先生と魔女見習い:2

 クラール様は、少しずつお屋敷を留守にすることが多くなった。

 最初は半日だけだったのが一泊するようになり、それから数泊するのが当たり前になって――今では一週間ほどクラール様がいないことも少なくない。

 おのずと私がクラール様と話す時間は減ってしまって、私は胸の中心にぽかんと穴が開いたような気持ちになっている。

 少しくらいは平気だ、私だって留守番くらいはできる――なんて思っていたけれど、思いのほか辛い。私はかなりクラール様に依存していたのかもしれないなんて、改めて実感させられた。


「……ん?」

 自分の部屋でいつものようにクラール様の呪いを解く手がかりを探していると、窓の向こうで見慣れた馬車が屋敷に近づいて来るのが見えた。クラール様が帰って来たのだ!

 私は大慌てで部屋を飛び出して、玄関へ急ぐ。階段を一段一段下りていくのさえもどかしかった。


「クラール様! おかえりなさいませ!」


 私がちょうど玄関ホールに着いた時に、玄関の扉は開いた。少し冷たい風が玄関から吹きこんでくる。

「ただいま、フィオ」

 甘く柔らかい声が聞こえて、私の胸は躍る。しかし、すぐに気持ちは沈んだ。

 クラール様の隣に、美しい女性がいたのだ。濃い金色の髪に、深い緑の瞳。肌は雪のように白い、はっと息を呑むほど綺麗な人だった。クラール様の隣に立っていても、なんの違和感もないくらい。


「……どなた、ですか?」


 声が低くなるのは仕方ないと思う。私の中で何かがざわめいていた。その、女の人は誰? とクラール様に詰め寄りたくなる。

 久しぶりに会えたのに。久しぶりに、声が聞けたのに。醜い嫉妬で胸がぐちゃぐちゃになりそうだ。

「ああ、君に紹介しようと思ってね」

「はじめまして、フィオ様。マルティナ・アスマンと申します」

 マルティナと名乗った女性は、芯のある凛とした声であいさつし、臙脂色のドレスを少しだけ持ち上げて、優雅に腰を折った。

 フィオ様、なんて呼ばれても私がこの人と肩を並べられるとはとても思えなかった。私はこんなにもちんちくりんな子どもだから。

「この人はね、僕の先生の娘さんなんだ。とても頭のいい人だから、君の先生になってもらおうと思って、呼んだんだ」

「……せんせい?」

 突然のことに頭がまるでついてこなくて、私はぼんやりとクラール様の言葉を繰り返した。

「そう、僕も君に勉強を教える時間がなくなってきたし、ちゃんとした先生がいた方がいいかなと思って。女性だったら何かと相談しやすいと思うし、礼儀作法も教われるからね。それに――ちゃんとした見張りがいたら、フィオもあんまり無茶しなくなるだろうしね?」

 クラール様が私を見て意味ありげに笑う。以前に言っていた作戦とはこのことだったのか、と思うと同時にクラール様の特別な人というわけではないんだ、とほっと胸を撫で下ろす。

 けれど、こうしてお目付け役のような人を連れてきたということは、クラール様はますますこのお屋敷に帰ってこないということじゃないだろうか。

「……フィオです、よろしくお願いします」

 ぐるぐると嫌な考えが頭を回り始めて、私は機械的にあいさつをする。

 私は、何か悪いことをしだろうか。クラール様に嫌われるようなことを言ってしまった? クラール様がよそよそしいのは、私のことが嫌いだから?

 クラール様はマルティナ様をエスコートしながら私の部屋へと連れて行く。私はそんな二人の背中を見つめながら、なんてお似合いなんだろうとため息を零した。


 ――クラール様は、以前のように私のそばにいてくれない。


 不安を膨らませる私のことなど気にもとめず、クラール様は「それじゃあね」とろくに話もせずに部屋から出ていってしまった。

 いつの間に到着した部屋の中はいつもより寂しい。クラール様を呼びとめようとして手を伸ばしかけ――扉が閉まるのを見て手を下ろす。

「……あのまま行かせてよかったのかしら? 何かまだ話があったんじゃないの?」

 俯いている私のことを見て、マルティナ様が問いかけてくる。閉まった扉は、再び開く様子はない。

「いいんです、クラール様はお忙しいんでしょうし……」

 それに、と続く言葉を私は一瞬飲み込んで、首を横に振った。マルティナ様は眉間に皺を寄せて、私を睨んだ。

「それで? 途中で言葉を飲み込むのはやめなさい」


「……それに、きっと私は、クラール様に嫌われてしまったんです」


 マルティナ様の強い瞳に睨みつけられて、私は飲み込んだはずの重い言葉を口にした。改めて自分の言葉を耳にすると、予想以上に苦しい。

「嫌い? どうしてそんなことを思うの?」

 マルティナ様は信じられないといった顔でさらに問いかけてきた。

 私は俯いて自分の足元を見る。マルティナ様の目は真っ直ぐに私を見るので、まるで心の中まで晒されているようで怖い。

「だって、クラール様は、なんだか私のことを避けているみたいだし、以前はずっとお屋敷にいたのに、最近はわざと忙しくなるようにしているみたいで」

「避けているのが事実だとしても、嫌っている証拠にはならないわ。そもそも本当にあなたのことが嫌いなら、わざわざ家庭教師なんて雇わないでしょう。それ以前に、適当な理由をつけてこの屋敷から追い出されているわ」

 私の子どもじみた理由を、マルティナ様はばっさりと切り捨てた。

 もともとなんの縁もない子どもの私をこうして養っているのだから、マルティナ様の言っていることも分かる。嫌いになって、面倒になったというのなら、それこそ犬猫のようにジルベルト様に押し返せばいいのだ。

「でも、それは、クラール様がお優しい方だから」

 マルティナ様の言うことを、私も考えなかったわけじゃない。

 邪魔でも面倒でも、クラール様はお優しいから私をここに置いてくれているんだ。そう思えば納得できる。

 こうして家庭教師のことを考えてくれたのだって、私のことを完全に無視できないからで、私のことが大切だからじゃない。

「あなた、それ本気で言っているの? クラール様が優しい?」

 マルティナ様が訝しげに私を見ている。私は何がおかしいんだろうか、とマルティナ様を見上げた。変なことなんて何も言っていないのに。

「あのね、そんなことを言えるのはあなただけよ。クラール様が優しいなんて、他の人間は思わないわ。あの方は呪いにかかる前から、人とは一線を引く方だもの。王族として、王子として、素晴らしい方だけど……優しいなんてちっとも思わないわ」

「え、だって……忙しくなる前は、一日のほとんどを一緒にいて、文字の読み書きを教えてもらって、眠れない時は本を読み聞かせてくださったし……忙しい今だって、新しい本とか服とか何もかも、全部クラール様が用意して」

 私がクラール様から与えられたものなんて、数えだしたらきりがない。

 形あるものばかりじゃない。行き場のなくなった私に、居場所を与えてくれた。無知な私に、知識を教えてくれた。好きだといったものは、忘れずに覚えていてくれて、何かあるとそれをご褒美にくれた。それは、いつだって変わらない。私との出会いの記憶がなくなった今も同じだ。

「だから、そういう優しさ全部があなただけなの。知らないの? あの方は婚約者に面と向かってあなたを愛せないけれど、国のために結婚すると言ったのよ。それも十五歳の時に」

 婚約者。その言葉に私は固まった。クラール様は王子様なんだから、そういう人がいてもおかしくない。

「……言っておくけれど、婚約は解消されたわよ。呪いにかかってから。もともとそういう性格なんだもの、記憶がない状態で婚約なんて続けられるわけがないし、王子としての仕事も果たせない状態では婚約自体が無意味だわ」

 私の動揺を感じ取ったのだろうか、マルティナ様がどうでもいいことのように付け加えた。ほっと安堵する私を見下ろして、椅子に座る。

 机の上に本を置き、綺麗な指でとんとん、と表紙を叩く。

「無駄話はこれくらいにして、お勉強しましょう。私はそのために来ているんだから」

 はい、と私は小さく返事をした。

そんな私の様子を見て、マルティナ様がため息を吐き出す。

「あなたくらいの年頃で不安になるな、ただ信じていろとは言わないけれど、これまでにある事実はきちんと見つめなさい。あなたはクラール様に大切にされているわ。それを否定しては、クラール様が可哀想よ」

 可哀想よ、という言葉が私の胸に刺さって、ちくりと痛んだ。

 私はマルティナ様の言葉を心の中に書きとめて、やるべきことを前に椅子に腰を下ろした。

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