3:This is the last straw.
先生と魔女見習い:1
花月の二十日。
今日から僕は日記を書こうと思う。これまでの出来事を残すために、未来の僕へ向けて。
今日はフィオの誕生日だったんだ。僕は淡い黄色のドレスと、白い靴を彼女に贈った。予想通りとてもよく似合っていて、可愛かった。
ジルベルトや奥方のアリーセもやってきて、四人で彼女の生まれたこの日を祝った。すごく素敵な一日だった。
そう、忘れたくないと、どんな形でもいいから残しておきたいと思うほどに、いい一日だったよ。
ジルベルトたちがフィオに贈った赤いドレスも綺麗だった。まだまだ子どもだとばかり思っていたけれど、フィオはもう十五歳なんだと思い知らされた。
壮絶な赤を身に纏い、黒い髪を結いあげた彼女はどこからどう見ても「女」だった。一瞬息をするのを忘れてしまうくらいに、綺麗だったよ。
これを読んでいる僕にその記憶が残っていればいいのにね。
僕は、呪いについてずっと諦めていた。一年という時をただ平穏に過ごせればいいと、そう思っていた。戦うことにも、抗うことにも、もう疲れていた。
過去の記憶は何一つ残っていないのに、かつて味わった絶望は、身体に染みついているんだろう。
そんな僕にとって、フィオという少女は水面に投げ込まれた一石だった。小さな石なのに、波紋は広がっていく。
去年の僕がそうであったように、今の僕もわずかな変化を望んでいる。
*
クラール様のもとで暮らすようになってから、季節が廻った。去年よりも盛大に私の誕生日が祝われ、夏も終わり、私は十六歳の秋を迎えようとしている。
私は意欲的に魔法薬の勉強をしていた。それはもう、クラール様が「勉強しすぎだ」と眉を顰めるほどに。
クラール様の呪いを解くという目標があって、自力で文字も読めるようになった今、必要なのは知識だった。
本はお屋敷の中にもたくさんあるけれど、呪いに関する本は魔法薬に関する本はそれほど多くはない。私の目先の目標は、まずそれらを読破することだ。
そのあとは……どうにかして、専門書を手に入れよう。
私は放っておくと一日中部屋に籠って本を読んでいるから、クラール様やカルラはあまり良い顔をしない。もう少し力を抜いてもいいんだよ、とクラール様は笑うけれど、私には勉強することも楽しかった。
知識を得る喜びを知ってしまったのだから、もう止めることなんてできない。まして、それが大切な人の為に得る知識ならなおさらだ。
「ああ、フィオ。やっぱりこっちにいたんだね」
「クラール様?」
座ったまま振り返ると、扉を開けたクラール様が私を見て微笑んだ。
「……本当に勉強熱心だなぁ、少しは息抜きをしているの?」
「クラール様やカルラが心配するので、ちゃんと休憩はしていますよ」
クラール様は私の机に並んでいる本とノートを見て苦笑する。そして本をぱたん、と閉じてしまった。読みかけだったのに。
「僕はね、君が勉強したいというのならすればいいと思うし、いいことだとは思う。けど、それが僕のためだっていうなら、あんまり無理をして欲しくないんだ」
「どうしてですか?」
クラール様を見つめて問うと、困ったように笑う。
「この呪いを解こうと頑張ってくれるのは嬉しい。けれどね、きっと無理なんだ。この呪いは国一番の魔女がかけたもので、これまで多くの魔法使いが匙を投げたんだから」
「無理なんかじゃないです」
紫色の瞳を見つめて、きっぱりと言い切る。クラール様は少し驚いたような顔をした。
「無理じゃないです。国一番の魔女がかけた呪いだというのなら、私がその魔女に代わって国で一番の魔女になります」
「……それは、そう簡単なことではないよ」
「分かっています、けど、クラール様の呪いを解くためには必要なら、私は頑張りたい。何年かかっても、何十年かかってもいい。ずっと絶対に諦めずに続けていくから、だから」
溢れ出た言葉を一度飲み込んで、私はクラール様を見つめる。
「……だから、お願いです。クラール様。止めろなんて、言わないで」
私が今、クラール様の呪いを解くという目標を失えば、それこそ何をして生きていけばいいのか分からなくなる。ただ甘やかされて生きていくなんて出来ない。
「……どうして君は、そう真っ直ぐなのかな」
クラール様は私を見つめ返して、泣きそうな顔でそう呟いた。え? と聞き返したけれど、クラール様はすぐに笑顔を作って誤魔化してしまう。
「とにかく、今日はこれでおしまい。僕と一緒にお茶にしよう?」
「……ケーキはありますか?」
勉強を中断されてしまったので、いじけたように問うと、クラール様は私の頭を撫でる。
「もちろん、用意しているよ。フィオは甘いものが大好きだからね」
お手をどうぞ、とクラール様が手を差し出す。私はその綺麗な手をじっと見つめて、少し躊躇いつつも自分の手を重ねた。
以前のように素直に手を取ることができないのは、やはりクラール様を男の人だと意識してしまっているからだろう。
繋いだ手はあたたかく、私に絶対的な安らぎをくれる。けれど同時に、心臓はいつもよりも激しく脈打っていた。
用意されていたのは木苺のタルトだ。それ以外にもチョコレートと果物が置いてある。時々甘やかしすぎですよ、とクラール様に言うのだけど、クラール様は「そんなことないよ」と笑うだけだ。
クラール様は、とにかく私にたくさん食べ物を与えておかなければならない、と思っているような気がする。今はそれほど痩せっぽっちでもないのに。
向かい合わせに座りながら、私はタルトを口に運ぶ。ほどよい甘さで紅茶によく合う。
「実はね、少し屋敷を留守になることになるかもしれないんだ。ジルベルトの仕事を手伝うことになってね」
タルトを頬張る私をじっと見つめながら、クラール様が突然そんなことを言い出した。私は持っているフォークを落としかけて、慌てて皿の上に置く。
「と、突然ですね」
「うん、まぁ前々から考えていたことではあるんだけどね。フィオを一人にしておくのはちょっと不安かなぁ」
「そんな……私は留守番もできないほど子どもじゃありませんよ」
そもそもこのお屋敷にはしっかりした使用人がいて、私がやることなんてほとんどない。
んー……というより、フィオのことだからずっと机にかじりついて勉強しているんじゃないかなぁっていうのが心配」
「うっ」
「それに、魔法薬についての勉強ばかりだから他の勉強はあまり進んでないしね?」
「うう……」
痛いところばかり突かれるので、私は目を逸らして聞こえないふりをする。くすくすと笑っているクラール様は、こういう時意地悪だなぁ、と思ってしまう。
「実はもう対策は考えてあるんだ」
ならこんなに意地悪しなくてもいいのに、と頬を膨らませて抗議すると、クラール様は楽しげに笑って私の頬をつつく。
「でも、フィオに会えないのは僕も寂しいなぁ」
「そんな子どもみたいなこと言ったらダメですよ。私はちゃんとここでクラール様のことを待っていますから、安心してください」
クラール様の方がずっと大人なのに、今はなんだか甘えられているようで少し嬉しい。私は大人ぶって微笑むと、クラール様もつられたように笑った。
「なんだか、フィオは僕の奥さんみたいだね」
「お、おく……っ?」
クラール様の何気ないセリフに、私は噎せてしまう。クラール様が慌てて私の傍までやってきて、背中をさすってくれる。
呼吸はすぐに落ち着いたけれど、心臓がずっとばくばくと鳴っていた。
「きゅ、急にそんなことおっしゃるから、びっくりしたじゃないですか……!」
「ごめんごめん」
噎せたせいで少し涙が出てきた。クラール様を睨みつけているのに、本人はおかしそうに笑っている。こういうところは本当に子どもっぽいんだから!
「でも、フィオが僕の帰りを待っていてくれるなら、少しはやる気が出るかな」
「待っていますよ? 当たり前じゃないですか」
「……本当に?」
「疑い深いですね、クラール様。私は、ここ以外に帰る場所はありませんよ」
私はクラール様の不安を拭い去るようにきっぱりと言い切ったのに、クラール様は悲しげな顔のまま私を見つめている。
「クラール様?」
クラール様の頬に手を伸ばすけれど、その前にクラール様は先程まで座っていた席へ戻ってしまう。
「とにかく、たまに留守にするけどいい子にしててね?」
私にそう告げるクラール様は、いつもと変わらない笑顔だった。
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