黒猫の少女:3

 パン一個と、野菜のスープ、そして少しの果物。私はそれを食べるだけでも精一杯で、時間をかけて咀嚼する。

 しかしクラール様も、ジルベルト様も、急かすことはない。ジルベルト様は時折目を細めて「うまいか」と問うてくるので、小さく頷く。

 この方たちには、当たり前の食事なのかもしれない――けれど私にとっては贅沢過ぎる食事だった。

「この屋敷にくると、どうものんびりし過ぎていけないな」

 ジルベルト様は食後の紅茶を飲みながら苦笑した。

「君は、少し忙しくしすぎなんじゃないかな。領主という仕事がたいへんなのは、認めるけどね」

「これが性分なんだ、どうしようもないだろう」

 この三日間のんびりし過ぎたくらいだ、とジルベルト様は笑う。意味ありげな会話に、私は首を傾げる。するとクラール様がそんな私に気づく。

「ジルベルトは、今日屋敷に戻るんだ。さすがに領主様があんまり留守にするわけにもいかないからね」

 ああ、そうなのか、と私は納得すると同時に、少しだけしょんぼりとした。穏やかな時間は心地よく、夢のような日々は、続いていくような錯覚を覚えていた。

「大丈夫だよ。ジルベルトの屋敷はそう遠くないし、これからも遊びに来てくれるから」

「こいつの為に駆けつけることはしないが、おまえが呼んでくれるなら、急いでやってくる。心配しなくていい」

 ジルベルト様が腕を伸ばし、私の頭を撫でた。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 私はジルベルト様に助けてもらったのに、何も返せていないのだ。ふわふわと夢見心地のまま、ただ流され、こうしている。

 私が朝食を食べ終えると、ジルベルト様を見送るために外へと出た。

 晴れた秋の朝に吹く風は、どことなく寂しい。俯いたままの私を見て、クラール様もジルベルト様も少し困っているのが伝わってくる。


「じゃあな、元気になったら、また俺の屋敷に遊びに来てくれ」


 歓迎する、とジルベルト様は微笑んで、馬車に乗り込んだ。領主様だから忙しいのはしかたない。おそらくこの三日間も、かなり頑張って都合をつけてくれたのだろう。私がひとり、見知らぬ屋敷に取り残さないように。

「保護者がいなくなると、寂しいのかな」

 いや、飼い主の間違いかな。小さくなっていく馬車を見送りながら、クラール様が呟く。

「そうしていると、猫というよりは犬みたいだよ。そんなに寂しい?」

 問われたので、私は素直に頷いた。

「どうして?」

 続いた問いに、答えられない。どうして、と問われることの方が不思議だった。

「だって、僕がいるでしょう? 僕は、ちゃんと君の傍にいるよ。ジルベルトのように忙しいわけでもないし、君が願うなら、一日中傍にいてあげられる。ひとりにしないよ。それでも寂しい?」

 その言葉は、じんわりと胸に染みた。ああ、そうか。私はひとりになるのが怖いのか。

 クラール様やジルベルト様に守られていなければ、私はとても非力な子どもになってしまうから。そして同時に不安なのだ。この屋敷から放り出されてしまえば、私は簡単にもとの生活に戻ってしまうから。

「君はもう、この屋敷の子なんだ。だから、寂しいなんて感じなくていいんだよ」

 なんだか、泣きたいような気持ちになった。目頭が熱くなる。

 うれしい。うれしいのに、涙が出る。ぽろぽろと泣き始めた私を見て、クラール様は慌て始めた。しゃがんで、この間のように私と目線を合わせて、その大きな手のひらで私の瞳から流れ落ちる雫を拭う。

「ごめん、何か悲しませるようなことを言ったのかな」

 違う、違うの。私は首を横に振るけれど、流れる涙がそんな動作の信憑性を薄めてしまう。

 唇が震える。

 声を。声を、出したい。

 伝えたい。

 うれしいと、ただ一言。ありがとうと、それだけ。

 私の頬に触れるクラール様の手に、自分の手を重ねる。涙は止まらないけれど、私はゆるく微笑んだ。

 違うの、うれしいの。そう、表情で伝えるために。


「くらーる、さま」


 その言葉は、声というにはあまりにも小さかった。かすれて、ひどく情けない音。けれど、私の喉は動いた。音を紡ぐことを、思い出して。

 クラール様は、その綺麗な紫色の瞳を丸くして、私を見つめていた。そして、ゆるゆると表情を崩し、私の身体を抱きしめた。

「クラール、さま?」

 再び名を呼ぶと、クラール様はぎゅっと強く私を抱きしめる。そして、すぐに離れた。ふんわりと笑い、私の髪を撫でる。

「声、出せるね」

「……はい」

 私は自分の喉に触れながら、頷いた。だいじょうぶ、話せる。クラール様は「そっか」と小さく呟くと、私を抱き上げた。

「っ!?」

「がんばった黒猫さんに、ご褒美をあげようか」

 悪戯を考える子どものような顔で、クラール様は私を抱き上げたまま屋敷へと入る。廊下を歩く間、階段を上る間、私はどうすればいいのか分からずにクラール様の肩にしがみついた。

 少し歩いて、ひとつの扉の前で立ち止まった。扉を開けると、隙間から光が零れる。私は眩しくて目を細めた。

 クラール様はそっと私を下ろした。

 ふかふかの絨毯は、私の小さな足を優しく受け止めた。家具らしい家具は箪笥やソファ、ローテーブルくらいだ。大きな窓は私の身長の倍くらいの高さがある。天井の中央にはシャンデリア。

 私が眠っていた、あの小さな物置がいったいいくつ入るだろうか、私はきょろきょろと落ちつきなく部屋の中を見まわしながらそんなことを思った。

「ここは……?」

 なんですか、と私が問うと、クラール様は笑った。悪戯が成功したときの子どもみたいな、そんな笑顔だった。

「君の部屋だよ」

「え」

 クラール様の言葉に、私は目を丸くした。わたしのへや? と呆けて繰り返す。満足げにクラール様が頷くので聞き間違いではないらしい。

「取り急ぎ、必要なものをそろえたんだ。あとで欲しいものがあったら買い足せばいいよ。奥の寝室のクローゼットに、洋服も用意してある」

 おいで、と私の手を引きながら部屋の中にあるもう一つの扉をあけると、先程の部屋より少し小さめの、それでもやはり驚くほどに広い部屋のなかに、天蓋付きのベッドがあった。転がっても余りあるくらいに大きい。

「遠慮はいらないからね」

 念を押すようなクラール様に、私は笑う。

 ああ、でもなんて贅沢な話だろう。ほんの数週間前の私には、到底想像することもできない生活だ。こんな、部屋で暮らすことができるなんて、どうやって想像すればいいのかも分からない。

「ありがとう、ございます……ほんとうに、本当に、ありがとうございます……!」

 何度感謝の言葉を言っても足りないくらいだ。

「お礼なんて、必要ないのに」

 クラール様はくすりと笑って、ソファに腰を下ろした。隣をぽんぽん、と叩いて「おいで」と言う。

「さて、せっかくお話できるようになったんだから、色々聞かせてほしいな。まずは、君の名前は? なんていうの?」

 クラール様の質問に、私は困った。名前。たとえ話せたとしても、その問いに対する答えを私は持っていない。

「君は、なんて呼ばれていたの?」

 黙り込んだ私に、クラール様は問いを重ねる。私は居たたまれなくなって、俯く。目にうつった私の足は、なんて小さくてなんて弱々しいことだろう。

「……名前は、ありません。ずっと、番号で呼ばれていました」

 旦那様や奥様は、六番と呼ぶのも面倒だったらしく、ただ「おい」や「おまえ」といった感じで私のことを呼んでいた。

 そっか、とクラール様の声が小さくなる。

 空気が重くなったのを肌で感じて、やっぱり言わなければ良かったと思う。

 適当に考えて、ありきたいな名前を言えば良かったじゃないの、バカな私。悲しいわけでもないのに涙がじわりと滲んできて、私は顔をあげることが出来なかった。


「それなら、僕が君に名前をつけてあげる」


 涙が零れ落ちる前に、優しく甘い声が聞こえた。そしてふわりと私の髪を撫で、にっこりと笑うクラール様と目があった。

「どんな名前がいいかな。エルザ、リリィ、エメリア、うーん、どれもぴんとこないなぁ」

 いくつかの候補を挙げては、違うなぁ、とクラール様は頭を悩ませる。可愛くて、綺麗な名前がいいね。そう微笑む。

「フィオ」

 いくつもあげられた名前の中で、その一つの名前が、私の胸に響いた。それはクラール様にとっても同じだったらしい。にっこりと楽しげな顔で、私を見ている。

「フィオ、はどうかな。お姫様」

 微笑むクラール様を見て、私は小さく呟く。フィオ。フィオ。小さな私の名前。フィオ。それは唱えれば唱えるだけ、私の身体に染みていくような気がした。

「……うれしい、です」

 喜びを隠しきれない。自然と笑顔になって、私は大切な贈り物を受け取った。唱えるたびに、呼ばれるたびに、じわりじわりと私のものになっていく名前が、いとしくて仕方ない。

「じゃあ、決まりだね。よろしく、フィオ」

「はい、よろしくお願いします、クラール様」


 そうして私は、「黒猫さん」から「フィオ」になった。

 フィオ。

 世界でただひとつだけの、私のいとしい名前。

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