先生と魔女見習い:3
秋が深まり、窓の向こうに見える景色は徐々に寂しげなものに変わっていく。あと少しすれば、きっと外は白い雪で覆われるに違いない。
マルティナ様がやってくるようになったおかげで、一人で過ごす時間はぐんと減った。
マルティナ様は実に厳しい先生で、課題を山のように残していく。その課題に追われるおかげでクラール様不在の寂しさは少し薄れた。マルティナ様は、ただの勉強だけではなく淑女としてのマナーの先生でもある。
「フィオ様、そろそろお休みになったほうがいいですよ」
暖炉の前で刺繍の課題に苦戦している私に、カルラが声をかける。私は手芸全般が苦手で、今も針を持つ手は危なっかしく見えることだろう。
「うん、でもこの刺繍を終わらせてから……それに今戻ると部屋の中は寒いでしょ?」
冬も近くなってきたので、夜になると部屋の中はけっこう寒くなる。それが嫌で夕食を食べたあとも自分の部屋に戻らず、暖炉の前の長椅子に移動して刺繍をしていたのだ。
「わかりました、寝室も少しあたためておきますね。あとで飲み物をお持ちします」
あんまり無理をしてはダメですよ、と釘を刺されて私は頷く。けれど少し夜更かしでもしなければこの課題は終わりそうにないのだ。
針を指に刺さないように気を付けながらも、ゆっくりゆっくり針をすすめる。
途中でカルラがやってきて、集中している私を見て微笑み、何も言わずにホットチョコレート傍らの小さなテーブルに置いて行った。
甘い香りと、あたたかな暖炉。少しの休憩のつもりでホットチョコレートを一口飲むと、身体の力が抜けていった。
自分でも気づかないうちに疲れていたらしい。けれどここで寝るわけにはいかない、と私はまた途中まで進んだ課題をもつ。
針を動かすけれど、瞼は重くなってくる。眠りそうになっては頭をあげて首をふり、少し経つとまた目を閉じていてを繰り返して、課題はまるで進まなくなった。あたたかい暖炉の前で課題を始めたのは失敗だったかもしれない。
布と針を持ったまま、私は椅子にもたれるように眠りに落ちていく。扉が開く音がして、カルラがやって来たんだろうな、と思った。
「……まぁ、だから無理はしないでくださいと言ったのに。予想通りですね」
困ったように呟きながら、カルラは笑う。毛布、と小さく呟く声が聞こえて、人の気配が遠ざかる。
「あら、今お戻りになられたんですか? フィオ様がとても寂しそうになさっていましたよ」
「……本当はもう少し早く戻るつもりだったんだけどね。うちのお姫様はこんなところでうたた寝かな」
クラール様の声が聞こえて、私の心臓はどくんと鳴った。目を開けて話したいと思うのに、このまま寝たふりをしていようか、という思いもある。
「まったく、針を持ったまま寝るなんて危ないなぁ。怪我でもしたらどうするの」
すぐ傍にクラール様がいる気配がして、私が持ったままだった布と針を取り上げてしまう。
手に触れた指が冷たくて、ぞくりと背筋を何かが這うような感覚があった。寝たふりがバレたりしないだろうか、そんなことを考えながらも私は耳を澄ます。
毛布を、と言うクラール様の小さい声に、それに答えるカルラの声。次の瞬間にはふわりと毛布に包み込まれて、抱き上げられる。
「カルラも、もう休んでいいよ。フィオは僕が部屋まで運ぶから」
クラール様の声が近い。クラール様が私を抱きかかえているんだと気づいて、心の中ではすごく動揺していた。こんなに距離が近いのは、いったいどれくらいぶりだろう。
「軽いなぁ、フィオは。ちゃんと食べているのかな」
くすくすと笑いながら呟くクラール様の声に、私は反論したかった。食べているし、出会った頃に比べたら体重も増えている。背だって伸びているのだ。
いつまでも小さな黒猫さんのままじゃない。
歩いている振動が私にも伝わって、それが心地いい。寝ていると思われているのだから、と私はクラール様の胸にもたれて、ぬくもりを感じながら心臓の音に耳を澄ませる。
とくんとくんと鳴る音は、私の音よりもゆっくりしている。同じ速さになればいいのに。同じくらい、どきどきしてくれればいいのに。
かちゃ、と静かに扉を開ける音がして、もう私の部屋についてしまったんだと知る。
もっとこうしていたい。クラール様はゆっくりと私をベッドの上に寝かせて、布団とかけてくれる。布団の中はひやりと冷たかった。
「おやすみ、お姫様。あんまり夜更かししちゃダメだよ」
大きな手が私の頭を撫でて、前髪をかきあげる。起きていたらその手のひらに頬を寄せるのに。寝たふりを続けていた私は、徐々に眠りの中へ落ちていこうとしていた。瞼はもう私の意思では開きそうにない。
かすかな吐息を感じると、額に柔らかい何かが触れる。クラール様は何度か私の頭を撫でて、音をたてないように部屋から出ていった。
いつの間に眠ってしまったのだろうか、目を開けるとすっかり朝になっていた。淡い陽光が窓から部屋の中に降り注ぐ。
「おはようございます、フィオ様」
「おはよう。……ねぇ、クラール様は?」
クラール様が帰って来たことは、夢ではなかったはず。そう思ってカルラに問うと、カルラは微笑んだ。
「昨夜お戻りになられましたよ。フィオ様を運んでくださったのもクラール様ですから、お礼を言ってくださいね」
今もお待ちですよ、と言われて慌ててベッドから出る。クラール様がいる。
それだけで嬉しくて、私は逸る気持ちを抑えながら着替えた。一緒に朝食をとるなんて、すごく久し振りだ。
廊下の空気は冷たい。けれどそんな冷たさも気にならないくらいに私は浮かれていた。クラール様のもとへと急ぐ足は、徐々に徐々に早くなっていく。自分の部屋から食堂までの距離がわずらわしいと思ったのは初めてかもしれない。
扉を開けると、クラール様はこちらを向いて微笑む。柔らかいその笑顔はいつも変わらない。
「おはよう、フィオ」
「おはようございます、クラール様!」
私はあいさつしながら、クラール様の向かいに座る。お互いによそよそしくなってから、隣に座ることはなくなった。距離が近すぎて、心臓が持たない。
「マルティナはいい先生かな? 昨日もうちのお姫様は課題のおかげで夜更かししていたみたいだけど」
「いい先生ですよ? ただ刺繍は苦手なので、ちょっと時間がかかっちゃうだけです」
刺繍だけではなく編み物も苦手だけど、そこは内緒にしたいのが乙女心というものだ。
「まぁ、無理に覚えることでもないけどね、刺繍とか。ただ危ないから、針を持ったまま寝ないようにね」
くすくすと笑いながらクラール様に釘をさされ、私は首を縮めながら「はい」と答えた。料理が運び込まれてきて、久し振りの一人ではない朝食が始まった。
他愛ないことを話すのも久々で、私はいつもより饒舌になっていた。マルティナ様のこと、一人の時に読んだ本のこと、私の報告を聞きながらクラール様は微笑んでいた。こうしている分には、以前とまるで変わらない。
「元気そうで良かった。実はね、ジルベルトと一緒にしばらく王都へ行かなければならなくなりそうなんだ。たぶん、帰ってくるのは年明けになる」
「……え」
浮上していた気持ちが一気に沈んだ。クラール様は相変わらず微笑んだまま、私を見ていた。
年明け――それは、クラール様にとって無視することのできない忘却の呪いを示している。
「それは、どうしても今行かなくちゃいけないんですか……?」
年が明ければ、クラール様は私を忘れてしまう。新しい一年のはじまりに、私は真っ先にクラール様に会うこともできない。
会えるのはいつになる? もう一度会った時、クラール様にとって私は「特別」なままでいるの?
「出発は一週間くらいあとだよ。でも、先延ばしにはできない」
それがいったいどういうことか、クラール様だって分かっているはずだ。それなのに、クラール様は私を甘やかしてはくれない。膝の上でスカートを握りしめて、私は俯いた。
「その間、お留守番を頼むことになっちゃうけど、大丈夫だよね?」
それは、私は一人でも大丈夫だと信じた上での言葉で、私は寂しくて仕方ない癖にいい子になって頷いてしまう。
「どんな、お仕事なんですか?」
「仕事自体はそう難しいことじゃないんだ。領地の状況を報告してくるだけみたいなものだから。そろそろ一度行かなきゃいけなかったんだ。あいさつにね」
深いところを隠すような言い回しに、私はクラール様の言わない部分を勝手に理解した。そう、クラール様は王子様なのだから。たまには王都へ帰らなければならないのだろう。
「……ちゃんと留守番していますから、だから、出来るだけ早く帰ってきてくださいね」
涙を堪えてそう言うと、クラール様は微笑みを浮かべて「もちろん」と答えてくれる。
クラール様はその後準備があるから、とまた出かけてしまった。
それから一週間、クラール様は何かと忙しそうで、まともに会話するような時間はまったくなかった。
あっという間に一週間という時間は過ぎて、クラール様は私の頭を撫でて、いってくるね、という言葉だけを残して王都へと旅立った。
「……さよなら、クラール様」
クラール様が乗る馬車が見えなくなったところで、私はぽつりと呟いた。クラール様にはいってらっしゃい以外の言葉を聞かせたくはなかったから、馬車が見えなくなるまで待ったのだ。
私の小さな声は雪に包まれた世界に溶けて、消えていく。
次に会う時、クラール様は私を知らない。
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