4:That's not enough.

最後の魔女:1

 去年の花月の二十日から始まったその日記には、たった一人の少女のことばかり書いてあった。

 信じる信じない以前の問題だ。およそ日記と呼べるものじゃない。ただ少女への想いが綴られているだけの、恋文の塊のようなものだった。

 自分が書いたのかと思うと恥ずかしくなる一方で、その少女に無性に会いたくなった。


 ――今年の最後の日に、君と一緒にいられないことだけが残念だよ、フィオ。

 君はどんどん綺麗になっていくから、今度会った時には見違えるほどの美人になっているかもしれないね。僕には、それが分からないかもしれないけれど。

 ただの女の子だったはずなのに、日を追うごとに女性らしくなっていく君が怖かった。

 傍にいればいるほど、君に触れたいという欲求は強くなって、いつか君を傷つけるんじゃないかって恐ろしかった。だからこうして距離をとっているけれど、それがとても苦しい。


 フィオ、君に会いたいよ。


 フィオ。

 僕のいとしいお姫様。




 もちろん今の僕にはこんなもの書いた記憶はない。けれど、ページをめくるたび、文字を追うたびに、胸は苦しくなった。顔も覚えていない少女のことがいとしくて仕方なかった。

 不可思議な感覚に、ただ戸惑うしかない。

「クラール」

 年が明けてから極力人と接することなく、部屋に籠っている僕のもとへやってくる男。この日記にもちらほらと名前があった。ジルベルトという僕の従兄弟。

「……何か用かな。ジルベルト」

 この男は本当に「ジルベルト」なのか疑わずにいられない自分に嫌気がさしながら、そっと日記を机の上に置いた。

「フィオとマルティナが、王都へ来るようだ。たった今アリーセから知らせがあった」

「なっ……」

 つい先ほどまで頭の中の大半を占めていた少女の名に、言葉が詰まった。

 会いたい、けれど会いたくない。会ってしまえば、日記に書かれていることが事実だと分かってしまうだろう。きっと、一目見れば分かる。記憶がなくても、身体は覚えていた。

 呪いのようだ。

 忘却の呪いよりも、もっとずっと、僕の心を縛り付けている。

「……どうして?」

「分からん。ただ、マルティナがどうしても知らせなければならないことがあると。既に出立しているようだから、一両日中には着くかもしれん」

 早すぎる。そんな短時間では心の準備なんてできるはずもない。

 顔は平静を装ったけれど、心臓はばくばくと音を立てていた。

「嫌なのか?」

「嫌っていうわけじゃないよ、ただ困っているだけ」

 たとえば、記憶が全て消え失せた時。僕が目覚めた場所が少女と共にいるという屋敷であったなら、すぐにでも覚悟を決めたはずだ。いや、もしかしたら日記を手に取るまえに彼女に会っているかもしれない。

 けれど今は違う。気づけば僕は王都にいて、少女は遠いところにいた。だから僕は油断していた。

 ――そう、油断していたのだ。今の自分は、まだ心を奪われないと。

 予感していたのだ。彼女に会えば、きっと誰よりもいとしくなる。この日記を書いた僕がそうであったように。僕という人間は、呪いでも本質は変わらないから。

「同じ顔をしている」

 ジルベルトがぽつりと呟いた。

「……同じ顔?」

「ああ。フィオと『はじめて』会う前のおまえはいつもそんな顔をしていたな」

 ジルベルトにとっては何気ない一言だったのだろう、けれど僕にはその一言で覚悟が決まった。

 もうずっと前から――いや、きっと出会った時から、僕はその少女の虜であったらしい。それなら、ここで足掻いたところで無駄だろう。

「なんだか安心したよ」

「何がだ?」

 苦笑しながらそう漏らすと、ジルベルトは顔をしかめて問いかけてくる。

「記憶がなくても、僕という人間はあまり変わらないんだなってね。どうやら僕はフィオが大事で仕方ないらしい」

 答えるとジルベルトは笑った。珍しいな、と思う。いや、そう思う根拠はないけれど、年が明けてからの数日間、この男が笑うところなんて見たことがなかった。

「何をいまさら。そんなこと、おまえ以外は皆知っているよ」

 ジルベルトが当たり前のことのように言うので、僕は思わず笑ってしまった。恐れていることがバカらしくなってくる。


 ねぇ、フィオ。

 僕はきっと、何度君を忘れても、何度だって君に恋をするんだ。


     *


 慣れ親しんだ屋敷はあっという間に遠のいてしまった。

 呆然としていた私はあっという間に馬車に放り込まれて、マルティナ様と一緒に王都を目指している。

「あなた、今まで独学で勉強していたのよね? あの屋敷にあった本で?」

 馬車の中ではマルティナ様から質問攻めにされてしまった。王都までは急いでも馬車で三日かかるという。

「は、はい。ラティフォニアの魔女は国に咲く植物や花を使って魔法薬を作るとありましたから、お屋敷にあった植物事典とか薬の調合の本とか、あとは呪いに関する本などを読んで……時々、クラール様が新しく本を買ってきてくださったりもしましたけど」

 あんまり根を詰めて欲しくはないけどね、と苦笑しながらもクラール様はやめろとは言わなかった。

 呪いについて調べる時はあまり良い顔をしていなかったので、本当は辞めさせたかったのかもしれない。クラール様が買って来てくださった本は、植物や薬についてのものばかりだった。

「クラール様の呪いの一件のせいで、この国から魔女の姿は消えたわ。王家の敵と呼ばれて、たくさんいた魔女のほとんどがひっそりと隠れ住むようになってしまった。これがいけなかったのね」

 マルティナ様は苦虫を噛み潰したような顔で、低く呟いた。

「魔女と魔法使いでは、扱う分野が異なるもの。王宮のどんなに優秀な魔法使いが手を尽くしても、クラール様の呪いを解く手がかりは見つからなかった。クラール様自身、周囲を警戒されてご自身のことをあまり語ってくださらなかったの」

 記憶のなくなった彼にとって、策謀の巡る王宮の中で生きる人間はどれも疑わしかった。

 実際に身分を偽ってクラール様に近づこうとした人間もいたという。もちろんクラール様が騙されることはなかったけれど、いるのではないかと疑っている類いの人間が少なからずいたことで、クラール様は完全に人を信用しなくなった。自分の目で見て、信頼できると思った人間にしか心を見せなかった。それでも、本心を見せることができる人間は一握りだったはずだ。

「そんな事情もあって、クラール様は十八歳で王位継承権を破棄し、あの屋敷に住むようになったわ。正直ね、クラール様が自身の記憶があって、魔女のことも覚えていたなんて――私たちも知らなかったのよ」

「え……?」

「ご自身の名前を覚えているのはすぐに分かったけれど、それ以外に記憶が残っているなんて全然知らなかった。クラール様が誰にも語らなかったから」

 でも、あなたには話したのね。

 そう笑うマルティナ様の顔は、どこか寂しげだ。クラール様は、信頼できる人間と認識した人間にも、心の底から信じていたわけではないのかもしれない。どこかで裏切られるかもしれない可能性を考えていた。

「あなたがあの屋敷に来てから、少しだけどクラール様は変わっていたわ。あの人から私に連絡があったのなんて、何年ぶりだったかしら。しかもとある女の子の家庭教師になって欲しい、なんて! 自分の耳を疑ったわ。あのクラール様が、誰かに何かを頼むなんて」

 びっくりしてその日は眠れなかったのよ、なんて言いながらマルティナ様は笑った。

「クラール様が女の子と一緒に暮らしている、と聞いた時から信じられなかったけれど。半信半疑で行ってみれば、本当に女の子がいるじゃないの。しかもクラール様は始終あなたのことばっかり話すのよ。記憶がなくなったせいで性格まで変わったのかって思ったこともあった」

 いつもよりも饒舌なマルティナ様を見つめながら、私はクラール様にとってなんだったんだろう、と思った。

 マルティナ様の話を聞いていると、自分がすごく特別ですごい人間のように感じる。

 思い出すのは、狭い物置の中で、身体を丸めて眠っていた日々。

 一夜にして村は灰になって、私はジルベルト様に助けられ、クラール様に救われた。フィオという名前をもらった。たくさんのものを与えられて、クラール様に守られていた。

 何か返さなくちゃいけないって思った。でも私は自分勝手な人間で、忘れてほしくないからクラール様の呪いを解こうとしている。

「……私は、ただ忘れられたくなかったんです」

 馬車の中の小さな窓から外を見て、ぼんやりと呟く。窓の向こうの景色は、今の私の心とは裏腹に目まぐるしく変わっていく。

「クラール様のためじゃない。国のためでもない。ただ、自分のために呪いを解きたかっただけなんです」


 そんな自分本位な行動が褒められても、私は曖昧に微笑むことしかできなかった。

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