黒猫の少女:2

 二日後に馬車に揺られて連れて来られたのは、ジルベルト様のお屋敷よりほんの少し小さな――けれど、以前仕えた御主人様のお屋敷とは比べ物にもならないほどに大きなお屋敷だった。

 綺麗に整備された庭には、ちらほらと花が咲いている。秋も終わりだ、花の盛りではないからだろう。


「ここにいるのは俺と年の変わらない従兄弟がいる。一人で暮らしているし、使用人も必要なだけしかいない。騒がしい俺の屋敷よりはゆっくり静養出来るだろう」


 ジルベルト様が私の頭を撫でる。すると、玄関が開いて家の主人が顔を出した。白銀の髪が、太陽の下できらきらと輝いている。まるでお星様のようだった。

「久しぶりだな、クラール。俺のことは覚えているだろう?」

「……先月会ったばかりの人間を忘れるわけないよ、新しい年が来るまではね。いらっしゃいジルベルト」

 クラール様。私はジルベルト様がそう呼んだのを聞いて、しっかりと名前を覚えようと思った。クラール様はジルベルト様の隣にいた貧層な私を見て、にこりと笑う。

「それで、この子が君の言っていた黒猫かな。驚いた。最近の猫は人間に化けられるの?」

「そんなわけがあるか。人間だ」

 黒猫? と首を傾げる。クラール様は笑顔のままでジルベルト様に詰め寄った。

「それならそれで、どうして最初から人間だと言わないのかな。君の手紙には黒猫、としか書いてなかったと思うけど? 僕は子猫が来るものだと思って準備していたらどうするつもり?」

「してもいないくせによく言う」

 ジルベルト様は笑って、私の肩を押す。肩までしかない私の黒髪が揺れた。

「どうだ、磨けば将来有望そうな美人だぞ」

 クラール様の真正面に立たされた私は、どうすればいいのか分からずに固くなる。クラール様は紫色の瞳でじぃっと私を見た。

「はじめまして、だね。僕はクラール。君の名前はなぁに?」

 大人の男の人から出た言葉だとは思えない、優しくくだけたセリフに、私は思わず笑ってしまった。そして質問されても答えられないことに、しょんぼりと肩を落とす。

「この子は今、話せないんだ。精神的な問題で」

 文字も書けないから、名前も何も分からない。ジルベルト様は私に代わってそう説明してくれるけれど、たとえ話せても私には名前がない。

 あったのは、御主人様のお屋敷にいた時に区別するためにつけられた番号だけ。六番。それが私に与えられた呼び名だった。

「……そっか、じゃあ年は? いくつかな? 僕は今年で二十二歳だよ」

 そう言いながらクラール様は左手と右手の指をそれぞれ二本ずつ立てる。にじゅうに、と言いながら先に右手を揺らした。そして私の小さな手をとって、軽く握らせる。一本たっていると「いち」二本たっていると「に」といった風に両手を使って十まで数えた。私は何度か手を握ったり開いたりをしながら、最初にクラール様がやったように右手で「いち」左手で「よん」と示した。

「じゅう、よん、さい?」

 クラール様が少し驚きながら私の示した数字を当てる。私がこくりと頷くと、クラール様とジルベルト様は顔を見合わせていた。

「……十歳くらいかと思っていたんだが」

 私の頭上でジルベルト様が信じられない、と呟く。クラール様もなんともいえない顔で笑っているから、私はたぶん普通の十四歳よりずっと小さいんだろう。お嬢様は私より一つ下の十三歳だったけど、私よりもずっと背が高くて丸みを帯びた身体をしていた。

「それじゃあ、君は大きくなるためにたっぷり食べないといけないね。君の最初の仕事は、たくさん食べてたくさん寝ることだな」

 え、と私は困ったようにクラール様を見る。

 それは今の私にとってとても大変な仕事だった。ジルベルト様のお屋敷でも、食べては吐いてばかりいたのに。そして一日中何らかの仕事をさせられていた私にとって、長く眠るというのは難しいことだった。ある程度眠ると、身体が自然と起きてしまうのだ。

「不満そうだね、お姫様? でもそのふたつがちゃんと出来るまでは、他のことを許してあげるわけにはいかないよ」

 顔に出ていたのだろうか、クラール様は私の顔を見てくすくすと笑い、戸惑う私の身体をひょいと持ち上げた。困惑する私のことなどおかまいなしに、クラール様は屋敷の中へと入っていく。

「君の部屋を決めなくちゃね。日当たりのいいところがいいかな。その前に掃除しないと駄目かもしれないね」

「どうせだ、家具も新調してしまえ。この屋敷はどれも古いものばかりだからな」

「それもいいね」

 私には何が起こっているのか分からなかった。自分の名前すらもたない私が、部屋? 家具? そんな贅沢はありえなかった。眩暈がする。私は首を横に振って、そんなことをする必要はないと訴えた。だって、今クラール様が歩いている廊下の絨毯でさえ、私が眠っていた物置に比べたらはるかに上等なものなのだ。

「何? 何か言いたいことがあるのかな?」

 クラール様は私にそう問いかけてくる。こくこくと頷くと、クラール様は意地悪げに笑った。

「そっか。でもね、話してくれなきゃ分からないよ? 言いたいことがあるなら、早くしゃべれるようになろうね」

「……っ!」

 私は悔しくなって唇を噛み締めた。だって、話したくても声にならないんだもの。もともと極力話さないようにしていた私の声帯は、あの夜の出来事ですっかり臆病ものになってしまったらしい。

「おまえ、子ども相手に大人げない」

 ジルベルト様が呆れたようにクラール様に諭したけれど、クラール様は「だって」と反論した。

「声が出なくても大丈夫だよ、いつか話せるようになったらいいんだよ――それじゃあこの子のためにならない。いいかい、悔しかったら、早く僕に言い返してごらん」

 私は口を動かすけれど、音にはならない。悔しくて悔しくて、私は拳を作ってクラール様の頭をぽかっと叩く。力は入れていない。ただ抗議したかっただけだ。

 クラール様は一瞬ぽかんとして、そしておかしそうに笑う。

「意外にじゃじゃ馬かもしれないなぁ、君は」

 ここまで来るのに疲れたでしょう、そう言ってクラール様は使用人に何か指示を出す。クラール様が扉を開けると、そこには広い部屋があった。応接間、だろうか。

 抱えられていた私はふかふかのソファの上に下ろされる。目をぱちぱちさせている間に、私の目の前には甘いお菓子と温かな紅茶が用意された。甘い香りはお腹を刺激するけれど、どうにも食欲は湧かない。

 じっとお菓子を見つめているだけの私の隣で、ジルベルト様とクラール様はこれからのことを話しているようだった。

 とりあえず今日は客室に泊まるといい。明日からいろいろと準備をしよう。

 クラール様の言葉に、ジルベルト様は目を細める。おまえなら、この子を引き取ってくれると思った、と。

 足元の絨毯はふわふわとしていて、ひどく現実味がない。

 私は心のどこかで、これは夢なんだと思っていた。




 雲の上で眠る夢を見た。原因はふかふかの寝台のおかげだろう、と目を覚ました私は思う。

 まるでお姫様が眠る部屋のように豪華な客室に、私は一人で眠った。ぼんやりと周囲を見回して、ああ今日も夢じゃなかったんだな、と思う。毎日が本当に夢のようで、毎朝あたたかくやわらかな寝台の上で目覚めるたびに、私は自分の頬をつねって現実であると確認する。

 呆けている間に使用人のお姉さんたちがやって来る。私が着ていた夜着は瞬く間に脱がされ、ワンピースを着せられる。髪は櫛を通されて、黄色のリボンで結われた。それだけで私は普通の――いや、普通よりもずっと上等な、育ちのよさそうなになれる。

 しかし貧相な身体はとても健康そうには見えない。せっかくのワンピースもリボンも台無しだ、と私は思った。


「おはよう、黒猫さん。今日もよく眠れた?」


 準備を終えて部屋を出ると、廊下でクラール様が待っていた。これも、毎朝のこと。クラール様は客室まで迎えに来て、共に朝食を食べるため食堂へ向かう。

 名前を持たない私は、クラール様から「黒猫さん」と呼ばれている。ジルベルト様はその呼び方はあんまりだろう、と顔を顰めたが、私はまったく気にしなかった。

 私の世話をしてくれる使用人の人たちは、私のことを「お嬢様」と呼ぶ。その呼び方の方がはるかに私には相応しくないものに思えて、曖昧に笑うしかできない。

 声は、未だに出なかった。

 クラール様のお屋敷にやってきて、三日が経ったけれど、私の喉は音を生まない。食事だけはどうにかとれるようになったので、それだけでも進歩というべきなのだろうか。

 私の手をひいて歩くクラール様が寄り道するのも、この三日ずっと続いていた。秋の花に彩られた庭に出て、朝露に濡れる葉の瑞々しさを見つめながらぐるりと庭を一周。

 その間、クラール様はとりとめもないことを話している。今日もいい天気だねぇ、とか。お腹が空いたねぇ、とか。私の返事は求めない。ただ手を握り、ゆっくりゆっくりと歩くだけ。

 じんわり、じんわりと、穏やかな時間が胸に染み込んでいく。


 ねぇ、クラール様。どうして私にやさしくしてくださるんですか?


 問いたくても、言葉は出ない。

 精神的な問題、と言われているけれど、私の喉はとうの昔に壊れていたのかもしれない。旦那様の家では「はい」と答えるばかりで、まともな会話などした覚えがないのだから。

 だから、神様がもうおまえに声はいらないよ、とおっしゃったのかもしれない。そんな風に思う。

「黒猫さん、今つまらないこと考えたでしょ」

 ふと、頭上から声が落ちてきて、私はクラール様を見上げる。

「ここ、皺寄ってるよ」

 つん、と指差されたのは、眉と眉の間。

「ねぇ、黒猫さん。君が声を出せないは、君の心の問題だよ」

 クラール様は私の前に立ち、しゃがんで目線を合わせた。大きな手のひらが、私の黒髪を撫でる。

「君はたぶん、他の人と話す必要がない環境にいたんだろうね。だから、声を出すことに、意志を伝えることに、必要性を感じていないのかもしれない。でも、ここは以前いた場所とは違うんだよ。好きにしていい。好きにしていいってことは、自分が何をしたいのか、伝えなければいけないんだ」

 何をしたいか、なんて。

 そんなことを考えたこともない私に、どうしろというのだろう。

 御主人様のもとでも、旦那様のもとでも、私がしたいことなんて、考えることはなかった。考えても意味はない。私は奴隷で、この身体を自由にできることなどなかったのだから。

「嫌なことは嫌だと言って。うれしかったならうれしいと言って。少しずつでいいから、君のを伝えて」

 約束だよ、とクラール様は私の手を持ち上げて、小指を絡める。ああ、こんなおまじないがあったな――。ご主人様のお屋敷で、同じ境遇の子たちと過ごした日々を思い出した。クラール様は微笑むと私の手をまた握り、そして、ゆっくりとまた歩き出す。

 行こうか、黒猫さん。

 そう言って。

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