黒猫の少女:4

 私に与えられた仕事は、とにかく食べて寝ること。

 私は十四歳にしては身体が小さく、十歳の子どもの平均くらいの体重しかなかったらしい。朝昼晩の食事のたびに、私はお腹がいっぱいになるまで食べた。隣に座るクラール様が次々と私の皿に料理を取り分けてしまうから、私も必死だった。

 焼きたてのパンも、野菜たっぷりのスープも、甘いソースのかかったお肉も、私が今まで食べたこともないようなごちそうだというのに、それを毎日食べるなんて、と私には驚きだった。

 食べても食べても、食事は減っているようには見えない。これ以上食べられない、というところで私はいつもフォークを置く。

「……ごちそうさま?」

「はい、もうお腹いっぱいです」

 お腹を触ればぽっこりと膨らんでいるのが分かるくらいに、お腹の中はぎゅうぎゅうだ。

「フィオは食が細いなぁ」

 あれだけ食べたというのに、クラール様から合格点をもらえたことはない。しょんぼりしていると、甘い香りが漂ってきた。

「今日はね、デザートがあるんだ。甘いものだったら食べられるかな?」

 目の前に運ばれてきたのは、林檎をはちみつで甘く煮込んだものだった。もう食べられないくらいにお腹がぎゅうぎゅうだったのに、なぜだろう、これなら食べられそうな気がする。ごくりと唾を飲み込むと、クラール様はくすくすと笑った。

「女の子は甘いものが好きだからね。どうぞ、熱いから気をつけるんだよ」

 スプーンで一口大にされた林檎をすくいあげ、ふぅふぅと少し冷ました後で口に入れる。すると林檎は口の中いっぱいに甘く広がり、溶けてしまう。しあわせってこんな味なのかもしれない、なんて思うほどにおいしかった。

「……おいしい?」

 私の様子を見ていたクラール様が、柔らかく微笑んで問いかけてくる。「はい、とってもおいしいです!」

 食事ももちろんとてもおいしいけれど、こんな甘いものを最後に食べたのはいつだっただろうか。私にとって甘いものは手の届かない贅沢だった。

「そっか。それじゃあ今度からはデザートまで作ってもらおうかな。僕があんまり甘いものを食べないから、今までは用意してもらわなかったんだけど」

「クラール様は、甘いものはお嫌いですか?」

 そういえばクラール様の分の林檎はない。他の料理は同じものが用意されているので、クラール様が食べないから用意されていないのだろう。

「甘いものは嫌いじゃないけど、さすがに毎食あるのはちょっとね。僕はフィオからちょっとわけてもらえればいいかなぁ」

「それじゃあ、一口どうぞ」

 私はスプーンで一口分すくい、クラール様に差し出す。クラール様は目を丸くして、スプーンをじっと見ていた。

「……クラール様?」

 変なことをしただろうか、と私が首を傾げると、クラール様は微笑みながらぱくりとスプーンを口に入れる。

「フィオは大胆だね」

 こういうことを、他の人にはしちゃダメだよ。クラール様は私の髪を撫でながらそう言った。

「でも、甘いものをもらった時は、よくこうやって皆と分け合っていました」

「皆と?」

「はい、お屋敷の皆です。前に働いていたお屋敷では、たまにだけど甘いものをもらえたので。私と同じくらいの年の子も何人かいましたし、そういう時は皆で分け合うのが決まりだったんです」

 ふぅん、とクラール様は興味なさそうに呟いた。

 そしてするりと手が伸びてきて、クラール様の指が私の口元を拭う。唇をかすめた指に甘いソースがついていた。まるで母親が子どもにするように、クラール様は指についたソースをぺろりと舐める。その仕草になぜかどきどきしていた。

「おいしいものを分け合うのはいいことだけどね。もう子どもじゃないんだから、むやみにやっちゃダメだよ」

 私はかすれた声で「はい」と答えるしかできなかった。




 庭の木々の葉も落ち、すっかり寒くなった。もうすぐ今年も終わる。

 私がクラール様のお屋敷に来てから、二カ月ほどが経った。

 細すぎた私の身体は、徐々に丸みを帯び始めている。食べる量も来た頃よりも多くなった。がんばって食べれば食べるほど、クラール様が嬉しそうに笑うので、ついつい食べてしまうのだけど、このままじゃ太ってしまうんじゃないだろうか、という年頃の女の子らしい悩みも出来る。

 食べる量が増えたなら少し運動を、と庭を散歩するようになり、今ではすっかり日課となった。そして少し前から、クラール様から読み書きを教わり始めている。食べること、寝ること、そして少しの運動と読み書き。今の私に与えられた仕事だ。

「……もしかして、フィオか?」

 すっかり寂しくなった庭を歩いていると、低い声に呼ばれた。クラール様の声ではない。

「ジルベルト様?」

 振り返ると、そこにいたのは私を助けてくれた男の人がいる。ちょうど今この屋敷にやってきたらしい。

「お久しぶりです、ジルベルト様!」

 ジルベルト様に会うのは、私がこの屋敷に預けられた時以来だから二カ月ぶりになる。領主様だから忙しいんだよ、とクラール様がおっしゃっていたけれど、やっぱりこうして会えると嬉しい。

「ああ、そうだ、話せるようになったんだったな。それにしても見違えた。綺麗になった」

「ジルベルト様はお変わりないですね」

「そりゃそうだ。変わるとしたらもう何十年かして老け始める頃だろう」

 私が駆け寄るとジルベルト様は軽々と私を持ち上げた。話せるようになったからは、子どものように抱き上げられることはなくなっていたので少しだけ恥ずかしい。

「重くなったな」

 私を抱き上げたままジルベルト様が嬉しそうにそう言うので、私はついぽかっとジルベルト様の頭を叩いた。

「なんだ、いいことだろう」

「そうかもしれませんけど、女の子に言う言葉じゃないです」

 ぷい、と拗ねたように顔を背けると、ジルベルト様は笑いながら「悪かった」と言う。

 十四歳にしては貧相な身体だった私が、二カ月で増えたとはいえ、まだまだ身体は細い。分かってはいるけれど重くなった、なんて言われて嬉しい女の子はいない。

「……あれ? そういえば、ジルベルト様。どうして私の名前を御存じなんですか?」

「ああ、クラールと何回か手紙のやり取りをしたんだ。おまえの近況がほとんどだったけどな」

 だから話せるようになったことも、名前も知っている。ジルベルト様は本当に嬉しそうに笑った。一日の大半を一緒に過ごしていたけれど、クラール様が手紙を書いているような様子なんて見たことがない。いつの間に、と私は苦笑した。

「フィオ? 話し声がしたけど、誰か来たの?」

「クラール様! ジルベルト様がいらっしゃったんです!」

 広い庭の中にいても、今は生い茂る葉がない。すぐにクラール様の姿が見えて、私はジルベルト様に抱きあげられたままでクラール様を呼んだ。紫色の瞳と目が合う。

「来ていたんだ、ジルベルト。僕に挨拶もなしにさっそくうちのお姫様を口説いていたの?」

「既婚者にむかって人聞きの悪いことを言うな」

「え、ジルベルト様、奥様がいらっしゃるんですか?」

 クラール様のからかいにジルベルト様が真面目に答えていて、そして私は初耳だったのでつい口を挟んでしまう。ジルベルト様は二十五歳だというから、結婚していてもおかしくはないけれど。

「おまえの世話をしていた女性がいただろう、あれが俺の奥方だ」

 苦笑しながらジルベルト様が答える。そういえば、親身になってくれたあのお姉さんは綺麗なドレスを着ていた。使用人ではないのはなんとなく分かっていたけれど、あの時はそんなことに頭が回らなかったのだ。

「そうだったんですか。お元気でしょうか? 私、お礼も言えませんでした」

 お別れの時には話すことができなかったのだから仕方ないけれど、それでも私は自分のことでいっぱいいっぱいだった気がする。あんなに優しくしてもらったのに、なんて罰あたりなんだろう。

「元気にしている。あれもおまえのことを心配していたぞ」

「私は、とても元気ですよ。クラール様がとてもお優しいから、すごくしあわせです」

 そうお伝えください、とお願いすると、ジルベルト様は微笑んだままで頷く。

「なんか本人を目の前にしてはっきりそう言われると照れるね」

「だって、本当のことですよ」

 照れたように笑うクラール様が少し可愛らしくて、私は笑いながら追い打ちをかける。するとクラール様の手が伸びてきて、いつもより少し乱暴に髪を撫でた。

「素直なところは、フィオの美点だね」

 その優しい笑顔にどきどきしながら、私は俯く。クラール様は本当に綺麗な方だから、こうして間近で微笑まれると胸が苦しくなる。まるで天使みたいだ、なんて男の人に使うのはおかしいのかな。

「そんなこと、ありません。ジルベルト様は、何か御用ですか?」

「僕が呼んだんだ。年越しをここで過ごしてもらおうかな、と思って」

 ジルベルト様への問いの答えは、あらかじめ用意していたかのようにクラール様がさらりと答えた。年越し。確かにあと数日で今年は終わる。

「そうだったんですか。でも、大丈夫なんでしょうか? ジルベルト様はお忙しいんでしょう?」

「可愛いフィオに会うためなら、これくらいのこと平気だよ。ねぇ、ジルベルト?」

「ああ、そうだな」

 クラール様の笑顔は有無を言わせぬものだったけれど、ジルベルト様は気にした様子もなく微笑みながら頷いていた。

「さてと、いつまでうちのお姫様を抱っこしているつもりなのかな? 中へ入ろう。そろそろお茶の時間だ」

 ジルベルト様の腕からゆっくりと下ろされて、差し出されたクラール様の手をとる。大きな手が私の手を包み込むと、ここに居場所があるんだと言われているような気がして、ほっとする。

 十四歳のフィオ。私は確かに自分の名前と居場所を手に入れた。




 それからの数日、読み書きの練習にはジルベルト様も加わって、二人で私の先生になってくれていた。

 晴れた日にはジルベルト様に馬に乗せてもらったり、三人で庭を散歩したり。寝る前にはクラール様は本を読み聞かせてくれる。まるでもっと小さかった頃に戻って、今までの人生をやり直しているみたいだった。

 お茶にしよう、とクラール様を呼びに行くと、クラール様は机に向かって真剣に何かを綴っていた。

「……クラール様?」

 扉を開けたまま名前を呼ぶと、クラール様は少し慌てたように振り返る。

「あの、クラール様? お茶にしましょう?」

 おずおずとそう言うと、クラール様は微笑んでペンを置く。書いていたものの上に厚い本を置き、私のもとへやってきた。

「えっと、何をしていたんですか?」

 もしかして誰かに手紙でも書いていたのかしら――そう、私が気づかぬうちにジルベルト様へ手紙を書いていたように。

「……ひみつ」

 クラール様は淡く、少し悲しげに微笑んで、結局教えてはくれなかった。

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