黒猫の少女:5

 そして、今年最後の日がやってきた。

 明日のお昼には、ジルベルト様は帰ってしまう。それが寂しくて私は夜更かしをしていた。日付が変わるその時まで起きて、一番に二人へ新年のあいさつをしようと思っていたのだ。

 けれどその時間まで起きていられずに、私はソファの上でうとうとしながらも、部屋には戻りたくないと駄々をこねていた。

「フィオ、眠いなら部屋で寝ないと、風邪をひくよ」

 優しいクラール様の声が私を揺り起そうとするけれど、私は目を瞑ったままいやいや、と首を横に振った。だってクラール様もジルベルト様もまだ起きているんでしょう? 私だってまだまだお話したいのに。子どもみたいな我儘が寝ぼけた唇によって紡がれる。

「しょうがない子だなぁ」

 くすくすと笑う声が聞こえると、そのあとすぐにふわりと私の身体が持ち上がる。甘い香りがして、クラール様だと察する。

 香りだけじゃなくても、クラール様の腕はジルベルト様もよりも優しく私を抱き上げるから、目をつぶっていても分かる。まるで毛布に包まれているみたいで、私は子どものようにクラール様の胸に頬を寄せた。

「新年のあいさつをしたいと言っていたからな。これでも頑張って起きていた方だ」

「そうだね。もうすぐ日付が変わる」

 夜更かしはもう少し大人になってからかな、なんて笑いながらクラール様がゆっくりと歩いている。その振動がまるで揺りかごの中にいるみたいで、心地いい。

 やがて柔らかいベッドの上に下ろされて、布団をかけられる。優しいぬくもりに、私はもう睡魔に抗えなくなっていた。

「……ありがとう、ジルベルト」

 夢の中へ意識が落ちようとしている時、クラール様の声が聞こえた。

「なんだ、急に」

「正直、この呪いにかかってから、生きているような感覚がなかったんだ。けれどフィオが来てからは違う。毎日が楽しくて仕方ない。この子が笑うのを見るたびに嬉しくて、この子のために何かしてあげたいって思う」

 あたたかい手が私の髪を撫でる。クラール様の手だ。

「この子が、声を取り戻して、一番に僕の名前を言った時の気持ちが分かるかな。うれしくて泣きたくて、これほどいとしいものがこの世にあるのかって思ったよ」

「……別に俺は、おまえのためにこの子を連れてきたわけじゃない」

「ま、そういうことにしておこうか」

 ジルベルト様の言葉に、クラール様は笑いながらそう答えていた。私もお話したい。まだ眠りたくない。けれど、身体はいうことをきかずにどんどん眠りの中へ落ちていく。

「……言わないのか? のこと」

 ジルベルト様が低く呟いた。まるで子どもが内緒話をするみたいに。

「言葉で説明するより、目にした方が早いと思うんだ。フィオは賢い子だし、すぐに理解できると思うよ。新年はもうすぐそこだしね」

「……いいのか?」

「僕は未来の自分に、出来る限りのことを残しておいたんだ。今まで、忘れたところでなんの問題ないことばかりだったけど――フィオのことだけは、書き残してある。あの子のことだけは、どんな形でも未来の自分へ受け継ぎたくて」

 優しく撫でてくれるクラール様の手が、ふっと私の頭から離れた。いかないで、と言いたいけれど、私の意識は夢の中へ落ちて行く。どうしてだろう、クラール様がどこかへ行ってしまう気がするなんて。

「フィオは、ただのクラールとして僕を慕ってくれる。王子としてじゃなく、ただの一人の人間として。それがすごくうれしいんだ」

「……王子であることは、おまえにとってそんなに重かったか?」

 ジルベルト様の問いに、クラール様は答えなかった。

「フィオへの説明、頼むね。ジルベルト」

「……ああ、引き受けた」

 私の前髪をクラール様の手がかきあげて、額に優しい口づけが落ちる。おやすみ、と小さく呟いて、耳元で吐息が聞こえた。


「さよなら」


 おそらくジルベルト様にも聞こえないような、小さな小さな声で、クラール様はそう囁いた。

 これは悪い夢に違いない。

 そうでなければ、どうしてクラール様は私にさよならなんて言うの。だって、傍にいるって、ひとりにしないって、約束したのに。そう願いながら、私は逃げ出すように夢の中へと落ちて行った。




 目が覚めると、外は白く染め上げられていた。冷えると思ったら、雪が降っていたらしい。新年の始まりの朝だ。

 昨夜の嫌な夢のせいもあって、私は慌てて寝間着のまま部屋を出た。

 クラール様、クラール様はどこ? 寝間着一枚では朝の冷たい風を防ぐことはできない。たやすく私の手足の体温は奪われていった。

「クラール様?」

 いつも食事をとる部屋。私よりも先にクラール様は起きていて、ここ数日はジルベルト様も一緒に私の支度を待っていた。おそるおそる扉を開けると、椅子に腰かけたクラール様と目があう。紫色の瞳が優しくこちらを見つめていて、私はほっと安堵した。

「クラール様!」

 おはようございます、あけましておめでとうございます、言いたいことはいくつもあった。

 嫌な夢を見たんだと、そう言えばクラール様は笑って下さる。馬鹿だなぁ、僕が君を置いてどこかへ行くはずないだろう? って。

 しかしクラール様は、嬉しそうに笑って駆け寄る私を見て、困ったように微笑んだ。どこか私とクラール様の間に見えない壁があるような、どこか遠くて冷たい表情だった。



 私は呼吸も忘れて、固まった。

 クラール様の見たことのない笑顔と、他人行儀な声。たったそれだけで、私の世界は終わったかのように思えた。

 部屋のどこにいたのだろうか、ジルベルト様がゆっくりとクラール様から私を離し、優しく抱き上げる。

 はじめまして? どうして、そんな冗談を言うんだろう。私の頭はそれしか考えることが出来なくて、情けない顔でクラール様を見つめていた。

「フィオ、話がある」

「ジルベルト様、でも」

 クラール様は? そう問いかけても、ジルベルト様はしかめっ面で首を横に振った。私はジルベルト様に抱きあげられたまま、違う部屋に連れて行かれる。冷えた私の手足を温めるようにブランケットに包まれて、甘いココアを渡された。

 ココアを見下ろしながら、まだ実感が湧かなかった。嫌な夢の続きを見ているような気がした。頭がぼんやりとしたまま動かない。

「フィオ、クラールには呪いがかかっているんだ」

「……のろい?」

 私はカップを握りしめたまま、首を傾げた。

「そう、一年後には記憶が消える、そういう呪いだ。今のクラールには、君と過ごした日々の記憶がない。記憶というか――思い出が、全て消えている」

 クラール様の呪いについて淡々と話すジルベルト様は、まるでお伽話を聞かせているようだった。


 ある日、国一番の魔女が王子様に恋をした。その王子様がクラール様だという。

 王子様には婚約者がいて、叶わぬ恋に狂った魔女は、王子様のことを呪ってしまった。

 一年間の記憶しか持てない呪い。新年を迎えると、クラール様は空っぽになる。自分と、自分を呪った魔女のことだけを残して、すべての記憶が消え去る。

 国一番の魔女がかけた呪いは、他の魔女にも、魔法使いにも解くことができなかった。王様は何度も何度も呪いを解くように言ったけれど、ついに魔女は自ら命を断ってしまったのだという。

 ――そうして、クラール様の呪いを解けるものはいなくなった。


「だから、クラールは王位継承権を捨てて、ここでひっそりと暮らしている。クラールが呪いにかかったのは十五歳の時だ。もう、何年も記憶を失う生活を送っている」

「のろいは、もう解けないんですか」

 飲む気の失せてしまったココアを見下ろしながら、私は縋るようにジルベルト様に問いかけた。

「呪いをかけたのは、稀代の魔女だったという。国中の魔女、魔法使いが集められて呪いを解こうと必死になったが、未だにあの状態だ」

 クラール様がこの国の王子様だった。そして、クラール様に恋をした魔女に呪われた。にわかには信じがたい現実を前に、私の頭はぐちゃぐちゃだった。

 昨日の別れの言葉は夢なんかじゃなかったのだ。もう私を知っているクラール様は消えてしまうから、だから、あの時クラール様はさよならと言ったんだ。

「フィオ。おまえはまだ驚いているかもしれない。けれど、どうかいつものおまえでいてくれ。おまえが来てからクラールは幸せそうだった」

 ジルベルト様の手がカップを握りしめる私の手を包み込む。ココアの中にぽとんと雫が落ちて、私は泣いているんだと知った。

「俺からのお願いだ。フィオ。どうかおまえがクラールを支えてくれ。傍にいるだけでいい。記憶を何度失っても、変わらない存在が傍にあるのだと、クラールに教えてやってくれ」

 私が頷くたびに、ココアの中には涙が落ちた。忘れられたことが悲しくて泣いているんじゃない。あの優しい日々が消えてしまったことが悔しいわけでもない。ただ、クラール様が可哀想だった。




 着替えてから、私は先程開けた扉の前にまた立っていた。

 ジルベルト様は先に戻ってしまったから、私はこの扉を自分で開けるしかない。ごくりと唾を飲み込む。いつもどおりに、と意識すればするほど、身体は緊張して上手く動かない。震える手で扉をゆっくりと開ける。

 わずかに開いた隙間から顔を覗かせれば、ジルベルト様と話しているクラール様が見えた。

 そうしていると、クラール様の記憶が無くなったなんて思えないくらいに、変わらない光景だ。音をたてないように静かに扉を開ける。目の前の空気を壊したくなかった。けれどクラール様が私に気づいて、端正な顔立ちがこちらに向けられる。

 怖い、と思ってしまった。

 またはじめましてと、知らない人間を見る目で私を見たら、と。

「フィオ」

 けれどクラール様の甘い声は、確かに私の名前を呼んだ。フィオ、と。クラール様がつけてくれた、大事な私の名前を。

「忘れてしまったけれど、知っているよ。僕の大切なお姫様」

 おいで、と優しい声で誘われて、私は涙を堪えながら駆け寄った。

 クラール様の腕に飛び込んで、思う存分その腕に甘える。よしよし、と私の髪を撫でる仕草は以前と何ら変わりない。本当は私がクラール様を慰めなくちゃいけないのに。辛いのは、苦しいのは、クラール様なのに。

 きっと、来年のこの日には、もっともっと強くなるから。だから今だけは甘えることを許してほしい。


 ちっぽけで非力な私。なんにも持たなかった小さなフィオ。

 私はこの時、クラール様のために生きたいと強く願った。

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