラール様の呪いは、もしかすると記憶を消し去っているのではなく、記憶を隠しているんじゃないかって思ったんです」
集まる視線に身を縮めながらも、私はぽつぽつと語り始める。これを伝えるために王都まで来たのだ。話さないという選択肢なんてものはない。
「以前クラール様が、自分の名前や性格、そして呪いをかけた魔女のことだけは、新しい年を迎えた瞬間でも覚えているとおっしゃっていたので」
私に集まっていた視線がクラール様に向けられた。マルティナ様の言っていたとおり、親しくしていたジルベルト様さえ初耳だったのかもしれない。
「だから、もしかするとクラール様の呪いは、特定の日――クラール様の場合、新年最初の日ですね。その日に、記憶に蓋をしてしまっているんじゃないかと思うんです。それならば、その蓋を取り去ることで、記憶は戻るかもしれません」
紙がないので大雑把な説明になってしまったけれど、どうやら伝わったようだ。皆が考え込むような顔をして黙り込んでいる。
「……ひとつ問題がある。その情報が正しいかどうか、確かめる術がない。おまえが本当にクラール様から聞いて知ったかどうかなど、今は分からないのだから。たとえ正しくとも間違った手段で手に入れた情報ならば、信頼するわけにはいかない」
フランク様が私を睨むようにして低く告げる。
この人にとって、私はどこの生まれかも分からない小娘だ。ただクラール様の庇護下にあるというだけの。
正直、そう問い詰められても私にはどうしようもなかった。クラール様から聞いた、としか言いようがないが、それを証明する術は私にはない。
「もちろん僕の記憶はないけど、確かに言ったよ。日記にそう書いてあった」
俯いた私の耳に、予想外の援護があった。隣に座るクラール様は何食わぬ顔で紅茶を飲んでいる。
「……日記、ですか」
フランク様が顔を歪めて問う。それは信用できるものなのか、暗にそう問うているようだった。
「クラールハイト・ラルス・ヨハン・ラティフォニアの名において、ここに記す言葉に一切の偽りがないことを誓う。……日記の一ページ目にそう書いてあった。だから僕はこの日記に書かれていることを信じる。あなたにとっては、信頼するに値しない名かな? アスマン宰相補佐官」
「……滅相もありません」
長いその名前は、おそらく本来のクラール様の名前なのだろう。クラール様はにっこりと笑っていたけれど、その紫の瞳はちっとも笑っていなかった。
「馬鹿ね、その子をいじめるようなことを言ったらダメよ。クラール様の逆鱗なんだから」
フランク様を見てため息を吐き出しながらマルティナ様が笑う。
ご夫婦のはずだけど、どうもジルベルト様とアリーセ様のような雰囲気がない。どちらかというと喧嘩友達のようだった。
「その逆鱗を無断でこんなところまで連れだしたのは君だよね、マルティナ」
ひんやりとするクラール様の声に、隣に座っているだけの私ですらそわそわとした。怒っているということは嫌でも分かる。それだというのに、マルティナ様はけろりとしていた。
「悪いことをしたなんて思っていませんわ。すべてはクラール様のためになることですもの。それに、あなたのお姫様がそれはそれは寂しそうにしていたもので」
「マ、マルティナ様!」
慌てて口を挟むけれど、遅かった。留守を預かったくせに寂しくて王都まで来た、なんて子どもっぽくて嫌になる。
「……寂しかったの、フィオ?」
隣に座るクラール様が私の髪を撫でて、微笑みながら問いかけてくる。その目は冷たさなんてどこかへ吹き飛ばしていて、やさしくただただ甘い。
「……あ、当たり前じゃないですか。クラール様はずっといないし、いただいた菫の砂糖漬けだって、全部なくなっちゃったし……あのお屋敷は、広いから」
寂しさを埋めようとして身体を丸めて眠っても、広い部屋の中、大きなベッドの上では空しいだけだ。
「そっか、ごめんね。でもだからこそ、フィオが寂しくないようにマルティナとアリーセに頼んだんだけどなぁ」
「……怒らないんですか? 勝手に王都まで来たのに」
冷たさの欠片もない笑顔で私を見つめるクラール様を見上げながら問うと、クラール様は「なんで?」と首を傾げた。
「怒ることじゃないよ。本音をいえば、こんなところには来て欲しくなかったけどね」
「こんなところって……クラール様が育ったところですよね?」
クラール様の、否定的な言い方が妙に気になった。かつて呪いを受ける前のクラール様がたくさんの人に愛されていた場所だ。こんなところ、という言い方はトゲがありすぎる。
「ここはね、見た目とおりの綺麗なところじゃないんだよ、フィオ。怖い人がいっぱいいるんだ。だから、早く帰ったほうがいい」
怖い人、というのがどういう人なのか、私には分からない。けれど、おそらく私が知っている種類の「怖い人」ではないのだろう。
ジルベルト様もマルティナ様も、フランク様さえ何も言わなかった。それは無言の肯定で、ここがお伽話のような豪華絢爛の、素敵なだけの場所ではないことを語っている。
「……それなら、帰れません。そんなに怖い人たちがたくさんいる場所に、クラール様を置いて行くなんて私にはできませんから」
私は静かに首を横に振った。クラール様は目を丸くしている。
「私は非力だし、出来ることは少ないけど。でもクラール様の呪いを解く手がかりを見つける、お手伝いは出来るかもしれません。……クラール様の言うことはちゃんと聞きますから、一緒にいさせてください」
クラール様の袖を掴んで、瞳を見上げて乞う。クラール様は一瞬怯むような顔をして、そして今にも泣きだしそうに顔を歪めて笑った。
「……君って子は、自分の言葉がどれだけ重いか分かっているのかなぁ」
今二人きりじゃなくて良かった、と呟くクラール様に、私は首を傾げた。
はぁ、とため息を吐き出す音が聞こえて、私はふと頭を動かす。
「私が連れてきたんですもの、責任もって彼女のことは私が見ています。王宮の魔法使いにこの話を聞いてもらってみないことには始まりません」
ため息の主はマルティナ様だったらしい。
クラール様はマルティナ様をじぃっと観察するように見つめたあとで、小さく息を吐いた。
「そうだね、僕の目がないときは君に頼もうかな」
心なしか「僕の目がないとき」が強調されているような気がする。
「……心配なさらずともクラール様の目の届かないところへは連れていきませんわ」
ジルベルト様は変わらずに私を見て微笑むけど、フランク様だけは苦い顔をしていた。何かあったんだろうか。
「正直な話、フィオを王宮の人間と関わらせるのも嫌なんだけどね」
「それでは御身にかかった呪いは解けませんわ」
「……解けなくてもいいよ、別に」
クラール様がまるで吐き捨てるように言った。マルティナ様が呆れたように黙り、ジルベルト様は苦笑する。
空気が一瞬にして凍りついたようで、私は何も出来ずただきょろきょろと三人の顔を見回すだけだった。
「曲がりなりにも御身はこの国の王子なのです。その血肉は国民の税から出来たということを忘れてはなりません。呪いを解くか否かはあなたの判断で決めることではないでしょう、クラールハイト様」
フランク様が眉間に皺を寄せ、眼鏡を押し上げながら低くそう告げた。クラール様がフランク様を睨むけれど、フランク様がそれに怯む様子はまったくない。
「本来であるならば、あなたが王位を継ぐべきなのです。忌まわしい魔女の呪いなどなければ」
「それは、今語ることじゃないよね」
フランク様の言葉を、クラール様はきっぱりと切り捨てた。
「僕がなぜフィオを王宮に留めたくないか、分からないのかな? 君のような人間が、僕をここに引き留めるために利用するだろうって思っているからだよ」
心底嫌悪しているかのような顔でクラール様が話している。
「アスマン宰相補佐官、君は紳士的な人だから心配はいらないだろうけど、この王宮にいる人間が皆正しく紳士であるわけじゃない。もしかしたら非道な奴がフィオを人質にして僕を脅迫する可能性だってある。ここはそういう、卑怯な人間ばかりが集まっているからね」
背筋を這うようなひんやりとした声に、私の身体は硬直した。掴んでいたクラール様の服の袖を、ぎゅっと強く握る。それに気づいたクラール様が私を見て、わずかに微笑んだ。
「条件をつけようか。滞在期間は延長しない。フィオの部屋は僕の部屋の隣に用意する。フィオと接する人間を必要以上に増やさない。フィオを長時間拘束するようなことも却下」
「……分かりました。そのように手配しましょう」
「フィオは僕の許可なしに単独行動はしないこと。最低でもジルベルトかマルティナと一緒にいなさい。朝昼晩の食事は僕と一緒に食べようね。あと、無理はしないこと。これが一番大事だよ」
「はい、クラール様」
そうして、私の短い王宮生活は始まった。
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