2:You are the only one I can depend on.

呪われた王子様:1

 ――もうすぐ一年が終わる。


 未来の僕へ。自分と、自分を呪った魔女以外の記憶が消えた感覚はどうだい? あまり気分のいいものじゃないだろう? 経験者だから痛いくらいに分かるよ。

 記憶を無くす自分へ、少なくとも今までの僕には何かを書く習慣はなかったけれど、あの子のためにこれだけは書き残しておかなければならない。

 出会いの時の話。未来の自分があの子のことを忘れても、どうやって出会って、どう過ごしていたのかを知るために。

 ある日のことだった。黒猫を飼ってみないか。従兄弟の彼は突然そう言い出した。彼はいつも突然だ。拾ったのはいいんだが、世話をする暇がない。どうせだからおまえが世話をしてくれないか。どうせ時間は腐るほどあるんだ、いいだろう? 暇であることに異論はないが、何やら面倒事を押しつけられたような気分だった。断ったところで、彼の耳には届かないだろう。

 少なくとも今年は、彼との付き合いは多い。去年の記憶はないから分からないだけだが、悪い奴ではないという確証だけは、この数カ月でもてる。

 がりがりの、とても痩せた子猫なんだ。死んじまうんじゃないかって心配しているんだが、どうもうちの屋敷の奴らでは合わないらしい。おまえのところなら静かだし、警戒心も解けるかもしれない。どうだ、会うだけ会ってみないか。

 熱心に売り込んでくるあたり、本当に貰い手がないのだろう。そうだな、会ってみるだけなら、と承諾すると、彼はすぐにその黒猫を連れてきた。

 まっすぐに僕を見つめてくる瞳は深い青、黒い髪は艶がなくぱさぱさだった。手足は細く、簡単に折れてしまいそうなほど。そう、確かに猫のような――小さな女の子だった。


 フィオ。


 僕が名前をあげた小さな女の子。黒い髪に、青い瞳の、僕の大事なお姫様。

 この手紙を僕が残したこと、どうかよく考えてほしい。未来の僕。君ならきっと分かるはずだ。

 僕は疑り深い。過去の自分が何を残そうと、そのすべてを鵜呑みにすることはないだろう。それを知っているから、今までの僕は何一つ未来の自分に残さなかった。

 だからこそ、僕はこの手紙を君へ送る。

 何も残さないはずの僕が、どうしてもこれだけは、彼女のことだけは、自分へ残さなければいけない。


 どうか、あの子を泣かせることだけはしないで。


     *


 まるで、今までの日々の続きのような、変わり映えのない生活が始まった。

 それは、普通なら当たり前のことで、しかしクラール様と私にとっては、おかしなことだった。

 あの日。クラール様が私を忘れた日。ジルベルト様は、お屋敷に戻った。クラール様は始終ジルベルト様を見極めるかのようにじっと見つめていたのを、覚えている。まるで、観察しているようだった。

 ジルベルト様は気にした様子もなく、私を見下ろして笑った。いつもこうなんだ、記憶がなくなったあとは。そう言って。

 自分にとって、害のある人間か、そうでないのか――『今』のクラール様が判断するまでは、静かな観察は続くのだという。

 しかし、私は違った。

「フィオ」

 私を呼ぶ声は、少しも変わらない。

 甘く、やさしく、あたたかい、クラール様の声。

 まるで私だけが特別みたいだ――そうこっそりと喜びながら、どうしてかとクラール様に問うことが出来ずにいた。




 昨夜のうちに、屋敷の外はまた白く染めあがっていた。わぁ、と声を漏らして、私は上着も羽織らずに外へ飛び出す。

 まだはらはらと頼りない雪が降っていた。真白の雪の積もった外はとても綺麗だけど、体温をたやすく奪ってしまうほど寒い。

「フィオ。風邪をひいちゃうから、中に入ろう」

 私の肩にストールをかけて、クラール様は笑う。その笑顔の中には、何かを探るような気配はない。出会った頃と同じ、優しいクラール様。

「雪、綺麗ですね」

 差し出されたクラール様の手を握り返しながら、私はぽつりと呟く。何を話していいか分からなかったのだ。

「うん。……そうだ、今日は勉強をお休みにして、雪遊びしようか」

「雪遊び? クラール様とですか?」

「嫌?」

 見上げると、クラール様は微笑みながら私に問う。いいえ、と首を横に振りながら、ぎゅっとクラール様の手を握った。

「でも、クラール様と一緒にお勉強するのも好きです」

 無知だった私には学ぶべきことがたくさんあって、それを吸収していくことはとても楽しかった。クラール様は優しく、そして厳しい良い先生だ。

「そっか。じゃあ、勉強したあとで時間があったら遊ぼう」

 それならいいよね、とクラール様が言うので、私は笑顔で頷いた。手を繋いだままお屋敷の中に入る。室内の温かい空気が優しい。

 私がペンを持って何度も文字を書く練習をしている間、クラール様は大抵本を読んでいる。時折私の方を見て、そしてすぐにまた本を読みはじめる。記憶がないはずなのに、行動は一緒だから不思議だ。

 ノートに文字を書きながら、ちらりとクラール様を見る。白銀の髪に、紫色の瞳。肌も透き通るように白くて、男の人だけどすごく儚げな印象がある。その姿も、出会った時と何一つ変わらないのに。

「……どうしたの?」

 私の視線に気づいたのだろうか、クラール様が淡く微笑んでこちらを見る。なんでもありません、と首を横に振って、私はまたノートに目を落とした。習い始めた単語を、何度も書き連ねている。時折交じっている流麗な文字は、クラール様の書いたものだ。

「クラール様」

 ただ文字を記号として書き続けることに飽きた私は、クラール様に声をかけた。なぁに、とクラール様は私を見て問う。

「……その、フィオって、どう書くんですか」

 普段使うような言葉ばかり教わって、肝心の名前の書き方を知らなかったのだ。ああ、とクラール様も同じことに気づいたのか否か――私の手からペンをとり、ノートの隅に大きく分かりやすいように文字を連ねる。

「これで、フィオって読むんだよ」

 フィオ、と私は口の中で繰り返した。不思議だった。ただの記号だった文字が、それだけで特別なものに感じた。

「じゃあ、クラール様は?」

 クラール様は一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに笑って、またペンを走らせた。フィオよりも少し長い文字の連なり。ノートの上で、フィオとクラールが仲良く並んでいた。

「これで、クラール。次はジルベルトとでも書く?」

「ジ、ジルベルト様は、また今度で」

「今度でいいの?」

「……はい」

 本当はノートの上で並んでいる私とクラール様の名前の他に誰かを加えたくなかっただけだけれど、間違えちゃいそうだから、と適当に言い訳した。クラール様は追及せずにまた本を読み始める。

 クラール。フィオ。クラール。

 何度も何度もその二つの名を書き連ねると、ノートの上はあっという間に埋め尽くされていった。まるで世界に二人きりみたい、と思いながら恥ずかしくなって、私は顔を赤く染めて机に伏した。

「フィオ? どうかした?」

「な、なんでもないですっ!」

 正直、自分自身でもどうしてこんなに恥ずかしくなるのか分からなかった。まるでお互いの存在しかいらないと言わんばかりに書き連ねられたたくさんの二つの名前は、愛の告白のようにも見える。

「そうだ、フィオ。いいものをあげる」

 私の奇行を気にも留めず、クラール様は私の肩を軽く叩いて顔をあげて、とねだってくる。

「……なんですか?」

 火照る頬を気にしながら私がクラール様の方を見ると、口の中に何か放り込まれた。一瞬にして広がる甘い味に、私は頬を緩めた。

「すみれの砂糖漬け。疲れた時には甘いものが一番だからね」

 そう言いながらクラール様は小さな瓶に入ったそれを私の手のひらの上に置く。

「あんまり食べ過ぎちゃダメだよ?」

 虫歯になっちゃうから、と笑うクラール様は、確実に私を子ども扱いしている。いつもそうだ、と思って私は違和感を覚える。いつもそうだ、なんて。

「…………」

 ペンを握りしめたまま黙り込む私を見て、クラール様は苦笑した。

「変な顔しているよ、フィオ」

 困ったようにも見えるその顔は「はじめまして」と言った時の顔に似ている。私が今までみたことない、クラール様の笑顔。

「……変なのは、クラール様です」

 言うべきか否か少し悩んだ後で、私は素直に口にしていた。だって、私よりもずっと長い時を過ごしたはずのジルベルト様にはよそよそしくて、私に対する行動は以前と少しも変わらない。優しく包み込んで、柔らかく微笑んで、めいっぱいに私を甘やかす。

「変、かな」

 困ったままの笑顔を崩さないまま、クラール様は私に問う。だって、と私は理由を口にしようとして、戸惑う。口にしたら、クラール様を傷つける気がした。

「……記憶がないはずなのに、君には優しいから?」

 あたたかい手が私の髪を撫でて、私の肩がびくりと揺れた。核心をつかれて、私はますます話せなくなった。クラール様の手はそれでも私の髪を優しく撫で続け、その仕草さえ変わっていない、と私の疑問は膨らむばかりだ。

「記憶は、ないよ。君と出会った時のことも覚えてない。君が不審に思っているように、記憶がない僕は、周囲の人達を見極めようとしている。嘘はついてないか、信じるに値する人間か。もしかしたら、以前はいなかったのに、記憶を失ったタイミングを見計らって素知らぬ顔で僕に近寄ってくる人間がいるかもしれないから」

 淡々と語るクラール様を見つめて、私は胸が苦しかった。この人は今空っぽなんだ。何を信じていいのか分からないでいる、迷子のような人。

「そういう人間がいても、おかしくない立場の人間だったからね。警戒しなくちゃいけない。それは、どうしようもないことなんだ」

 分かるかな、と問われて、私はこくんと頷いた。王子様だったクラール様。私にとってはただのクラール様だとしても、この国の他の人にとってはそうじゃないんだろう。

 素直に頷いた私を見て、一瞬だけクラール様が目を細めて嬉しそうに微笑む。ああ、私の知っている顔だ。胸がきゅっと小さな悲鳴を上げる。

「もともと僕は疑い深い人間でね、自分の目で確かめたものしか信じられない。だから、たとえ昨日まで親しかった人でも、新しい年を迎えた瞬間から僕にとっては見知らぬ人で、信じていいか確認しなければいけない人になる」

 まるで他人事のようにクラール様は続ける。けれどそれは自分でも確認するために声に出しているようにも見えた。

「どんなに言葉を尽くして、君と僕は親しかったんだ、なんて言ってもね。人は嘘をつける生き物だから、信用できない。過去の僕がこの人とは仲良かったんだよ、なんて書き残していても、脅されて書いたんじゃないか、僕の字を真似しているんじゃないかって疑ってしまう」

 静かな部屋の中にクラール様の声はゆったりと流れる音楽のように響いた。クラール様の甘い声が心地いいのに、その声で語られることは心臓が締め付けられるみたいに悲しいことばかり。

 悲しいことも、苦しいことも、分けてくれればいいのに。私が少しでもクラール様を楽にしてあげられたらいいのに。そう思って私はクラール様の手を握った。大きな手は私の手ではとても包みこめないけれど、それでもぬくもりは伝わるようにと、両手でクラール様の左手を握りしめた。

「この呪いは不思議なものでね。僕自身のことはちゃんと覚えているんだ。この国の王子で、魔女から呪いをかけられたってこと。僕がどういう性格をしているか、とかね。さらに付け加えれば、僕に呪いをかけた魔女のことも覚えている。僕は僕という器を残したまま、空っぽになったようなものなんだ」

 抽象的な話に、私は首を傾げる。クラール様はわかりにくいかな、と苦笑してノートの上に何かを書き始めた。

「人のことを器としてみる。フィオにはフィオという器があって、昨日のこと、今日のこと、これからのことをたくさん溜めていくとする。けれど、僕の器は一年分でそれがいっぱいになってしまう。呪いで小さな器になってしまったから。だから、一年経つとその中身が全部捨てられてしまう。……分かるかな?」

 クラール様はノートに二つの器を書いて、その下に「フィオ」と「クラール」とさきほど習ったばかりの二つの名前を書いた。その器に描き足しながらの説明は分かりやすく、私は何度も頷いた。

「だから、僕の基本は残っている。僕は自分がどんなことを考えるか分かるから、未来の自分に向けて何かを残したりしない。信じないって分かっているからね」

「……つまり、クラール様は一年後に記憶がなくなると分かっていても、未来の自分にとっては無意味なものだから、過去の記録を残さないってことですか?」

 クラール様の説明を頭の中で繰り返してから答えると、クラール様は嬉しそうに笑って頷いた。

「フィオは賢いね」

 褒められたのが嬉しくて、私はクラール様にいい子いい子と頭を撫でられたながら笑った。

「さて、ここまでは前置きだね。どうして僕がフィオのことを疑わずに接しているのかってことだけど」

 本題を忘れかけていた私は、クラール様の声にはっとなって居住まいを正す。そう、私が変だと感じていたのはそういうことだ。もちろんジルベルト様から簡単な説明しかされていなかったから、呪いのことは気になっていたけれど。

「疑い深くて捻くれた僕が、こんなものを残していました」

 クラール様は上着の中から一通の手紙を取り出す。宛て名に書いてある文字は私には分からない。クラール様宛なのに「クラールへ」と書かれていないんだな、と思う。

「未来の僕へ、と書いてあるんだ」

 じぃっと宛て名を見つめていた私に、クラール様が正解を教えてくれる。

「みらいの、ぼくへ……?」

 繰り返して言葉にしてみて、私は首を傾げる。おかしい。

「そう。僕は僕へ何も残さない。信じないから。分かっていたはずなのに、去年の僕はこれを残した。……何が書いてあると思う?」

 分からなくて、私は首を横に振った。クラール様は優しく微笑んで、私を指差す。

「君のことだよ。フィオ」

 綺麗なクラール様の指を見て、私の耳にクラール様の甘い声が届いて、その言葉が私の脳に伝わる。きみのことだよ、フィオ。

「…………え?」

 なんと間抜けた声だろうか。けれど私にはそれしか言えなかった。それ以上の言葉が見つからなかった。頭の中ではクラール様の言葉が何度も繰り返されて、ぐるぐるしていた。

「ここに書いてあったのは、全部君のことだったんだ」

 クラール様はうれしそうに笑った。

「僕が名前をあげた女の子。黒い髪に、青い瞳の、猫みたいな子。僕の大事なお姫様。この手紙にはね、君と出会ったこと、君と過ごしたこと、君が好きなもののこと、そういうことが書いてある」

 クラール様が私に手紙を差し出す。読めないのは分かっているけれど、私は綴られている文字に目を落とした。文字の連なりの中に、分かる言葉がある。フィオ。私の名前。フィオ、フィオ、フィオ。文字を追うと、何個もその名前はあった。それだけでこの手紙が私のことで溢れているんだと分かる。

 視界が歪んだ。内容までは分からない。けれど、クラール様の手紙には紛れもなく私への想いが詰まっていた。過去の自分さえ信じないクラール様が、分かっていても未来の自分へ残したもの。

「泣かないで、フィオ。君を泣かせると、僕は怒られてしまうから」

 クラール様の指が私の眦を撫で、溢れてきた雫を掬いとった。それでも胸が詰まって、締めつけられるようで、その幸せな苦しみから私の瞳は涙を零す。

「おこられるって、だれにですか」

 泣いているせいで、問う声はかすれていた。クラール様は微笑みながら、また私の涙を拭った。

「僕に。この手紙に書いてあるんだ。君を泣かせるようなことはしないで、泣かせたら許さないって」

 そんなことも書いてあるんだ。クラール様の口から手紙の内容が語られるたびに苦しくなって、私の涙は止まらなかった。だって、嬉しい。まるで私は特別なんだよって、言われているみたいで。

「フィオ、お願いだから、泣かないで。君が泣いているとどうしたらいいのか分からなくなる」

 慌てているクラール様の姿がおかしくて、私は笑った。私の笑顔を見ると、クラール様はほっとしたように微笑み返す。

「これは、悲しくて泣いているんじゃないから、いいんです」

 クラール様の手をぎゅっと握って、私は精一杯に笑う。涙はまだ溢れてくるけれど、この喜びが少しでもクラール様に伝わるように。

「……いいのかな。怒られなくて済みそう?」

「はい、私がいいって言っているんだから、いいんです」

 きっぱりと答えると、クラール様はくすりと笑った。

 そうか、それならいいかな。そう言って。

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